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第44話

 僕は屋上で見た光島さんの姿を思い返していた。僕に向かって膝をにじって迫ってくるとき、彼の姿はボロボロに錆びた鉄のように見えた。骸骨よりももっと崩れて、血の臭いをまとって、あのとき、僕は助けを求めて縋りつかれたという気がする。  助けを求める手を、僕は振り払ってしまった。  仕方のないことだとわかっていても、なかなか気持ちは晴れない。  僕は周防のスマホを勝手に操作して、『Nirvana(ニルヴァーナ)』のプレイリストを再生した。 「佐和の好きな曲でいいのに」 「佐和の好きな人が好きな曲を聴きたいときもある」  僕は勝手に周防のスマホの画像フォルダを開ける。僕の画像はたくさんあるから専用のフォルダがあり、その中はさらに年度やイベントごとに分けられていて、大学1回生の春からの記憶が全部入っている。  特に大学2回生の頃は、光島さんと一緒に写っている画像が何枚もある。  光島さんは、大学で講義する日はアイビールックが多かった。丁寧に手当された紺のブレザーにクリーニングされた皺ひとつないシャツとチノパン、清潔な靴下、磨いた靴。ゆるやかにクセのある髪を自然に流して、どの学生の話も目を見てきちんと聞いて、穏やかな笑みを浮かべていた。  土曜日の選択科目だったにも関わらず、光島さんの講義は実学的で人気があった。僕も馬術部の先輩たちから話を聞き、1回生の頃に周防とふたりで講義に潜り込んで、そのアカデミックの対極にある講義内容に感銘を受けた。  夢や希望を歌わない現実的な歌詞を耳に聴きながら、僕は講義の内容を思い出す。 「ニルヴァーナ、佐和はそんなに好きじゃないだろう?」 「好きだよ。ただ、カート・コバーンって、歌もギターも下手だなって」  僕が笑うと、周防も笑った。 「それはたいていのファンが気づいてる」 「上手い下手と、人の気持ちを動かすかどうかは、別次元の話なんだよね」 「セックスとか?」  さらっとそういう方向へ話を持って行く周防に、僕はつい笑ってしまう。僕だってそういう話題は嫌いじゃない。 「セックスもそうかもね。テクニックや形状よりは、気持ちと知識と相性かなと思う。でも、セックスの話じゃなくて……光島さんは下手だったのかなって。自分の気持ちの表し方とか、さ」  僕の言葉に周防は頷いたが、前を見たままはっきり言った。 「下手だからって、俺は許すつもりはない」 「そうなんだけど。あんなに錆びてボロボロになる前に、なにか方法はなかったのかなって」  周防はしばらく前を見たまま車を操り、対向車とすれ違った音をきっかけに口を開いた。 「こういう例えが適切かはわからないけれど。たとえば風邪を引いたと感じてから、病院へ行こうと決心するまでには、ある程度、症状が進行する必要がある。本人が治そうと思わないことには、医者だって治療はできない。今回が、光島にとっては症状が進行して、初めて治療を受けるチャンスになったんだろう。その前に防ぐ方法は、残念ながら俺は思いつかなかった」  ニルヴァーナの音楽に少し耳を傾けてから、周防は言葉を続ける。 「もしもお姉ちゃんと偽装結婚していたら、佐和に振られる覚悟でしっかり告白していたら、光島と早いタイミングで正面切って話していたら。いろいろなタラレバを考えたけれど、どれも難しかったと思う。できていたら、やっていたよな」  周防は悔しさを吹き飛ばすように、口から強く息を吐いた。 「うん。できていたら、やっていたよ。できなかったんだ。仕方ない」  それは僕も何度も反芻し、検証した。お姉ちゃんが結婚し、僕が周防への恋心に気づいた1年前まで時間を巻き戻しても、それより昔へタイムスリップしても、僕と周防が出会った日まで遡ったって、変えられなかったと思う。 「お姉ちゃんに関しては、もっと早くに気づきたかった。それは後悔してる。結婚前から酒を飲むと言葉の暴力はあったらしい」  周防はまだ消化しきれない怒りをハンドルにぶつける。 「マジか。どうして結婚するかなぁ……」 「孤独で、とても弱い人だから、自分が家族になってあげなきゃと、その当時は思ったらしい」 「お人好しにもほどがある」 「佐和も。俺のことを言う割に、情に脆くて危なっかしくて、お人好しにもほどがある」 周防の声は優しくて、その言葉に愛撫される感じすらした。  海は灰色の雲に覆われていたが、切れ間から太陽の光が差し込んで、天使の梯子がたくさん海面に向かって下ろされている。  周防は本当にオヤジさんのダイビングショップまで車を走らせ、僕は娘さんと結婚指輪の打ち合わせをした。 「佐和が納得して気に入ったデザインがいい」 周防はそう言い張ったが、サンプルやデザイン画に目を輝かせている。 「夢があるなら、聞くよ。周防?」 「一目で結婚しているとわかる、目立つ指輪がいい!」 声を弾ませる周防に、僕はゆっくり深呼吸した。娘さんは下を向いて笑っている。 「聞いてよかった。僕の希望とは真逆だった。僕はさりげなく、どんな場面でもつけていられるデザインがいいと思ってた」 「確かにどんな場面でもつけていたい。さりげなく、どんな場面でもつけていられる、なるべく目立つ指輪がいい」  周防はそれだけ言うと、オヤジさんを手伝いに行き、僕は周防の理想を具現化するために、デザイン帳を片っ端からチェックした。この役回りは多分一生変わらないんだろう。 「では、よろしくお願いします」  ダイビングショップを出て、周防は橋のたもとで車を停めた。白いワイヤーで吊られた橋は海に映え、サーモンピンクの空を透かして光っていた。遠くには東京タワーも、僕たちがオフィスを構える高層ビルも見える。  ボンネットに並んで座り、海から吹き上げるオンショアの風に髪を遊ばせた。 「こんな場所があったんだね」 「さっきオヤジさんに教えてもらった。ロマンチックなデートができる場所を教えてと」 「さすが周防。……気持ちいい」  僕はボンネットの上に仰向けに倒れた。鳶が甲高い声をたなびかせながら円を描く。灰色の雲は風に乗って早く流れて、合間からときどき太陽が顔を出す。  空と僕のあいだに周防の顔が表われた。  僕は周防の肩へ手を回し、周防は僕の顔の横に手をついて、ゆっくり距離を狭めてくる。  今まで経験したどのキスよりも緊張し、喜びで胸が高鳴った。  直前で周防は優しく目を細め、僕も目を細めて答える。  ゆっくり触れた唇は柔らかく、僕は静かに目を閉じた。  背中のボンネットは風に熱を奪われて冷えていき、身体のおもてには周防の体温がある。差し込まれた舌を迎えて柔らかく絡め合いながら、僕はこの先の人生を考えた。  世界は目まぐるしく変化して、昨日まで信じていた人に今日から裏切られることもあるだろう。僕たちだって誰かを傷つけながら進んでいるのかも知れない。でも僕は周防の体温だけを感じて、周防だけを信じて、周防だけを選んで生きていく。  周防はいつだって時代の最先端を走り、未来を切り開いていくだろう。  それはときには無謀で危なっかしい運転に思えるかもしれないが、僕なら周防の運転する車の助手席に座り、ナビゲーターの役割を果たせるという自負がある。  今までも、これからも、僕たちはきっと変わらない。  周防の舌の動きは優しく、柔らかくて、いつまでもしゃぶっていたい気持ちよさだった。僕は今だけは全部忘れてキスに没頭することを自分に許し、目を閉じて舌を絡めて、存分にその感触を味わう。  周防の舌が逃げて、追いかけて周防の口の中へ舌を差しこんだら、そっと歯で挟まれて、舐め回された。ぬるぬるとくまなく舐められ、さらに吸われて舌の付け根が微かに痛む。その痛みも快楽に変換されて、僕の全身を巡った。  呼吸が苦しくなるまでキスをして、鋭い鳶の鳴き声を合図に口を離した。  ちょっと照れて上目遣いに互いを見ながら、舌で口の周りの唾液を舐める。 「キスするまで長かった」 「うん。でも必要な時間だった」 僕たちはどちらからともなく手を広げ、しっかりと抱き合った。

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