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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(10)

 光島は起業家支援のプラットフォームに関わっていた。その団体が起業家と出資者をマッチングするオーディションを開催していて、俺たちは光島の推薦で一次は免除され、いきなり本選にエントリーする。  プレゼンなんてやったことがなかったし、ビジネススーツを着るのも入学式以来だ。 「まだまだ文字が多いし、ページ数も多いです。あと2ページ減らしましょう」  光島にはスライドも叩かれ、話し方も叩かれた。 「視線を上げて、もっと胸を張って、肩の力を抜いて。いかにメリットがあるか、落ち着いて話して。その先は夢があると伝わるように。夢だけはある、夢しかないんです。なぜこの事業をやりたいのか、説得してください。心からの言葉で話してください。自分自身がもっとわくわくして。マイクがあるんですから、怒鳴らなくていいっ!」  佐和の部屋で、何度も練習を重ねて本番に臨んだ。  人前に出るのも、注目を集めるのも好きなほうだが、成功させたいという思いが強くて、さすがに緊張した。水球の試合前を思い出す。俺は緊張しても、当日の朝は消化のいい食事をきちんと摂る。 「無理。僕、ご飯なんか食べれない。周防、余裕あるね。カッコイイ」  そんなふうに持ち上げられたら、意地でも余裕があるカッコイイところを見せたくなる。  俺は頬を膨らませ、強く息を吐き、軽く身体を揺すって、全身の緊張を緩めた。 「ねぇ、周防。なんか、皆、下手じゃない?」  ほかの起業家のプレゼンを見ながら、佐和が耳打ちしてきた。それは俺も思っていたことで、準備不足や空回りなどの粗が目立つ。 「俺たち、いけるかもな」  競争相手の欠点が冷静に見えるとき、自分たちが選ぶ手技や手法も見えてくる。 「ん。僕たち、調子に乗らせてもらおうか」  佐和の声は最高にクールだった。  俺たちの頭は冴え渡っていた。佐和の黒目がちな瞳は輪郭がくっきりしていた。佐和の隣に立つと、プールに身を浸すような心地よい冷たさが伝わってくる。  俺は久々に心臓に火がつくような闘志を感じた。スノードームの雪が降り積もって落ち着くように頭の中がクリアになっていた。こういう状態のとき、俺のシュート決定率は格段に上がる。ゴールの隙や攻略ルートが見え、指先まで神経が行き届いてボールをコントロールでき、自分が動作する時間をゆっくりに感じる。右肩の故障と同時に失ったと絶望していた感覚を取り戻していた。  エネルギーゼリーで朝食を済ませていた佐和だが、準備時間になると落ち着いて壇上へ上がり、ノートパソコンをセッティングした。プレゼンが始まると、プロジェクターの隣に用意された席に座り、スライドを上映しながら、俺の話に楽しそうに笑ってくれる。俺は目の端に見えるその笑顔に、腹の底からエネルギーが湧いてくるのを感じた。  ああ、佐和と一緒に何かをするのは、どうしてこんなに楽しいんだろう。  表情を消して審査する人たち前で話しながら、阿吽の呼吸で進むプレゼンを心から楽しいと思った。  本当にこの会社をやりたい。やったら楽しい。面白い。しかも業界が抱える問題を解決する。この事業を俺と佐和にやらせたら面白そうだ、そう思う人がいるなら、ぜひ連絡をください。一緒に『面白い』を共有しましょう。  そんな思いを込めて話した。本気になることをいつの間にか忘れ、どこかでバカらしいと思っていたのに、このときは自分のまっすぐな熱さを悪くないと思っていた。  会場から多くの拍手をもらって、時間通りにプレゼンを終えた。すぐに何人もの大人たちから握手を求められ、名刺を交換して、複数名からの出資が決まった。俺は力強く相手の手を握り返して話し、佐和は落ち着いて実務の確認をした。  イベントが終わり、佐和と目が合う。それだけでこらえていた気持ちは通じて、俺たちはハイタッチをして、ハグなんか通り越して強く強く抱き合った。やった! という言葉すら口から出ないくらい、全身に強い感情が満ちていた。  建物を出ると、佐和は両手を空に向けて広げた。 「あー、お腹すいた! 僕、朝からほとんど食べてない!」 「牛丼でも食べるか」  目の前にあるチェーン店を指さしたら、佐和は目を輝かせた。 「わー! 僕、牛丼屋さんって初めて!」 「マジか。今まで、どうやって生き延びてきた?」  佐和は隣に座る俺を見ながら、溶いた卵を入れ、紅ショウガをたっぷり混ぜ込んで、牛丼を食べる。箸の持ち方がきれいで、背筋が伸びているからか、どんぶりに口をつけて掻き込んでも品の良さがあり、つい見惚れてしまう。 「牛丼、美味しいね。僕って、本当に何も知らない」 「今日はプレゼンが上手くいったし、出資者も見つかった。さらに牛丼まで食べられるようになったんだから、充分いろんなことを覚えただろ」 「うん! 周防と一緒にいると、本当に楽しい。毎日が冒険!」  佐和は周囲を見回し、サラリーマンの姿に目を留めて、同じように自分のネクタイを跳ね上げて肩に乗せた。 「僕、カッコイイ!」 「賛同しかねる」 「ええー、大人の男って感じがするじゃん」 「オヤジと大人の男は違うだろ」  このとき納得しなかった俺は、のちにネクタイを汚しては、店を探して買う羽目になるのだが、この頃はまだネクタイなんて2、3本しか持っていなかった。  急にスケジュールがタイトになり、ちょっと寄り道してネクタイを買えばいいとわかっていても、店が開いている時間には大学にいて、寄り道する時間もなく打ち合わせに行き、そこから時間厳守のバイトへ走って行ったら、帰る頃には店は閉まっている。 「ネクタイ、何か貸してくれ」  立て続けに同じ相手と会うときは、さすがに別のネクタイを使いたくなる。切羽詰まって佐和に頼んだら、佐和は俺のネクタイを自分の首に巻きつけながら言った。 「いいよ。っていうか、いつでも貸し借りOKってことにすれば、そんなに本数を揃えなくてもいいと思わない?」 「名案だ」  ネクタイを貸し借りするという、ふたりだけの新しい文化がまたひとつ生まれた。  慣れないことの連続で疲れたり、苛立つことがあっても、自分の首に佐和のネクタイがあると思えば楽しい。 「かしこまりました。手前どもの周防とふたりで伺います。申し訳ありませんが、別件がありますので、15時以降でご都合のよろしい時間をご指定いただけますでしょうか」  舌を噛みそうな言葉遣いも、基本をお姉ちゃんに教わり、実践で話すうちに身についた。  俺たちは黒のリクルートスーツをすっとばし、交換したネクタイを締め、紺やグレーのビジネススーツに身を包んで、大学の講義を受ける日が増えていった。

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