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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(2)
大学1回生の初夏、母校の水球の試合を観戦した日、初めて『親友』という言葉を用いて、自分たちの関係を定義した。
「友情は愛と尊敬。そして友たるに相応しい自分であること」
佐和は、帰りの電車の中で、青い傍線を引いたキケロの『友情について』を手に、背筋を伸ばした。
「会えばくつろぐというのは、すでに体験している」
俺は佐和の肩にもたれたまま、一緒に本を見た。
「逆境に会えば身を引き締める、というのも」
俺は頷いた。佐和が飲み会を抜け出して駆けつけてくれた姿は、いつ思いだしても感動する。
出会った瞬間に一目惚れをして以来、気持ちはつのる一方で、まったく減る気配がなかった。
ずっとずっと一緒にいたい。卒業や就職、結婚をしても、ずっとずっと一緒にいたい。何か方法はないかと考えた。
愛と尊敬を持って、佐和と結婚できれば最強だろうが、さすがにそれは現実的ではない。だとしたら、佐和が目指している公認会計士を俺も目指し、下積みを終えたら、一緒に会計事務所を立ち上げようか。
「でも、佐和は監査法人で、大手のクライアントを担当したいかな」
そのあたりまでは真面目に考えたが、恋する男の思考は、簡単に夢の世界へ飛躍する。
一緒に店を出すのはどうだろう。
たとえば、ブックカフェ。
佐和の好きな本と、香り高く美味しいコーヒー、様々な形の座り心地のいい椅子、そして本から顔を上げたときに初めて気づく、ささやかな音楽。
エプロンをつけた佐和が、仕事の合間にスツールに腰かけて、読書に耽る姿まで思い描く。幸せな光景だ。
居酒屋、バー、食堂、喫茶店、古着屋、雑貨屋、レコード屋、ライブハウス、コンビニエンスストア。自分がよく行く場所を思い浮かべる。
恋する男のお花畑な頭で妄想するからか、佐和とふたりだったら、どんな商売でも上手くいくイメージばかりが湧いた。
「何をするにしても、開業資金だな」
佐和に一緒にやろうと声を掛けるにしても、先立つものが必要だ。
その頃はまだ、プレゼンして出資者を募るという発想はなかった。さっそく居酒屋のホールでバイトをはじめ、次にボーイズバーのキャッチになった。
あとは誘われるまま短いスパンで転々と、キャバクラのボーイをやり、スカウトをやり、デリヘル嬢の送迎や高級ソープランドの黒服もやり、ホストクラブに入店した。
それまでも水商売を面白いと思っていたが、ホストの仕事は天職かと思うくらい面白く、肌に合って、初日から店の中を自由に動き回った。
勘が働き、すぐにコツを掴めて、教わらなくても身についた。1回の来店で姫 の懐具合や将来性を見抜き、見込みがあれば営業をかけて太客に育てた。仮想恋愛の駆け引きも、シャンパンのお願いも、いくらでもできた。
何店舗も構える大所帯の店だったが、入店の翌週にはラスソン を獲り、グループ全体のナンバーワンを獲るまでも2、3か月だったと思う。
俺はすぐ調子に乗った。
佐和に褒めてもらいたくて、何もかもしゃべった。
「俺に落とせない女なんかいない。すべては数字だ。数字を持っているヤツが強い」
そんな思い上がった発言を繰り返していたある日、佐和は大きく頷いた。
「世界中のどんな女性も、周防に魅了されると思うよ。ホストの仕事を始めてからの周防は、とても力強い目をしてる。大きな数字だってとれて当然だって思うよ。向かうところ敵なしだね」
本気の口調で褒めてくれてから、表情を和らげた。
「トップになったら、今度は気配りが大変だね」
「気配り?」
「うん。周防が追い抜いてきた人や、サポートしてくれる人が、周防と一緒に気持ちよく働けるように、気配りしなきゃいけないんだろうなーって。ひとりひとりを大切にして、いいところを認めて、褒めたり、励ましたり、たくさん『ありがとう』を言わなきゃいけなかったり」
佐和はさらに優しい表情になって、俺に笑いかけた。
「周防は水球でチームワークがわかっているし、情に厚い優しい性格だから、そういうのは得意で、すでに上手くやってると思うけど。僕はそういうのが苦手だから、周防はさすがだなって思うんだ」
自分がナンバーワンになることしか考えていなかった俺は、虚を突かれた。
「あ、ああ……がんばる」
「周防って、やっぱりカッコイイな」
目の前で佐和の笑顔がはじけた。
佐和にかっこつけたくて、俺は急に地に足を着けて、周りを見るようになった。そこへさらに追い打ちの笑顔を食らう。
「周防って、強さだけじゃなく、謙虚さまで持ち合わせていて、本当の王者って感じ」
「あ、ああ……謙虚……な」
そう言われて、途端に謙虚になった。酒を作ってもらって当然、持ち上げてもらって当然、カネを払ってもらって当然という意識は180度変化した。
俺の態度が変わったことで、店の中が競いあうだけでなく、高めあう上昇気流が生まれ、俺個人の数字も、店全体の数字も伸びた。自分が謙虚になったときの、取り巻く空気の変化は、起業前に味わっておいてよかったと思う。
たとえ謙虚がバカのひとつ覚えだったとしても、八方塞がりに陥ったとき、試す手段がひとつはあると思えるからだ。ゼロとイチの差は大きいと思う。
そんなふうにアルバイトをしている間にも、大学内でおこなわれる公認会計士試験の対策講座は進む。合格率が低い現実と、単位と関係ない勉強にモチベーションを維持できず、脱落者が続出した。教室の人口密度はあっという間に下がり、挙げ句には大教室から小教室へ変更になった。俺だって、佐和の隣に座っていたいという欲がなければ、とっくに脱落していたはずだ。
「周防は理解が早いね。もうわかったの? すごいなぁ!」
佐和が講座の内容を噛み砕いて根気よく教え、褒めてくれなかったら、とても頭に入らなかった。
せっかく教えてくれたのに、わからない、できないと言うのが嫌で、店の控え室や、女が寝た後のホテルでも勉強をした。
「周防、カッコイイ」
その頃、佐和はしきりそう言って、俺を褒めてくれていた。
カッコイイ周防でありたくて、佐和に見合う親友でありたくて、バイトも勉強もがむしゃらに取り組んだと自負している。
「よく受かったよなぁ」
結婚を機に、実家の佐和の部屋を整理することにして、本棚の隅に公認会計士試験のテキストと問題集を見つけた。
「周防は、めちゃくちゃ勉強してたもの。当然の結果だったと思うよ」
頭にタオルを巻き、軍手を嵌めた佐和が笑う。
佐和は余裕で受かると思ったが、自分まで受かるとは思っていなかった。
結局、卒業して実務経験を積むより先に、在学中に立ち上げた会社が軌道に乗り、公認会計士の登録をすることはなかった。しかし力を尽くし、報われるという貴重な経験を得たと思う。
手垢で黒ずみ、ぶわぶわと膨らむ問題集は、丸ごと佐和への恋心だな。当時の自分を微笑ましく思って、その近くに見覚えのない本を見つけた。
「『これぞ魔性! 彼氏を手のひらの上で転がす方法』。こんなハウツー本、買ったかな」
ホスト時代に何かヒントを求めて買ったのか。見開きページごとにハウツーが書かれた本をぱらぱらとめくっていたら、佐和が笑い出した。
「それ、僕が買ったんだ」
「行動経済学?」
「ううん。周防がホストクラブで1位をとったとき、テンション爆上がりで、目がギラギラしてたから。このままじゃ、周防の足許がすくわれそうだ、どうしようって思って。コンビニの本棚でぱっと掴んだ」
『プライドを傷つけない』、『褒めて伸ばす』、『悪いことではなく、よくなることを指摘する』。ページの角が折られた項目を読んだ。
「僕は言葉が上手くないから、何て言ったらいいかわからなくて。付け焼き刃のために買ったんだ」
思い上がっていた自分と、そのときに優しく褒めて伸ばしてくれた佐和を思い出す。胸が熱くなった。
「救ってくれて、ありがとう」
「どういたしまして。周防の親友でいたくて、必死だっただけ」
佐和の爽やかに笑う口に、思わず自分の口を押しつけ、心を込めて抱き締めた。
「愛してる」
「僕も愛してるよ」
抱擁を解き、片付けを再開させながら、佐和はまた笑った。
「彼女の手口も見えちゃって、僕の女嫌いに拍車がかかったかも」
「佐和が女嫌い? ずっと女とつきあってなかったか?」
「うん。僕も気づかなかったから、ずっと女性とつきあってたんだけどね」
佐和は眉をハの字にして、力なく笑った。
だとしたら、女嫌いだと気づいたときのショックは、いかばかりだったか。見ず知らずの男たちをはべらせ、つまらなそうにセックスしていた姿を思い出し、胸が痛くなる。彼は、俺の知らないところで、どんな葛藤を経験したのだろう。
「佐和が女嫌いでよかった。俺のライバルは世界人口の50.4%に限定される。大幅減だ」
派手なウィンクを決め、口の中で盛大にキスの音を立てたら、佐和が笑ってくれた。少しは慰めになっただろうか。
「周防には、ライバルなんかひとりもいないよ。どうしても僕を狙う人の顔を見たかったら、鏡を見て」
最近、佐和もときどきロマンチックな言動をする。言ったあとで背中を向け、耳と首を赤くしている姿を見て、本当に大好きだと思う。
恋とはまことに素晴らしい感情だ。
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