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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(12)

 大学3回生になっても、佐和は錠前の女とはまだ続いている気配だった。  佐和の財布からは会社宛の領収証と一緒に、映画の前売り券や観覧車、プラネタリウム、美術展の半券が出てきたし、女子受けのいいお洒落なラブホテルチェーンのポイントカードもちらちらと見えた。俺も同じポイントカードを持っているから一目でわかる。  俺は少し意地悪な気持ちになって、ローテーブルに頬杖をついて訊いた。 「佐和ってさ、女が生理だったとき、どうしてる?」 「んー。なるべくホテルに行く」 「生理中でもやる?」  佐和はふるふると首を横に振る。 「しないよ。だって、大丈夫なの、死なないのっていうくらい、赤い色が広がるじゃん。ただ一緒にごろごろして、テレビや映画を見たり、ゲームやったりして遊ぶ」 「ふうん。俺ももう少し優しくしよう」  生理中は佐和の恋愛も生理休暇かと思ったのに、かえって佐和が自分以外の人に優しくしている事実を知る羽目になって、すっかりつまらなくなった。佐和の身体には触れることのない自分の爪を短く切りそろえ、やすりを掛けた。  つまらない思いは続く。  佐和が、ある週末にボストンバッグを抱えて出かけた。俺が見栄を張って「気兼ねなく楽しんできて」と言ったからだ。俺が悪い、自業自得だ。でも嫉妬をむき出しにして駄々をこねる自分の姿なんか、大好きな佐和に見せたくないじゃないか。 「メールの対応とか、いろいろありがとう。楽しかった」  一泊して、笑顔で帰って来た。洗濯物と一緒にいくつかの寺社のパンフレットが出てきて、佐和の手首にはパワーストーンのブレスレットが巻きついていた。またペアグッズか。  ふてくされてベッドに寝転がっていたら、佐和の顔が目の前に現れた。 「周防に、いいことがありますように」  俺は五角形の鏡に黒の五芒星が描かれたストラップをもらった! 「ちくしょう。めっっっっっちゃ嬉しい……っ。旅行先でも俺のことを思い出してくれた! 『周防に、いいことがありますように』って言ってくれた! 最高!」  佐和が寝たあとに、お姉ちゃんの部屋に正座してひれ伏し、頭上にストラップを掲げた。 「あんなにぐちゃぐちゃ言ってたのに。簡単な男」 「うるさい。ミートソースを飛ばしたときにもらうティッシュ1枚でも嬉しい俺の気持ちがわかるか?」 「ティッシュなんて、いくらでも手に入るでしょ」 「ゴミ箱あさって、ごわごわしたティッシュもらってもいい?」 「やめろ変態。この家から追い出す」  ペディキュアを施した足で容赦なく蹴られ、床に仰向けに転がって、ストラップを胸に抱いた。 「あー、マジで嬉しい! 佐和、愛してる!」 「はいはい、よかったね。明日、大学時代のバンド仲間と飲みだから、迎えに来て」 「バイト上がりで多少ギラついてるけどいい?」 「いいよ。めんどくさいヤツをぶっちぎりたいだけだから」 「いい加減、彼氏作れば?」 「どの口がそれを言う」  しろたんをぶん投げられて、抱き留めた。 「あたし、女には不自由しないもーん。手に入らないのは佐和くんだけだもーん。ちくしょう、あんまり泣かせると、生理休暇取って、明日は迎えに行かないからな」 「自分で自分の傷口に塩を塗ってるだけじゃない!」 「あー、俺にも生理こないかなぁ。生理、欲しいなぁ……」  本当に悲しくなって、しろたんを抱き締めた。  バイトを終えて、お姉ちゃんを迎えにロックバーへ行った。お姉ちゃんや俺が好きなオルタナティブ・ロックだけを流す店で、ドアを開けるなりカート・コバーンのかすれた歌声が耳をくすぐる。 「お姉ちゃん、お待たせ」  テーブルにはお姉ちゃんと、笑顔で話す女性ひとりしかいなくて、俺が来るより先にめんどくさいヤツはぶっちぎったようだった。 「私の大学時代のバンド仲間、古都(こと)ちゃん。かっこいいドラムを叩くの。こちらは周防くん、もうひとりの弟」  紹介されて見た古都は、ヴォーグ誌の表紙を飾りそうな、とんでもない美人だった。すらりと背が高く、視線の動きや微笑みに媚びがなくて、気高く自立した女性という印象を受ける。  オードリー・ヘップバーンのような重めのショートヘアで、トラブルのない肌に発色のいい化粧品を使っている。黒のカッターシャツに黒のサブリナパンツというシンプルな服装だが、身体のラインに合っていて野暮ったさがなく、ネイルも手入れが行き届いていた。 「はじめまして、周防です。姉がいつもお世話になっています」  おどけた挨拶に、古都はくっきりと左右の口角を上げた。 「古都です。周防くんのお噂はかねがね」 「どんな噂? ちゃんとのろけてくれてる?」  俺はふたりの顔を交互にのぞき込んだ。 「何をのろけるのよ」 「俺のこと、まだ恋人だって言ってくれてないの?」 「言うわけないでしょ」 「おっかしいな」  俺はお姉ちゃんに笑われて大げさに首をひねり、古都のシャツの襟の影に、錠前のペンダントがあることに気づいた。まさかな、と思う。  でも元カノもとんでもない美人だったし、すらりと背が高く、胸は小さかった。しっかり者というのも共通するかも知れない。  不機嫌がばれないように頬杖をつき、手のひらで顔の半分を覆った。いじけてお姉ちゃんの髪を指に巻きつけながら女子トークを聞いた。 「古都ちゃん、本当に彼氏いないの? 合コンする?」  お姉ちゃんが他意なく斬り込んだ。古都は目を細め、結露したコリンズグラスを口につけて、自分の視線を隠しながら笑う。 「今は、そういう気分じゃないかな」  俺はお姉ちゃんの話に乗って、口を開いた。 「年下はどうですか? 俺の親友を紹介します。佐和朔夜っていう名前なんですけど」  古都は目を見開き、お姉ちゃんは俺の肩を叩いて笑った。 「やだぁ! うちの弟じゃない!」 「ダメ? 佐和、いいヤツだよ?」 「古都ちゃんは、中学・高校時代は馬術部だったの。朔のことなんて、小学生の頃から知ってるし、弟にしか見えないよねぇ?」  本当に弟にしか見えないのかどうか、古都はカクテルを飲んで頷くことはしなかった。 「朔夜くんって身体が小さかったでしょ。中学生になっても、私の肩くらいまでしか身長がなくて。『古都ちゃん、いいなぁ。僕に少し身長ちょうだい』ってよく言ってたのよね。このあいだ、高校馬術部の同窓会で『古都ちゃん、久しぶり』って声を掛けられたの。ものすごく背が高くなってて、驚いて声を上げちゃった」  なるほど、同窓会で再会して火がついたのか。 「朔は高校に入ってから急に背が伸びたの。お腹が空く、お腹が空くって、夜中に自分でご飯を炊いて食べたりしてたわ。今はもう伸びてないと思うけど、夜中に周防くんとふたりで、よく何か作って食べてるよね?」 「勉強や書類作りが終わったら腹が減る。佐和の頭脳についていくだけで、試合1回分くらいのエネルギーは消費してると思う。佐和は本当にすごい、尊敬する」 「素直に尊敬するって言える関係って、カッコイイね」  佐和を褒められて、嬉しそうな笑顔を見せられるのは、むかつく。俺のほうがそうやって笑いたい。俺の佐和だって言いたい。  佐和は佐和のものだ、佐和の人生は佐和のものだ、そんな正論なんかいらない。俺は今、叶わないワガママを言ってるんだ。ワガママを言いたいだけなんだ。  俺は、佐和と肩を組んで、堂々と佐和を自慢して、佐和を褒められたら嬉しくて笑いたいんだ。  気づけば自分のグラスが空になっていた。俺のタバコを勝手に吸っているお姉ちゃんのズブロッカに勝手に口をつけていたら、古都が自分のカクテルを飲み干して席を立った。 「ちょっと失礼。おかわりは戻ってきてから選ぶわ」  その手にはキルティングのメイクポーチのほかにタオル地の巾着があり、そのまま手洗いへ消えていった。  いいな、佐和にセックスも求められず、ただ優しくしてもらえるのか。  ただの憶測でしかないことに確信を持ち、どんどん気持ちがふてくされていく。胸の中は灼熱地獄だった。 「限界だ」  自家中毒を起こして呟いた一言を、お姉ちゃんが拾った。 「バイト帰りだもん、疲れてるよね、ごめん。帰ろう」  お姉ちゃんはタバコをもみ消し、バッグから財布を取り出した。戻ってきた古都も財布を手に伝票をのぞきこむ。  何も言わずにただ車の流れを見ながら突っ立っていた俺の肩を、古都がぽんと強めに叩いた。振り返ると右手で右手をしっかり握られた。 「今日はありがとう。凛々可から少し話を聞いたけど、周防くんと朔夜くんは、とても頑張ってるね。今の頑張りはきっといい結果を出すと思うよ。活躍を楽しみにしてる。遅くまでつきあわせてごめん、また今度ゆっくり飲みましょう。いろんな話を聞かせて。ごきげんよう」  それはたぶん心からの言葉で、ふてくされている俺の心の襞にホットミルクのように沁みた。佐和はこの人のどこに惚れたんだろう。かっこいいところだろうか、優しいところだろうか。俺にこんな配慮ができる大人の余裕があったらよかったのか。  古都はお姉ちゃんが停めたタクシーに乗って、笑顔で走り去った。  神様。俺に生理と年齢と強さと優しさと度量の広さと経験と賢さと語彙力と、とにかく佐和と一緒にいるための、ありとあらゆるものをください。  そして俺の中から、意地悪と狭量と嫉妬と尽きない欲を抜き取ってください。佐和と一緒にいられなくなりそうなものは、全部、全部、抜き取ってください。  お姉ちゃんと乗り込んだタクシーの中で視界が曇り、俺は必死で目を開けて、窓の外の景色を見続けた。

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