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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(5)
「さねおみ、川に行きたーい」
甥にねだられ、肩車をした。佐和は姪と手をつなぎ、裏庭から出て雑木林の砂利道を歩く。
シダの葉の先から滴る清水や、黒く湿った土、飛び出した細い木の根や、空に向かって真っ直ぐ伸びる木々を見て、佐和は朗らかな声を出す。
「いいところで育ったね。毎日こんな環境で過ごせたなんて、羨ましい」
「自然を相手に、自分で工夫して遊べて楽しかった。子育てのために、わざわざここへ引っ越してきてくれた両親や祖父母には感謝してる」
思っていることをただ口にしただけだが、佐和は目を見開いて俺を見ていた。
「俺、何か変なことを言ったか?」
「ううん。周防は素晴らしいなって思ったんだ。僕は親に与えてもらった環境にまったく感謝できてない。僕は、周防を尊敬する」
照れくさかったが、素直に言葉を受け取った。
「ありがとう。佐和が育った環境も、佐和にいい効果をもたらしたと思う。なぜなら、佐和はとてもいいヤツだから。尊敬できる、素晴らしい親友だ」
佐和は微笑んで頷き、隣を歩く姪に話し掛ける。
「さねおみって、カッコイイね」
赤い橋を渡ってつづら折りの坂を下りると、大きな石がごろごろと転がる川に出る。晴天続きで水量は少なく、流れも緩やかで、チビたちを遊ばせるにはちょうどいい。
姪と甥は、子どもの手には大きな石を両手で持ち上げて川へ投げ込む。俺は適当な小石を拾い上げ、低い位置で水平に投げた。小石は水面を何度も跳ねて、向こう岸の石にぶつかる。
甥も姪も同じように小石を投げて、水面を数回、気持ちよく跳ねた。
「すごい!」
佐和も同じように小石を投げたが、水面を跳ねることなく沈んでしまった。何度繰り返しても水面を跳ねることはなく、佐和は首を傾げている。
甥が石をかき分け、丸くて平らな小石を見つけた。
「サワ、こういう石がいいんだよ。あげる」
姪は佐和の隣に立って、腕を水平に振った。
「上から下じゃなくて、後ろから前に、横に投げるの」
佐和は姪のフォームを真似て投げたが、小石は跳ねることなく沈んでしまった。
「皆、上手だね。僕は、何が違うんだろう?」
「お節介してもいいか?」
声を掛け、足許をつま先でかき分けて、丸くて平らな小石を拾った。佐和の右手をこぶしに握らせて、中指の上に小石を置き人差し指を小石の側面に添えさせる。
それから、佐和の背後にぴたりとくっついて立った。腰に手を回して身体を添わせ、右手を重ねて、低い位置で後ろへ引く。
腰をひねり、肩甲骨を背骨につけるくらい引いてから、全身のねじれを戻すように右手を川に向かって振る。人差し指から抜けるように小石が飛び出していった。
小石は水の上を5回跳ねた。
「わあっ!」
佐和は子どものような歓声を上げた。
「肩の強さや手首のスナップはいらない。小手先で何とかしようとせず、低い位置で、水面に対して水平に、素直に投げるのが、一番上手くいく。と、思う」
耳許での説明を終えるまで佐和を抱き締め、身体を離した。佐和も運動神経は悪くない。すぐにコツを飲み込んで、小石は水の上を跳ねるようになった。
甥も姪も佐和も一緒になって小石を投げ、川の水を触り、川面をのぞき込んで魚を探して歓声を上げた。
川原にしゃがんでチビたちと話し、石を探し、川に手を浸している佐和の頬は大きく盛り上がっていて、いい表情だなと思う。
川を渡る風が少し冷たくなってきて、俺は声を掛けた。
「空が青いうちに滝を見に行こう」
甥と姪と手をつなぐ。姪の反対側の手は佐和につないでもらって、靴を履いたまま、川の中へ入った。
跳ねる水しぶきが、午後の光にあたって水晶のように光る。川面は曇りガラスのように揺れているが、川底で石についた緑色の藻が、長くたなびく様子は見てとれた。
「僕、川の中を歩くのって、初めて!」
佐和のはじけるような声が、耳に心地よく響く。都会育ちの佐和はつまらなく感じるのではないかと不安だったが、誘ってよかった。
4人でしっかり手をつなぎながら、下流に向かって斜めに川を横切り、大きな岩沿いに平瀬を進む。まもなく落差5メートルほどの滝があらわれた。水は空気を含んで白く光り、滝風に運ばれてくる飛沫がしっとりと顔を濡らす。
そして、滝壺は深く落ち込み、エメラルドグリーンからコバルトブルーに向かうグラデーションが縞メノウのように広がっていた。
よかった、佐和に見せたかった景色がちゃんとあった。
佐和は黒目がちな目を大きく見開き、滝を見たまま、俺の名前を呼んだ。
「周防」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
全部伝わった。俺は嬉しくて黙った。佐和も黙っていた。ふたり並んで立ち、身体の側面に互いの気配を感じながら、視線も合わせずに過ごすこの沈黙が、甘くて気持ちいいんだよなと思う。
「ねぇサワ、なんで『ありがとう』なの?」
姪が佐和を見上げていて、佐和は姪の目を見返してニッコリ笑った。
「さねおみに、とっても素敵なプレゼントをもらったからだよ」
甥と姪がいてよかった。そうでなければ、俺は佐和を抱き締めて、無理矢理にでも唇を奪っていたかも知れない。
「♪ゆうやーけ、こやけーの、あかとーんーぼー。おわれーて、みたのーはー、いつのーひーか」
帰りの砂利道は、姪と甥を真ん中に挟んで、4人で手をつないで歩いた。チビたちが保育園で習った歌を、つないだ手を揺らしながら歌う。
佐和は姪と甥の顔をのぞき込み、手を揺らすのと一緒に、濡れたスニーカーのつま先も跳ね上げるようにして歩いていた。
夕陽に背中を照らされ、前方には4人のシルエットが長く伸びていて、うっかり感傷的になる。
俺は佐和と家族になりたい。
絶対に叶わない願いが胸に去来し、俺はつないでいた手を離して砂利道へ駆けだした。チビたちを誘って追いかけっこしながら走り、佐和も走って、4人の影がバラバラになったことに安堵した。一瞬去来した変な願いから逃れられた、助かったと思った。
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