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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(8)

「サワ、帰らないでね。絶対、絶対、いてね」 「わかった。帰らないで待ってる」  佐和は姪と指切りをして、スイミングスクールの送迎バス乗り場まで見送り、さらに朝食の片づけまで手伝って、挙げ句に祖母に捕まった。  居間で丁寧に淹れた緑茶とカステラを出され、祖母の話が始まる。 「彼は、大学のキャンパスで私の姿に気づくと、すっと角を曲がって行ってしまうの。香水を吹きつけたお手紙を渡しても、なしのつぶて!」  それは女子大学の教員だった祖父と、女子大生だった祖母とのラブロマンスで、家族は皆、そのストーリーを知っている。  俺は助け舟として隣に控えていたかったが、父親に呼ばれて庭の手入れを始めた。 「自分の国に帰れば、きっと奥さんがいる。甘い言葉にだまされているだけ。国に帰るまでの火遊びだ、信じるな。人生を棒に振るって……ずっと仲良くしてきた、信頼してきた人たちに、彼を理解してもらえなかったのは辛かったわ」  今の仲睦まじく暮らす祖父母を知っているから、佐和は微笑みながら相づちを打つ。  俺がブロアで砂利の上の落ち葉を吹き飛ばしているあいだ、祖母は明るく話し、佐和も笑顔で、時折お茶を飲んでいる姿が見えていた。  ポリバケツに落ち葉と土を交互に入れて、ビニールシートで覆い、やれやれと腰を伸ばして居間を覗く。状況は一変していた。  佐和はタオルで両目を覆っていた。タオルを外し、真っ赤な目で祖母を見て、唇を震わせながら何かを言って、再びタオルで目を覆う。 「佐和っ?!」  縁側に膝をついて身を乗り出し、居間にいる佐和に声をかけたら、佐和は泣きながら言った。 「大丈夫」  祖母は佐和の肩をさすり、小さな声で何かを話しかけて、佐和は頷いてまた泣いていた。 「大丈夫って言われても」 「おばあ様のお話に感動しちゃった」 「感動しすぎだろ」  俺が長靴を脱いで佐和へ歩み寄るより先に、佐和は祖母に何かを言い、祖母はしっかり頷いた。 「お顔を洗っていらっしゃい。目は擦らないようにね」  座を立つ佐和の後ろ姿を見送ってから、小声で祖母に訊いた。 「佐和、彼女と駆け落ちしたいって?」  祖母は俺の手首を掴んで引っぱり座らせた。 「そんなこと、彼は一言も言っていないでしょう。落ち着きなさい」 「は、はい……」  頷いたら、祖母は目を細めた。 「彼は、純情な青年ね」 「佐和が純情?」  純情という言葉の意味を考えているうちに、前髪を濡らし、鼻と目を赤くした佐和が、濡れタオルを片手に戻って来た。 「さわ……」 「あんま見るなよ、恥ずかしい」  佐和はすっきりした笑顔で、畳に座っている俺のケツをパンッと叩き、俺の太ももを枕に寝て、顔の上半分に畳んだタオルをのせた。  畳の上に投げ出されていた手に触れると、しっかり握られた。 「おじい様とおばあ様の強いお気持ちが、今の周防を作ってるんだね」  祖母が蒸しタオルと柔らかくした保冷剤を持ってきて、佐和のまぶたの血行を促した。  スイミングスクールの送迎バスがチビたちを送ってくる頃には、佐和の目は腫れが引き、姪はバスのステップから直接佐和に飛びついて、佐和も自分が泣いたことなんかすっかり忘れたような顔で、姪を抱き締めた。 「もう1泊していったら?」  引き留める家族に、佐和は眉をハの字にした。 「ありがとうございます。僕もお言葉に甘えたいのですが、明日は試合の応援に行く約束があるんです」  明日の馬術大会は女子限定で、きっと彼女の応援なんだろうなと思う。  それでも夕食まで付き合わされて、姪がご飯を食べながら眠ってしまうまで、佐和は膝の上に姪を抱いていた。 「起きて、佐和くんがいないって気づいたら、泣くだろうなぁ」  姉の夫は苦笑しながら、力の抜けた姪を抱き上げる。 「また遊びに来て」  家族総出で見送られ、父親の車で駅まで送ってもらう道中、時折バックミラー越しに佐和を見ながら、父親は言った。 「眞臣は子どもの頃から、やると決めたら曲げない、頑固なところがあるけれど、根っこは優しい子だと思います。よければ、これからも眞臣と付き合ってやってください」 「ありがとうございます。僕のほうこそ、いろいろ至らないですが、よろしくお願いします。眞臣くんの親友でいられるように、これからも頑張ります」  父親と握手を交わして車を降り、帰りの電車でドアの開閉ボタンがあることに驚いてから、ボックスシートに落ち着いた。 「気を使って疲れただろ?」 「楽しかったから、帰るのが寂しい」  そう言いながら、俺の肩に頭を預けてきてくれて、緩む口許を頑張って引き締めた。 「俺は、ああいう環境で育ちました。よろしければ、これからもお願いします」  小さく頭を下げたら、佐和も俺の肩にもたれたまま頭を下げた。 「こちらこそ、よろしくお願いします。いろいろ知って、周防のこと、もっと好きになっちゃった」 「いくらでも惚れていいぞ」  跳ねる心臓を手のひらで押さえながら、心の底から全力で本気で真面目にそう言ったが、佐和は肩をぶつけて笑った。  いつもなら俺が佐和の肩で寝るのだが、今日はあべこべに佐和が俺の肩で寝て、俺は佐和のリュックサックから取り出した、ドラッカーの『マネジメント』を読んだ。  大学で指定されたのは原書で、夏休み中に課題は終わり、佐和は個人的な興味で読み返していた。  自分のためのメモは見栄えを一切気にせず、ときには自分で読み返してもわからない俺と比べ、佐和は調べた単語や解説まで、読みやすい字できちんと書き込んでいる。  最後のページに祖父の翻訳ワークショップで作った栞が挟まれ、ページの余白に4桁の数字が書かれていた。  俺はその数字が何かを知らなかったが、のちに会社を設立するにあたり、銀行口座を開設することになったとき、佐和はこの4桁の数字を口座の暗証番号に設定した。 「何の数字?」 「周防のおじい様とおばあ様の結婚記念日」  今は経理が口座管理をしているので、プライベートな由来とは関係ない暗証番号を使っているが、祖父母の結婚記念日は佐和の個人口座の暗証番号に引き継がれている。 「そんなにいい話だったか? 早い話がただの駆け落ちだぞ?」  コンビニに行くならついでにと頼まれて、引き出した現金とキャッシュカードを佐和に渡しながら問うと、佐和は俺と色違いの財布にそれらをしまいながら微笑んだ。 「いい話だった。僕は人とぶつかるのをさけたがる優柔不断だから、おじい様とおばあ様の決断に感銘を受けたんだ」  スリーピーススーツを着こなし、髪をオールバックに上げて、個性の強いメガネの内側で、黒目がちの大きな目を細めた。

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