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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(9)

 大学2回生の春、俺たちは光島の講義を選択した。  土曜日の1限目、かつ自由選択科目にもかかわらず、階段状の大教室が前列から埋まる盛況ぶりだった。  実学的で面白く、わかりやすい内容だったが、濃度は高く、進度は早い。 「佐和、『感想戦』につきあってくれないか」  ほかの学生たちが一斉に立ち上がり、出口へ進むなか、俺は走り書きしたノートに突っ伏しながら佐和に頼んだ。 「うん。僕も『感想戦』したい」  本を交換して読み、そのあと内容について語り合うことを、どちらからともなく『感想戦』と呼んでいた。転じて復習や振り返りに関することは、ふたりのあいだでは何でも『感想戦』で通じるようになっていた。  俺と佐和のあいだには、そういうふたりだけの文化がいくつも存在する。符丁を使い、その文化に身を置くことが、自分たちが親友であると確認する行為にもなっていて、居心地がよく楽しい。  俺たちは講義のあとも教室に残り、ノートを突き合わせて復習し、課題に取り組んだ。  はじめは佐和とふたりだったが、すぐに机の脇を通った学生がのぞき込んで、声を掛けてきた。 「ひょっとして、今、やったところ? 一緒にやってもいい?」 「もちろん。一緒にやろうよ」  自然に勉強会のような集まりができ、佐和がクラス委員のような役割になった。わからなかったところを佐和がまとめて光島に訊きに行き、学務課へ行って教室の使用許可を取り、参加者のメーリングリストも作った。面倒見のいい光島はすぐ勉強会につきあってくれるようになって、勉強会は活気づいた。  授業とは別に課題やディスカッションの機会を与えられて、昼食を食べながら話し、午後までずれこみ、さらには飲みに行って学問に関係することも、しないことも、活発に話した。  その会話の流れで、光島から課題が出た。 「事業計画書を書いてみましょう。ひとりで書いてもいいし、誰かと一緒に、グループで書いても構いません。単位とは関係ありませんから、気軽に取り組んでみてください」  メーリングリストでフォーマットを受け取って、俺は当然、佐和に声を掛けた。 「佐和」  名前を呼んだだけで、佐和は頷いた。 「うん、一緒にやろう」  佐和の父親と、俺の父親は同じ業界にいて、どちらも経営者だった。簡単に話が聞けると安易な発想で業種を決め、資料をあたって、ヒアリングした。 「父さん、そんなことしてたんだね」  聞いた内容をノートパソコンに佐和が打ち込み、俺は率直な感想を述べた。 「結構しがらみが多くて、封建的、護送船団方式という言葉が思い浮かぶ。ショートカットできる工程がいくらでもある。もっと新規参入を増やせば、業界が活性化するんじゃないか。さらに異分野と手を組めば、面白いことがいろいろできそうだ」 「いいね。僕もコンサバティブな業界だなって思った。新規参入をどうやって増やすの?」 「会社を登記して、何も知らない顔して『ごきげんよう』とでも言えばいい」  佐和は手を叩いて笑った。 「ねぇ、周防。それをここに書こうよ」  言うなり、佐和がフォーマットに落とし込んだ。  俺がある程度、自分の言葉で語れるようになるまでは、佐和が俺の考えを読み取り、自分の考えも加えて体裁を整え、叩き台を作って、光島にダメだしされながらブラッシュアップする方法をとっていた。  光島に厳しく「佐和くんを自分の通訳に無駄遣いしてはいけません。自分の思いは、自分の言葉で語るべきです」と正されて、俺は自分の言葉で語るよう鍛えられ、佐和は佐和の得意分野に専念できるようになっていった。  学生であることを加味しても、荒削りで薄っぺらい事業計画書だった。今の俺だったら即座に突き返す。光島も佐和に突き返したが、同時に直して持ってくるように言った。 「ねぇ、周防。光島さんが、提出した課題の件で話があるって。周防くんを連れていらっしゃいって」  学食で席をとり、先にラーメンをすすっていた俺にそう言った。  多くの人が出入りする非常勤講師室ではなく、誰もいない空き教室で話を聞いた。 「佐和くん、周防くん、本当にやってみませんか。この事業計画書をブラッシュアップして、投資家を探して、起業してみませんか」  佐和はただ目を輝かせ、光島の話を聞いていた。  俺も心が沸き立っていた。起業! 佐和と一緒にやったら、絶対に面白いに決まってる。  肚は決まっていた。ただ、プレゼンして資金を集めて起業するような、大きな規模の話は想定していなくて、正直怖じ気づいた。 「佐和と話し合う時間をください」  話を引き取って教室を出て、人気の少ないキャンパスを歩いた。  佐和は何も言わず、ただバンズのスリッポンを履いた足を、左右交互に跳ね上げるようにして歩く。その顔は初夏の光と風を受け、キラキラ輝いていて、こいつ、マジで胆が据わってるなと思う。  佐和の横顔に見惚れ、その向こうのビルの谷間に東京タワーを見た。青い空に赤と白のコントラストがくっきりしていた。 「佐和、東京タワーに行きたい」 「いいね。今日は天気がいいから、きっと見晴らしがいいよ」  佐和は俺に決断を催促しなかった。ただ隣を歩いてくれた。  「なあ、佐和。さっきの光島さんの話、本当にやってみたくないか」 「会社を作るって話? いいんじゃないかな。光島さんが言うとおり、株式会社の設立自体は簡単だから、とりあえずやってみるという選択肢はアリだと思う。就活が本格的に始まる前にこういう経験しておくのは勉強になりそう」  とりあえずやってみる、それでいいのか。  失敗しても、一緒に悔しがって、泣いて、また笑えばいいのかも知れない。  社名を決めて、佐和と手をつなぎ、一歩先へ飛び出した。  ドクターマーチンの8ホールと、バンズのスリッポンを一緒に撮って、ルックダウンウィンドウから離れると佐和は言った。 「お腹すいた!」 「は?」 「僕、まだ昼を食べてない。ハンバーガー食べたい」  佐和はダブルバーガーセットのほかに、フィッシュバーガーを買い、タルタルソースを口の端につけながら、楽しそうにそれらを食べた。 「ねぇ、周防。『SSスラスト』っていい会社名だね。楽しみだね」 「そうだな」  俺は佐和の口の端を親指の腹で拭い、そのタルタルソースを自分の舌で舐めとりながら頷いた。

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