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第43話

 どこにそんな瞬発力があるのかと目を見張るスピードで光島さんは走り、運動神経抜群な周防が追いついたときには、身体は柵の向こうへ落ちかかっていた。 「離せ! 死なせろ! こんな恥を晒して生きていられるか!」 「光島さん、落ち着いて。あなたのやるべきことは、そんなことじゃない」  周防は光島さんのシャツを握り締めていた。  柵の向こう側にもスペースはあり、すぐに転落することはなかったが、それでも1メートル先は奈落だ。建物の高さに加えて地下1階のドライエリアがあるから、よほどの幸運に恵まれない限り、命は助からないだろう。  僕もすぐに追いついて、光島さんの腰ベルトを掴んだ。 「暴れないでください。周防が手を離さなかったら、あなたの重さに引きずられて一緒に落ちる。周防はお人好しだから、崖っぷちの交渉は油断できないんです」  周防が苦笑しながら、大人しくなった光島さんの腕を掴もうとしたが、光島さんはその手を振り払った。 「暴れるなって言ってるのがわからないんですか! 僕が心配しているのは、あなたの命じゃない。周防の命です。周防の動きに逆らわないで」  僕は静かに光島さんに話し掛けた。 「光島さん、いいですか。周防が光島さんから手を離すまで、僕の言うとおりにしてください。柵に両肩をぴったりつけて、柵から離れずに、ゆっくり床に座ってください」  光島さんは僕たちに背を向け、金属製の柵に背中をあてたまま、ゆっくりと下へ滑ってコンクリートの床に腰を落ち着けた。周防は動きに合わせて場所を変えながら、光島さんの服を掴み続ける。  僕は周防の首に巻き付いている、ボンタンアメ色のネクタイを外した。 「柵のあいだから後ろに手を出してください。両手です。……そう、もっとしっかり手を出して」  光島さんの左右の手首を柵の内側で、ネクタイでしっかり縛った。 「おそらく関節に負荷が掛かっていますし、手首から先は血行不良で、神経も阻害していると思います。でも全治何か月の怪我になろうと、後遺症が残ろうと、光島さんはもう死んじゃうから関係ないですよね。……周防、手を離していいよ」  周防は半信半疑の顔で僕を見たが、僕が見返すと恐る恐る手を離した。 「このまま野ざらしで死ねると思います。この屋上庭園は人が来ませんし、剪定されていないローズマリーが伸び放題で見通しも悪いですから、死ぬまで発見される心配はないでしょう。明日から何日間か雨も降るらしいので、体温も充分奪われるし、そんなに長引かずに死ねるんじゃないですかね」  光島さんは暴れることもなく、黙って座っていた。 「もし生きている間に発見されても、僕と周防、そしてSSスラストの名前は出さないように。僕たちは二度とあなたには関わりたくない。念書にサインをもらってから縛ればよかったけれど、死ぬまで数日の我慢ですから、いいでしょう。では、ごきげんよう」  僕は周防を視線で促し、光島さんから離れた。  制限時間は30分と決めていて、僕は周防の左手首にあるダイバーズウォッチのベゼルを合わせる。  光島さんの視界に入らない場所にあるベンチに座り、スマホを片手に時間を過ごす。関係各所と連絡しながら、僕は光島さんの気持ちが落ち着くのを待った。 『周防:お人好しはどっちだ?』 『佐和:周防』  周防は声を殺して笑い、くしゃくしゃと頭を撫でてきた。  黙ってその手を振り払い、さらにからかって手を伸ばしてくる周防と無言の攻防戦が始まったとき、光島さんが身じろぎをした。 「……くれ。……て、助けてくれ! 助けてくれーっ!」  僕はキャンパスを行き交う人たちの注目を集める前に、光島さんの傍らに立った。 「念書にサインをいただければ助けますが、どうしましょうか」 僕は光島さんの顔の前で、念書を挟んだバインダーをひらひら振って見せた。  光島さんは頷き、今度は光島さんのベルトで柵に身体を固定して、ベルトを勝手に外さないよう周防が掴んでから、ネクタイをはずす。 「複写式になっています。内容を確認して署名を」  ネクタイで拘束されていた痛みからか、死への恐怖からか、あるいはプライドを傷つけられた怒りからか、理由はわからないが、光島さんは大きく震える手でボールペンを握り、自分の名前を書き込んだ。 「まぁ判別できるからいいでしょう。僕たちはこれ以上関わりたくないから、あとは専門家に任せます。……警察と病院、どちらに助けてもらいたいですか」 「病院?」 「僕が手配できるのは、そのふたつだけです。僕としてはもちろん警察を選びたい。実刑を食らって、公認会計士も辞めて、もっともっと社会的制裁も受ければいい。僕の処罰感情は決して軽くない。厳罰に処して欲しいと供述して、徹底的に追い込んでやる」  僕の口からは、自分でも聞いたことがないほど低い声が出ていた。これが憎悪というものなのか。しかし、次の言葉には温もりが加わった。 「周防が、僕をそんな憎悪にまみれた人間にはしたくないそうです。愛が深い。いろいろ調べて、犬のジョンにも相談して、ストーカー行為をしてしまう人のための治療プログラムがあるという話を掴んできました。  酒、煙草、薬物、賭け事、人間。対象は何であれ、それがないと生きていけないと思い込んで、頭の中がそのことだけで一杯になって、日常生活に支障をきたす。法を犯してでも手に入れようとする。社会的信用を失うところまでのめり込む。そうなったら専門家の手を借りたほういいそうです」 「私は病気なんかじゃない。何にも依存していない。佐和くんへの盗聴や盗撮だって、やめようと思えばいつでもやめられる」  顎を上げ、早口で自分を取り繕うようにしゃべる光島さんに、僕は鋭い声を飛ばした。 「では、やめてください。二度とこんな迷惑行為を繰り返さないように。あなたを信じた人たち、尊敬した人たちが、これ以上傷つけられ、裏切られないように。きっぱりとやめてください! ……今まで、お世話になりました。二度とあなたには会いません。死んでも僕の前には出てくるな」  僕が連絡するより先に約束の30分が過ぎ、白衣を着た男性がふたり、からっぽの車椅子とともに現れた。  ひとりはミルクティ色の巻き髪が目立つ、周防よりもっと日本人離れした容姿を持つ青年だ。若草色の瞳で僕と周防とアイコンタクトをとり、明るい声で光島さんに話し掛ける。 「ごきげんようございますのん。拙者はジョンちゃんのお友だちで遥ちゃんっていいますのん。SSスラスト系の人じゃなく、医療法人社団渡学会(とがっかい)系の人だから、ご心配はご無用で、なんとびっくり、今は本院の院長さんをしてるんだわ」  白衣の裾が床に触れるのも構わずしゃがみ込み、光島さんと目の高さを合わせる。 「平素はおつらい気持ちを抱えられて、何とぞよく頑張ってこられましたのん。あなたが死を選ぶ前にできること、医療がお手伝いできることは、まだまだたくさんあるって思いますのよ。設備の整ったご自慢の分院へご案内致しますから、どうぞいらしてくださいな」  光島さんは距離をあけるように肩を引いて院長を見たが、院長の笑顔をしばらく見つめてから頷いた。  周防と白衣の男性ふたりが協力して、光島さんを柵の内側へ引っ張り込み、車椅子に座らせる。車椅子には太いベルトがついていて、腹部でしっかり締めてから、バスタオルで下半身が覆われた。  院長は話し方は不思議だが手つきは確かで、手際よく血圧や体温を測り、ペンライトで目と口の中を調べ、全身の状態を確かめ、聴診器をあてる。 「バイタルオッケー、お胸もお腹もきれいな音なのん。手首がちょっと痛そうですけれど、一時的なもので冷やして様子を見ればだいじょぶって思うんだわ。さて、遥ちゃんは麻酔科医だから全身状態は診れるけど、心の中は難しいのん。ということで、じゃーん、こちらが精神科医ですのよ」  前下がりのボブカットで顎まである前髪をさらさら揺らす男性が、光島さんの肩に手をあてて話し掛けた。 「精神科医です。分院の院長を務めています。詳しいお話は、車の中で伺いしましょうか。地下駐車場に担送車を待機させていますから」  光島さんは黙って頷いた。 「おーいえー! ご案内する分院は自然に恵まれた場所にあるから、のんびりドライブ気分で行くんだわ。♪たんそうしゃーにのってます、きっぷはじゅんにわたしてねっ、おとなりへっ、はい、おとなりへっ、はい♪ ジュンってお名前だったら切符をもらえるのに、遥ちゃんはジュンってお名前じゃないから、切符はもらえなくて残念なんだわー」  院長は明るくしゃべりながら、慣れた動作でぐいぐい車椅子を押して、エレベーターを使い、地下駐車場を歩く。  救急車に似たデザインで病院名が書かれた担送車が待機していて、車椅子が近づくとスタッフが出てきた。 「後ろ、開けるよ!」  院長は待機していたスタッフに向けて真面目な声で呼び掛け、中指の第2関節でハッチバックドアをノックしてから跳ね上げて、ストレッチャーを引き出す。  光島さんはスタッフに囲まれながら、ストレッチャーに移乗した。  そのまま担送車へ乗せられて、ふたりの院長がストレッチャーの傍らに乗り込む。 「では、出発進行なのん。あでゅー! ジョンちゃんには、また遠吠えでご連絡しますのん」  名残を感じさせずにハッチバックドアが閉められ、担送車は走り去った。  僕はしばらくぼんやりしたが、周防にヘッドロックをかまされて我に返った。僕の何の飾りもない耳に、周防の唇が触れる。 「残念ながら、シナリオ通り取締役会での承認は得られず、株も買い取ってもらえなかった。明日からはまた仕事だ。デートするなら今日がチャンス。ファーストキスはどんなシチュエーションがいい?」 「ロマンチスト! 童貞でもあるまいし、キスするだけなのに、シチュエーションなんかいらない。まわりの迷惑にならないところならどこでもいい」 「ロマンチストな俺はこだわりたい。海を見に行こう。ついでにオヤジさんのところで、結婚指輪の相談も」  白いスポーツカーは、一路海を目指した。

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