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第42話
大学図書館の屋上は赤い三角屋根の時計台があり、空中庭園として整備されているにもかかわらず、滅多に人がやってこない。野生化したローズマリーとミントと多肉植物がはびこって、湿気を含んだ風に揺れている。
周防は地下鉄通勤の日に買ったボンタンアメ色のネクタイと、肩まである亜麻色の髪を風に揺らした。
僕は洗いざらしの髪のまま、メガネも掛けず、ノーネクタイにワイシャツとトラウザーズという、仕事ともプライベートともつかない姿で、湿った風の匂いを嗅ぐ。
周防と僕は柵にもたれ、自分たちの学び舎を見渡した。
そんなに広いキャンパスではないけれど緑は多くて、眼下に見える木陰のベンチは僕たちの臨時のオフィスにも、休憩スペースにもなった。ふたりでノートパソコンを広げて仕事をして、授業中に不在着信があった取引先と電話で話して、学食でカレーを食べた後は僕は本を読み、周防は僕の膝に頭を乗せて昼寝をしていた。
「会話しても、聞かれないんだね」
「ああ。愛の告白でも何でも、好きなだけ言っていい」
「ふーたりきりだねー、こんやからはー、すこしてれるーよねー」
かすれるくらいの小さい声で歌ったら、周防が小さく笑った。
「環境に適応しすぎ。俺とふたりきりのほうが照れるってどういうことだ」
「好きな人とふたりきりになったら、少しは照れるようなこともしたいよね」
周防はキャンパスから僕に視線を移した。
「キスしていいか」
「ダメ。あとで」
あとでならいいのか、と周防が笑ったとき、ウッドデッキに靴底が擦れる音がした。光島さんだった。
伸びた髪は半分近くが白髪で、髪の毛同士が皮脂でくっついていた。カビのような髭が口の周りから頬にかけて点在していて、身につける衣類にこだわりはなく、垢じみたシャツも膝のあたりがたるんだチノパンも、皺だらけのぐしゃぐしゃだ。
「佐和くん、私も会いたかったですよ」
こういう光島さんの姿を見るのが初めての周防は、目を伏せ、軽くうつむいて息を吐いてから、改めて顔を上げる。
「佐和への接触やつきまとい、盗聴、盗撮などの迷惑行為は、今後一切止めていただきたい。この念書にサインしていただければ、警察への通報は控えます」
バインダーに挟んだ念書を差し出したが、光島さんは僕しか見ていなかった。
「私も佐和くんに会えて嬉しいですよ」
「僕は嬉しくない。僕は光島さんには何の興味も関心もありません。迷惑ですから、今後一切僕に関わらないでください。顔も見たくないし声も聞きたくない、あなたの名前すら見聞きしたくありません」
「可哀想に。周防くんに洗脳されている」
「洗脳なんかされていない。僕は自分の意思で話しています」
「洗脳されている人は、皆そう言うんです。あのとき私が佐和くんを支配下に置かず、周防くんのもとへ帰してしまったのがいけなかった。許してください」
あのとき、という語がいつを指すのかわからない。怪訝に思ったのが表情に出た。
「周防くんと喧嘩して、私の部屋へ来た日です。私は佐和くんの気持ちを考えず、周防くんを呼んでしまった。ふたりが部屋を出て行って、私は見送るつもりでベランダから通りを見ました。周防くんは佐和くんの手を掴み、佐和くんは人差し指1本だけを仕方なさそうに周防くんの手に預けた。そのとき、ようやくわかったんです。佐和くんは、周防くんから逃げて、私のところへ来たかった。それなのに私が周防くんを呼んでしまったから、一緒に帰らざるを得なかった。さぞつらかったでしょう」
僕は約10年前の記憶を辿る。
あの頃、光島さんが住んでいた部屋は5、6階くらいの高さにあった。辞去した僕たちは人通りの少ない道を並んで歩きながら、自然に下ろした手の位置で、互いの気持ちの落としどころを無言で探りあった。そんな小さな手の動きまで、どうやって見ていたのか。あの当時から、今のようにレンズを覗く趣味があったのかと思う。
「僕もその日のことは覚えていますが、僕は自分の意思で周防と一緒に帰りました。つらくないです」
「周防くんが隣にいたら、そう言うしかないですね」
「いいえ、僕は自分の意思でここにいます。生涯一緒にいたいと思っています」
「佐和くん、目を覚ましてください。今の佐和くんは、周防くんが何重にも張り巡らせている巧みな策略によって、好きだと思うように仕向けられているだけです。本当に好きな人が誰なのか、思い出してください」
「僕が好きなのは周防です」
「いい加減にしなさい! 講義中は私を見つめ、何か理由を見つけては連絡を寄越し、『光島さんがお兄さんだったらいいのに』と言い、裸で私を誘って、仕事中でも私に笑いかけているでしょう。佐和くんが本当に好きなのは私です! 目を覚ましなさい!」
両手は身体の横で血色を失うほど強く握られ、唇はわなないていた。
「光島さん、待ってください。誤解は解いておきたいです。
講義中に先生の話を聞く、人の目を見て話を聞く、それはそんなに特殊なことではありません。僕は光島さん以外の人の話も目を見て聞きます。特別光島さんだけを見つめたことはありません。
何かにつけて連絡するというのも、業務上必要であれば僕は誰にでも連絡します。理由を見つけて連絡しているのではなく、理由があるから連絡しているんです。僕が理由なく連絡するのは周防だけです。
『光島さんがお兄さんだったらいいのに』は、何度も言っていると思いますが、それは僕が光島さんを尊敬していたからです。僕には姉しかいないので、こんなお兄さんがいたらいいなという気持ちは確かにありました。でも、姉と結婚してくれと思ったことはありません。もしそんな理由で姉と結婚したんだとしたら……ちょっと言葉を失いますけど。離婚してよかったと思います。姉に対して数々の暴力を振るったことについては、僕も光島さんを許すつもりはありません。
裸で誘ったというのは。褒められたことではありませんが、あの店にいるときの僕は誰に対しても同じようにしていました。マスクがドレスコードに設定されている日のみの利用でしたから、相手の顔はわからないし、身体的特徴を覚える気もなくて、特定の誰かと繰り返し行為に及んだ認識はまったくありません。はっきり申し上げて僕は相手が光島さんだと認識してセックスしたことは一度もない。
仕事中の笑顔は、僕の場合SSスラストの印象をよく保つための作り笑いがほとんどです。社内外問わず誰にでも、SSスラストのことはなるべく好きでいてもらいたいですから。
僕と周防の間の誤解も解消されるかな?」
「俺はいつでも佐和を信じてる」
「不安になったときは、強がらないで正直に聞いてもらったほうがいい」
「説明のおかげで、不安は充分に解消された」
光島さんは、僕を哀れむような目で見て、ゆっくりと首を振る。
「佐和くんは、私のことが好きでしょう。なぜそんな嘘ばかりを言うんですか。周防くんの策略から抜け出しましょう」
僕は話が振り出しに戻ったのを感じて、鼻から大きく息を吸い、光島さんの向こうにある東京タワーを見た。
「策略って何ですか? 僕が光島さんから起業の提案を聞いたときに、『周防を連れてくるから、もう一度周防と僕に同じ話をしてください』とお願いしたことですか。この話を聞けば、周防は絶対に面白がる、僕と一緒にやろうと言い出す、ふたりでやったら絶対に楽しい、そう思って周防を光島さんの前へ連れて行ったことが策略ですか」
僕の視界の端で、周防は少し目を見開いてこちらを見ていたが、僕は構わず話し続けた。
「ウチで酒を飲もうと誘って『泊まっていけば』と引き留めることも策略ですか。そのときに客間へ案内せず、自分の部屋の狭いベッドへ寝かせることも策略? 何かあったときのために部屋の合鍵を交換しておこうと申し出ることも、出張先で『ネクタイを汚したから昨日使っていたネクタイを貸して』と頼むことも、重要なプレゼンの前に『不安と緊張で寝られないから遊びに行っていい』と押しかけることも、全部策略? だとしたら、そんなのは僕だってしょっちゅう周防に仕掛けてます」
ただ小さく左右に首を振り続ける光島さんに、僕は話し続けた。
「こういうのは、策略とは違います。好きな人と接点を増やすためのきっかけ作り、言い訳です。周防のきっかけの作り方は少し巧妙だけど、いいじゃないですか。僕は彼のジョークはくだらないと思うけど、彼のきっかけの作り方は面白くて好きです」
僕はもう一度、ゆっくり鼻から息を吸い、東京タワーを見てから、光島さんの目を見てはっきり言った。
「僕は周防眞臣だけを愛しています。あなたに対する恋愛感情は一切ありません」
光島さんは、場の空気をかき消すように、大きな声でうわあああああっと叫んだ。
「私をバカにするのも、いい加減にしろ! 凛々可といい、お前といい、どこまで私をバカにしたら気が済むんだ! 私が何をした? どいつもこいつも、揃いも揃って私を貶めようとする!」
首や額の血管が浮きあがり、喉が裂けるような声が響き渡る。そうかと思えば突然頭を抱えて膝をついた。
「嘘だ。私が誰からも愛されていないなんて嘘だ。みんなが嘘をついているんだ……」
周防も僕もただ両手を後ろに組んで、暴力に及ぶつもりがことを示しながら光島さんを見守った。
顔を上げた光島さんは四つん這いで僕の足元に寄ってきて、僕のシャドーストライプのトラウザーズを握りしめ、太腿を撫で回した。
「なあ、嘘だろう? 本当は私のことが好きなんだよなぁ? そうだろう? 私のことが好きで、好きで仕方ないから、こんなことを言うんだよなぁ?」
僕は光島さんを見返しながら、こわばる身体を動かして、しっかりと首を横に振った。
「僕は、光島さんのことは好きではありません」
後ずさって光島さんの手から離れると、光島さんはまた床に手をついた。
光島さんはしばらく床に手をついていたが、片膝をあげると短距離走のスタートを切るように、唐突に床を蹴って屋上の端に向かって走り始めた。
「ダメだ、光島さん!」
ウッドデッキを革靴の底で蹴って手を伸ばしたのは、僕ではなくて周防だった。
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