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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(3)

 ホストをやっていた頃は、カラオケで歌を歌うのも仕事に必要なスキルのひとつだった。店外営業で客に連れて行かれて歌うこともあるし、その日トップの売上げを上げたら、ラストソングといって閉店前に歌う儀式がある。  ラスソンも毎回同じだと飽きるし、姫のリクエストに応える必要もあって、練習を口実に、よく佐和を誘ってカラオケに行った。  佐和はカラオケで歌うのは好きじゃないが、俺は佐和がカラオケで歌う姿が好きだ。  苦手な場所へ誘うだけでは申し訳ないから、佐和の好きな場所もセットで誘う。 「佐和、新しい曲を覚えたいから、カラオケにつきあって。あと、図書館も」 「いいよ」  佐和は図書館から借りている本を手に、あっさり頷いてくれる。  途中、公園に寄り道をする。俺は咲いている花の写真を撮り、客に営業メールを送りつつ、その花の名前を覚える。ホストのバイトを始めて、客と会話するためには、幅広い知識が必要だと感じるようになっていた。  花の写真を撮る流れで、佐和の写真もたくさん撮った。俺が撮っていることに気づくと、レンズを見て涙袋をふっくらさせてくれる。 「カメラを意識しない自然な表情が欲しいから、予告せずに写真を撮りたい。そのかわり、俺のことも好きなタイミングで撮って」  そう話したのは、出会ってすぐ、まだオリエンテーリング期間中のことだった。 「写真を撮るのが好きなの? いいよ」  さっそくスマホを構え、顔をのぞき込むようにして撮ったら、佐和が照れた。その照れた顔も撮って保存した。 「佐和」  何度か繰り返すうちに、俺がスマホを掲げ、レンズを見ながら声を掛けるだけで、佐和は肩が触れる距離まで近づいてくれるようになった。 「いい写真が撮れた」  俺は佐和の肩に頭を乗せ、佐和は俺が伸ばし始めた髪をつまみ、口ひげのように自分の鼻の下にあてて、いたずらっぽく笑っていた。さっそくスマホのロック画面に設定した。  カラオケではアップテンポな曲で一気に盛り上げた。バイト先で覚えた替え歌に、佐和が手で腹を押さえながら笑ってくれて、誰を笑わせるよりも楽しいと思う。俺も本当の笑顔になる。 「周防は歌が上手いけど、僕は下手だから」  本人がそう思い込んでいるだけで、佐和は声もいいし、音感もいい。  ただ、カラオケが好きじゃないというのは本当で、前奏が流れて歌い始めるまでの間が持たなくて、落ち着きなく視線を泳がせ、照れくさそうにうつむく。そして、たまに音をはずすと顔を赤くして首を傾げる。クールで完璧な佐和も好きだが、こういう佐和の姿も大大大好きだ。  俺は接客の練習に見せかけ、佐和の隣に座って肩を抱く。胸の深いところから甘い声を出して、佐和の耳に流し込んだ。 「ねぇ、なんで照れるの? こんなに上手いのに。声もいいし、音程も合ってる。聞き惚れる」  佐和の歌声はお世辞抜きで心地よく、俺はそのまま佐和の肩に頭をのせて歌を聴いた。  1曲歌い終えて、佐和は大きく息をつく。俺は佐和の肩に甘えたまま、おねだりをした。 「ねぇ、もう1曲聞かせて。流行りとか気にしなくていいから」 「そんなにレパートリーないよ」 「合唱コンクールの歌は? 中学や高校で合唱コンクールってやらなかった? 『キセキ』とか『手紙~拝啓十五の君へ~』とか『夢をあきらめないで』とか」  食い下がる俺のために、佐和は記憶を辿ってくれる。 「そういえば『夢をあきらめないで』は、高1のときに歌った。テノールだけど」  きっと朝早い時間に集まったり、放課後にも居残りをしたりして、何度も練習したのだろう。途中でテノールの旋律になり、主旋律を見失っていたが、練習の成果は今でもしっかり残っていて、とても上手かった。  しかも『熱く生きる瞳が好きだわ』と歌うときに顔をのぞき込んだら、佐和は俺の目を見て歌ってくれた! 「『熱く生きる瞳が好きだわ』なんて言われて、ますます惚れる」  いつもなら、「何それ、意味わかんない」と言われそうなところだが、俺が接客の練習中だと思っているからか、佐和はただ笑っていた。 「周防は合唱コンクールは、何を歌ったの?」 「『歌うたいのバラッド』。知ってる?」  歌の中に、2回『愛してる』という歌詞が出てくる。そのとき俺は片膝をつき、大げさに佐和に向かって手を差し出した。さらに頭を振って、さも感情を込めているように、ふざけた。こんなふざけたやり方でしか『愛してる』と言えなくても、佐和が笑ってくれたら、やっぱり俺は嬉しい。  ドリンクバーへ行くついでに、喫煙スペースで一服した。フィルターを口の端に引っ掛けて、ライターの蓋を跳ね上げる。いつの間にか、ライターの炎は相手から見えないようにしっかり手で覆うクセが身についていた。  軽く首を傾げてタバコの先を炎にかざす。伸ばし始めた髪が頬にかかり、吸いつけてから上を向いて頭を振って、両手でサイドの髪を流していたら、視線を感じた。  空のコップを持った佐和が俺を見ていた。目が合うと、涙袋がふっくらした。 「ごめん、1本吸ってから戻る」  声は届いたはずなのに、佐和は喫煙スペースに入ってきて、俺の左隣に立った。  胸ポケットに入れていたタバコのソフトパッケージを引っ張り出し、そのまま鼻先をつける。 「吸う?」  佐和はパッケージの匂いを嗅いだまま、小さく首を横に振る。 「遠慮しないでいいぞ?」  俺はライターを取り出したが、佐和はもう一度首を横に振った。 「タバコの匂いは嫌いだから」  呟くように言って、パッケージを俺の胸ポケットに戻し、喫煙スペースから出て行ってしまった。 「?」  ドリンクを持って部屋に戻ると、佐和はリモコンで曲の検索をしていて、喫煙スペースに入ってきたことについては何の解説もなかった。  俺たちは合唱コンクールの歌ばかり歌い、佐和はときどき 「僕、この曲で指揮をやった。懐かしいな」  などと思い出を話してくれる。俺はまた佐和について詳しくなることができて嬉しかった。  ふたりで合唱しながら、図書館までの道を歩いた。向かい風が強さより、佐和と肩を並べて歩く楽しさが上回った。やっぱりずっとずっと佐和と一緒にいたい。  図書館で、佐和は経済やビジネス関連の雑誌を読む。  佐和は高校時代から、小遣いを資産運用でまかなっていた。経済新聞を読む習慣が身についていて、専門的な用語も、経済の動向もよく理解していた。  その隣で俺は女性向け雑誌を片っ端からチェックする。 「結局、カチュームとカチューシャとヘアバンドは同じなのか? 違うのか?」  中学高校は全寮制の男子校で、ほぼ水着とジャージで過ごしてきた。成人女性の興味や関心事、ムーブメントには疎くて、佐和のお姉ちゃんに教えてもらったり、雑誌を読んだりして情報を仕入れていた。 「周防は勉強熱心だね」  ビジネス誌を読んでいたはずの佐和が、いつの間にか頬杖をついて、俺が読んでいる雑誌をのぞき込んでいた。近い距離で小さな声で言われて、心拍数が跳ね上がる。 「このくらいの勉強はしないと。俺は職業・イケメン王子様だからな」 「そうだね。周防はカッコイイ王子様だ」  佐和は頷いた。その反応に、俺のほうが顔が熱くなってしまう。 「そこは納得しないで、ツッコミ入れろよ。返しに困るだろう」 「だって、周防はキラキラなイケメン王子様だって思うもの」 「何だ? 俺は口説かれてるのか? 2時間5千円のホテルに行くか? やるか?」  嬉しくて照れくさくて、どうしたらいいかわからなくて、佐和の耳に照れ隠しの言葉を囁いた。 「感想を言っただけなのに、何で周防とホテルで休憩しなきゃいけないの。寝るなら、ウチに帰ればいいだけじゃん」 「声、我慢できるか? ベッド軋むぞ?」 「わはは。何するつもり?」 「ベッドから追い出されたら困るから、これ以上は自主規制」  音を立てずに足をばたつかせ、声を殺して笑う佐和の頭を、どさくさに紛れてぎゅっと抱いた。 「いい匂い」  腕の中で、佐和が言った。 「汗臭い?」 「ううん。僕、タバコの臭いは嫌いだけど、火をつける前のタバコの匂いは好き。周防の匂いに似てる。甘くて、苦くて」  カラオケの喫煙スペースで、俺の胸ポケットから抜き出したタバコのパッケージに鼻先をくっつけていた姿を思いだした。タバコの匂いを嗅ぎながら、俺の匂いと似てるなんて思っていたのか、コイツは。 「やっぱり2時間5千円、行く?」 「行かない。なんで匂いを嗅ぐだけで、そういう話になるんだよ」  佐和は俺の腋窩に鼻先を突っ込んだまま笑っていた。  このまま書架の影に連れ込んで、息が止まるような無茶苦茶なキスをしてやろうかと思うほど、佐和が愛おしくて、キスできない代わりにぐちゃぐちゃに髪を撫でてから解放した。  佐和は手洗いに髪を直しに行き、ひとりになった俺は雑誌の恋占いのページを見ながらひとりごちる。 「あんまり無防備だと……」  やっちまうぞ、そんな言葉を口にしようと思っていた。でも、たとえ冗談でも、佐和に対して一方的な言葉は使いたくないと思って、口を噤んだ。佐和と過ごす時間は、全部優しさと甘さ、そして笑顔で埋め尽くしたい。本気で人を好きになると、俺はこんな思考になるらしい。 「あんまり無防備だと、真顔で『愛してる』って言っちまうぞ」  髪を整えて戻ってくる佐和の姿が見えて、俺は慌てて恋占いのページを閉じた。

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