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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(11)

 起業が決まって、佐和は馬術部の練習を休む日が多くなった。秋合宿には参加したが、大会にはエントリーせず、ビジネススーツを着て俺と一緒に歩き回る。  高校時代からつきあっていた馬場馬術のとんでもない美人と、いつどのように別れたのかは知らない。会社を立ち上げた頃には気配がなく、イニシャル入りの星模様のブックカバーも見かけなくなっていた。  そのかわり、佐和の首には鍵モチーフのペンダントがあった。寝るときも、風呂に入るときもつけっぱなしだ。  ふうん。女の首には錠前モチーフのペンダントがあって、その鍵穴に佐和の鍵を突っ込むってか。  嫉妬の感情というものは、恋心以上につきあいにくい。心臓にガソリンをぶっかけられて一瞬のうちに燃え上がり、炭にされるような苦しさがある。  そういう日に限ってバイトのシフトは入ってなくて、苛々と公認会計士試験の過去問を解いた。  佐和も問題集を広げ、正しい持ち方で0.3ミリのシャーペンを持ち、ルーズリーフにさらさらと解答を書いていく。  気にしないようにしようと思えば思うほど、佐和の胸元の輝きが目についた。  俺は集中力が切れて、0.9ミリのシャーペンを投げ出す。 「限界。風呂入って寝る。佐和、ひとりで風呂に入ると寝そうだから、一緒に入って」 「いいよ。このページだけ終わらせるから、先に入ってて。すぐ行く」  こんな理由で納得して、一緒に風呂に入ってくれる佐和が心配になる。大きなバスタブに並んで身体を沈め、小さな防水テレビへ目を向けている佐和に、さりげなく声を掛ける。 「佐和、セックスのとき、ちゃんとコンドーム使ってる?」 「使ってるよ」  佐和は俺を見て頷いた。 「『今日は安全日だから、ナマで挿れて』なんて、言われてない?」 「言われても、真に受けてその通りにしちゃ、ダメだよね?」 「わかってるならいい」 「僕が世間知らずだから、心配してくれた?」 「世間知らずじゃなくても、疑わない男のほうが多い。佐和がしっかりしていてよかった。女が男をホテルへ連れ込もうと、強い酒を盛ることも、飲みかけのグラスに薬を入れることもある。そんなことをしそうに見えない女がやる。本当に気をつけて」 「それは……周防は経験あるの?」  膝を抱えて顔をのぞき込まれ、俺は頷いた。 「ある。バーテンが気を利かせて飲み物を変えてくれたから、口にせずに済んだ。あとから女がグラスに薬を入れていたと聞いた」 「怖いね」 「ああ、話に聞いていても、実際にやられると怖い。ホストだから何をしてもいいと思う女もいるし、既成事実を作って自分のモノにしたいと画策する女もいる。だから、基本的には店の中でしか客と会わない。店にいれば、ボーイなり、マネージャーなりが気をつけてくれる」 「『店に来て』って周防が電話で話してるのは、売上だけじゃなく、身の安全のためでもあるんだね」 「そう。席を立つときは、飲み物は全部飲み干して、次の飲み物を注文する前に。自分の飲み物から目を離さないほうがいい。コンパでも、仕事で誰かと飲むときでも、マジで気をつけて」 「うん。社則にしようか? 『飲み物の異物混入には気をつける! トイレに行くときは飲み干してから!』」  佐和は拳を突き上げて笑った。 「『コンドームは絶対! 最初から!』」  俺も一緒になって拳を突き上げ、ふたりで大笑いした。 「こういうのって大事なことだけどさ、僕たち、結構バカだね」 「バカになれなきゃ、会社なんか作れないよな」  自分たちが投資を受ける金額や、これから始める事業の規模は、学生が捻出できるものではなかった。喜びや緊張だけではない、微かな恐怖や不安もある。これからは、そういうものもふたりで乗り越えていかなければいけない。 「明日もがんばるぞー!」 「おーっ!」  ふたりで両の拳を突き上げ、飛沫を頭からかぶって、腹の底から笑ったが、風呂の中でもつけっぱなしにしているペンダントの輝きは、ちらちらと目の端に映っていた。 「面白くねぇな」  翌日、打ち合わせを終え、スマホで映画館を検索しながら「用がある」と詳細を明かさない佐和と別れて、自分だけが先に佐和の家に帰った。  お姉ちゃんは午後半休を使って帰宅していて、俺はここぞとばかりに愚痴る。 「じゃあ、周防くんも同じペンダントを買ったらいいんじゃない? 朔とお揃いになるよ?」  俺がリサイクルショップで買ってきたローテーブルに手を広げ、丁寧にマニキュアを塗りながら、お姉ちゃんは笑う。 「ああ? それは、女ともペアってことだろ? ぜーってぇ、ヤダっ!」  ベッドに倒れ込んで佐和の枕を抱き、深呼吸のついでに匂いを嗅いだ。  同じシャンプーを使っているのに、ちゃんと佐和の匂いがした。  俺は、いつ佐和の匂いを嗅いでも、洗濯を繰り返して柔らかくなったオーガニックコットンのガーゼケットを思い浮かべる。柔らかくて飾り気がなくて自然体で、べたつかない心地よい匂いだ。 「あー、いい匂い。勃つ」  スウェット素材のパンツを穿いていて、変化は隠しようがなかったから、正直に申告した。 「やだぁ。少しは隠しなさいよ!」  まだマニキュアが乾いていない手でクッションを叩きつけられて、呻きながら受け止めた。 「弟がいるんだから、見慣れてるだろ」 「あの子、そういうのはちゃんと隠すもん。お姉ちゃんだって、女性扱いなの! なんで弟が女性扱いしてくれるのに、周防くんに男子寮の友だち扱いされなきゃいけないの」  お姉ちゃんは文句を言いながら、いったんは塗り上げた爪に眉をひそめ、除光液をコットンパフに含ませる。 「気に入らない? きれいに塗れてるように見えたけどな。薄いピンクも可愛い」 「んー。やっぱりベージュのフレンチにしようかなって。どれもこれもしっくりこなくて、ヤダ。イライラする」  日頃、あまり物事に迷わないタイプのお姉ちゃんが、ケースをひっくり返し、ボトル同士がぶつかって音を立てるのも構わず引っかき回して、嘆息しながらマニキュアのボトルをピックアップする。 「生理?」  ふとそんな気がして訊いてみたら、あっさり頷いた。 「2日目。仕事してても眠くなるし、お腹は痛いし、椅子から立ち上がるたびにヒヤヒヤするし、最悪。サックスブルーの制服とかマジで勘弁して欲しい」  お姉ちゃんはデニムのショートパンツ姿で、ラインの美しい脚を剥き出しにしていた。  俺は着ていた黒のパーカーを脱いで、膝に向かって投げる。 「腰に巻いてろ。冷やさないほうがいい」 「汚しちゃうかもだから、いいよ」 「汚したって構わない。黒なら目立たないだろ。お望み通り、女性扱いしてるんだから、黙って使え」 「はいはい、どうもありがとう」  互いに言葉を投げつけ合って、少し険悪な空気が漂うのを感じたが、生理中の女とケンカをしたって、男に勝ち目はない。  お姉ちゃんはまた爪にマニキュアを塗り始め、俺は佐和の枕を抱いて、ペアグッズを持つ手段を考えていた。  打ち合わせの合間に立ち寄ったコーヒーショップで、佐和が財布から紙幣を抜き取った。その拍子にレシートを二つ折りにしたようなサイズの何かが落ちて、後ろに並んでいた俺が拾い上げる。すぐに中身を知って、中指と人差し指に挟み、そのものには視線を向けずに、低い位置でそっと佐和に返した。 「あ、ありがとう」  佐和は照れて首筋まで赤くしていた。 「全然。俺だって持ってる」  俺のバイト先の周辺には、その手の店はいくらでもある。デザインも豊富で価格帯も広い。    携帯灰皿より一回り小さい、革製のふたつ折りケースを色違いで買って、佐和に見せた。 「もらい物なんだけど。どっちか、佐和も使わない?」 「小銭入れ?」  佐和は開いて内側のふたつのポケットに、ひとつずつコンドームが入っているのを見た。 「わあ、世の中には、こんなケースがあるんだ!」 「キーホルダーにもなるから、家の鍵と一緒にしておいてもいい。鍵は財布と違って、人前で使う機会は少ないだろ」 「うん。それに傷まなくていいね。財布に入れてると、穴開けちゃいそうで怖いなって思ってたんだ。ありがとう。さっそく使わせてもらうね」  鍵の束にケースをつける姿を見て、俺は女から佐和を守り、かつ自分とのペアアイテムを持たせたことで、とりあえず溜飲を下げた。

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