70 / 172

【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(4)

「週末、1泊2日で実家に帰るけど、一緒に来る?」  さりげなさを装いつつ、結構緊張しながら佐和に訊いたら、勢いよく頷いた。 「めちゃくちゃ田舎だから、マジで覚悟して。埼玉の中でも奥地だから。朝晩は冷え込む。虫は飛ぶし、トカゲもヤモリも普通にいるからな?」  都会育ちの佐和は、俺が何を言ってもピンとこないのか、ニコニコしながら頷いている。 「住所は大字だし、東京タワーじゃなくて送電塔だぞ?」  まだ佐和はニコニコ頷いていて、俺は佐和を連れて帰省することにした。  池袋で乗り換えて1時間半、のんびり佐和の隣に座って過ごす。どうしてこんなに話題が尽きないのか、自分たちでも不思議なほど、俺たちはしゃべり続ける。 「なるほど。で、その『キ』って、漢字でどう書くんだ?」 「んー、樹木希林の『キ』!」  佐和は切れ者だが、ときどき本気ですっとぼけた発言をする。 「『キ』がありすぎて、どの『キ』か、わからないけど?」 「あ、そっか。樹木希林の、1番最初の『樹』!」  こういう完璧じゃないところが、愛しいんだよなぁ。  佐和の頭をぐりぐり撫でていたら、あっという間に時間が過ぎた。  佐和と出会ってまだ半年なのに、もうずっと前から親友だったような気がする。そうかと思えば、いつもは飽きるほど長い乗車時間を、まだ駅について欲しくないと願ってしまうくらい短く感じる。 「全然、田舎じゃなくない?」  駅を出てすぐ佐和は首を傾げた。 「栄えているのは、今見えている範囲だけ。その先は全部、山」  駅からさらにバスに乗る。佐和の自宅周辺を走るバスは運賃一律の先払いで、前のドアから乗る。後ろのドアから乗るのはおそるおそるで、シンプルな数字が印字された整理券の紙片を、とても大切な切符のように両手で持っていた。 「こういうバスはあまり乗らない?」 「初めて。僕って世間知らずだね」 「バスくらいで、そんな。佐和はいろんなことを知ってると思うけど?」 「んー。でも小学校から大学までずっと内部進学で、『ごきげんよう』って挨拶して。守られた塀の中にいて、何も知らないなって思うんだ」 「佐和の『ごきげんよう』は思いやりが感じられて好きだけどな。でも、無知の知はきっと佐和を一層飛躍させる」  佐和は小さく「ありがと」と言って、また整理券を見た。  千円札を両替して運賃を支払い、バスを降りて、竹林に囲まれた砂利道を歩いた先が実家だ。 「どなたか、茶道の先生をされているの?」  日本家屋の端に、にじり口のついた壁を見て、佐和はすぐにそれが茶室と理解する。 「全然。じいさんの趣味。日本人より日本文化マニアだ」  玄関の引き戸を開けて「ただいま」と声を張ると、佐和も爽やかな声を出した。 「おじゃまします」  2階から制服姿の妹が降りてきて、1階の居間から母親と祖母が出てきた。 「コイツ、佐和」  簡単な紹介に、佐和は育ちのよさがわかる身のこなしで会釈をした。 「はじめまして。佐和朔夜といいます。大学で周防くんと仲よくさせていただいています」  爽やかな笑顔に、家中の女達は一気に魅了された。目の輝きが全然違う。居間へ佐和を座らせるなり、茶菓子に漬物に果物、コーヒー、日本茶、麦茶、紅茶とめちゃくちゃに運んでくる。  さらには祖父が出てきて、佐和を書斎に招き入れた。  祖父は大学で教鞭をとるほかに、児童書を翻訳する仕事もしている。いつも分厚いメガネを掛けて、丹念に辞書を引き、母語と日本語のあいだを行き来する。 「難しいのは、正確に訳すだけでは伝わらない言葉を、どうやって訳すのか。訳者の理解力とセンスが問われます。緯度が違えば、見えている太陽の色も違う。その色の違いをわざわざ書くのか、あるいはただ太陽の色とするのか、それは一律には決められません」  佐和が身を乗り出して熱心に頷くものだから、祖父は本棚からごっそり本を取り出して並べる。 「これが原著。和訳した本がこれだけ出版されていますが、訳者が全部違います。見比べてみましょう」  佐和は息を詰めて、本の上を滑る祖父の指先を追う。 「わあ、面白いですね! 同じ文章を訳しているのに、こんなに違いがあるなんて。翻訳って、限りなく言葉を思い浮かべて、どこまでも悩んでしまいそう」  祖父は佐和の反応に目を細めて頷く。 「たったひとつの言葉について、何週間も考え続けることだってありますよ。佐和くんもやってみますか」  例題を出し、29文字のアルファベット表と分厚い辞書を佐和の前に置いて、短い文章を訳させた。  佐和は祖父の説明に頷き、辞書を引き、レポート用紙にさらさらとノートする。ときどき祖父にヒントをもらいながら、訳文を完成させた。  祖父はその文章に目を細める。 「若々しい、気持ちのよい訳です。リズムもいいですね。佐和くんは、本をたくさん読むでしょう? 素晴らしいことです。読書は手の上で展開される大冒険だと私は思います」  目を輝かせ、笑顔で頷く佐和に、祖父は言葉の語源や使い分け、文法の特徴、原著発刊当時の政治や宗教や文化、人種や民族などを話して聞かせる。佐和はどの話も真摯に頷いてノートした。  それらを知った上で再度例題に取り組むと、佐和の訳文は日本酒のようにふくよかですっきりとする。 「わあ、面白い!」  佐和は笑顔をはじけさせた。祖父は小さな漉き和紙を取り出して、佐和に原文と自分の訳文を清書させ、栞に仕立てて、ウィンクしながら佐和に手渡した。 「じいちゃんの話、長かったな。大丈夫だった?」 「とても面白かった! これからは訳も気にしながら読んでみる」  居間で声を弾ませているところへ、今度は父が帰ってきてにぎやかに挨拶し、さらには姉が姪と甥を保育園から連れて帰って来た。 「佐和くん、こんにちは! 姉です!」 「何で佐和の名前、知ってるんだ?」 「お母さんから電話かかってきたもの」 「なんだ、その連絡網は?」  姉と俺が会話している間にも、甥っ子は俺に飛びついてくる。姪もいつもなら飛びついてくるのにおかしいと思ったら、姉の身体に背中を押しつけ、上目遣いに佐和を見ながら、身体を左右に揺らしていた。 「ごきげんよう。佐和です」  話し掛けられた途端に姉の背後へ逃げ込んでしまい、引きずり出されて挨拶をさせられる。 「知らない人に話し掛けられたら、びっくりするよね。少しずつ仲よくしてくれたら嬉しいな」  佐和は笑顔でとりなし、姪はまた姉の背中に逃げた。  どいつもこいつも佐和に惚れやがって。ウチの家系には、佐和に惚れる遺伝子があるのかもしれない。

ともだちにシェアしよう!