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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(13)

 佐和がいない土曜日の午後は、よくひとりで東京タワーに上った。佐和がいないとすぐに怠ける俺は、階段を使うのはかったるくて、連絡の来ないスマホをいじりながら列に並び、エレベーターを使った。  大展望台まで上っても、都心な真ん中では見晴らしはよくない。ルックダウンウィンドウの上に立ってもゾクゾクしない。佐和のいない日常なんて無味乾燥だ。  薄灰色の街をぼんやり見ていたとき、光島から電話が掛かってきた。 「お世話になっています、周防です。……はい、佐和は今、別行動です。……俺、芝公園にいます。……はい。伺います」  光島の個人オフィスで書類を受け取って、大通りを目指して歩いた。  俺もバイトの時間が迫っている。すでに起業していたが、夏までという約束で週末だけバイトを続けていた。 「光島さんのところで、スキャニングさせてもらえばよかったな」  ダメだしが細かく、多すぎて、写メでは上手く読み取れない。  書類の全容だけを簡単に撮って佐和に送ってみたが、返事はなかった。 「このままバイト先まで持って行ったら、佐和が読めるのは明け方だしな」  俺は光島から説明を聞いたが、佐和は何も聞いていない。書類を渡すときには、解説が必要だ。 「佐和が店の近くにいれば、受け渡せるかも」  タクシーに乗り込んで、佐和のスマホに電話を掛けた。予想を裏切って、すぐに回線がつながる。 「ん……周防。どうしたの?」  イヤホンから流れ込むのは、気だるげで甘美なため息と優しい声、シーツと肌が擦れる音。  そして、その向こうからは、シャワーの湯が肌にあたって床へ落ちる音も聞こえる。俺はマイクをミュートにし、気まずさに息を吐いた。  光島さんが何度電話をかけたって、出ないはずだ。  タクシーの窓を少し開け、ゆっくり新鮮な空気を吸うのと同時にミュート解除して、用件を伝えた。 「光島さんから、経営計画書のリテイクを食らった。書き方のテクニック以前の問題、内容が煮詰まっていないから、よく話し合ってくださいだそうだ」 「ん。すぐに帰る……」  しかしそう話す声はぼやけていて、今にも眠ってしまいそうだ。 「俺、これからバイト。今、どこにいる?」 「んー、今……どこだっけ、ここ」  佐和があくびをしていたとき、微かに聞こえていたシャワーの音が止んだ。すぐにドアが開く音がして、 「ピアスが片方ない。どうしよう」  という女性の声が聞こえる。  同時にベッドの軋む音、枕や掛け布団を動かすノイズを佐和のヘッドセットは正確に拾う。 「朔夜くん、ピアス見なかった? 誕生日に買ってくれたやつ」  俺は気づかないうちに奥歯を噛み締めていた。ギリッと嫌な音が頭蓋骨に響く。 「ちょっと待って、今、電話中。あとで一緒に探すよ。ねぇ、ここ、どこだっけ?」  同時に佐和は女性に向けて言葉を発していて、幸いにも俺の歯ぎしりは気づかれずに済んだ。 「僕、新宿にいるみたい。メールありがとう。今、確認した。光島さんのダメだし、かなりボリュームあるね。僕が先に持ち帰って論点整理しておきたい。周防はもうすぐバイトの入り時間だよね? 僕が店まで受け取りに行ってもいい?」  佐和は、突然はきはきと話し始めた。仕事のスイッチが入った証拠だ。 「店の場所わかるか?」 「ん。検索したらヒットした。大丈夫」 「今の時間、エレベーターは使えないから、階段で2階に来て。もしミーティングが始まってたら、隅のほうに座って待っててくれる?」 「わかった。30分後に」  佐和はさっぱりした身なりで、ミーティング中にやってきた。内勤が案内してくれて静かに入口近くの席に座り、ウーロン茶を出してくれるのに、丁寧にお辞儀した。  ミーティングは今日の天気予報から始まり、幹部挨拶、今日の売上目標、来店予定、昨日の売上などが真面目に伝達される。返事や挨拶は体育会系で腹から声を出す。 「おはようございます、天吾(てんご)です。えー、お客様の話を聞くときの心がけについて、もう一度見直す時期かな思います。ホストはしゃべるのが目的じゃなく、しゃべらせるのが目的です。そして、威張るのと引っ張るのは違います。いかに気持ちよく、楽しくしゃべってもらえるか。皆さんそれぞれに工夫をされていると思いますが、今一度、話の聞き方について、考えていただければと思います。今日も1日よろしくお願いします」  天吾というのは俺の源氏名で、入店した日、たまたま佐和と一緒に読んでいた小説の主人公の名前だ。  短い期間で切り上げるからこそ手を抜かずにきちんと、佐和に見張ってもらって当たり前のことを忘れないように、そう心がけていたら、気づけば全員の前でこんな説教をたれる立場になっていた。  ミーティングの最後はシャンパンコールで声出しをする。 「ありがとうございます! シャンパン一発いただきました。集合! こいこいこいこい……」  エコーの効いたマイクを通じて発せられるアップテンポな一言ずつに、全員が肩の高さで右手をひらひらと動かしながら「ハイ!」とも「アイ!」とも判別のつかない合いの手を入れていく。 「素敵な姫と、素敵な王子に、サンキューコール。サンキュー、グラッチェ、メルシー、謝謝。感謝の気持ちで、いただきます! 従業員、なおれ。素敵な姫と、素敵な王子に、ありがとうございます!」  体育会の声出しと同じで、初めて聞く人は何を言っているかわからないだろう。  最後に全員で「ありがとうございます!」と唱和し、90度の礼をして、ミーティングは終了する。  「ごめん、佐和。おまたせ」  佐和は俺と目が合うと、涙袋をふっくらさせた。 「こちらこそ、仕事中におじゃましてごめんね」  向かいの丸椅子に座ったが、あまり時間はない。テーブルに書類を出し、ボールペンを手に、腕時計を確認した。 「15分後にオープンだから、10分で話す」  前置きをして、佐和の頭脳だから安心して立て板に水の如く話す。 「短期経営計画書の数字は今、光島さんが精査してくれている。それはまたメールして、電話するって言ってた。問題は中期。さすが佐和、数字はほぼほぼOK、売上債権回転率は毎年(まいねん)記入しなくても、変更なしでいいのではないか、と」  素早く整った字で書き留められるメモを見て、俺は早口で話し続けた。 「概要は、200文字で収まらない部分はすべてやりなおし。この文字数に収まるまで、徹底的に話し合え。周防は佐和の言葉に甘えるな、佐和は周防の言葉に妥協するな、遠慮して相手の言葉を自分のものとして飲み込むな。光島のツッコミはこの赤字通り。論点整理は佐和に頼む。短期のほうが現実的でわかりやすいが、会社にとって効果的なのは中期。今、何をすべきかを知ることができる。足許ばかりを見る短期に比べて、中期は希望も持てる。中期経営計画を作成したうえで、短期経営計画に落し込み予算化、予実管理を行うようにしましょう。以上」 「わかった」  佐和も俺も同時に立ち上がった。 「開店前の忙しいときに時間を使わせてごめんね。これ、よろしければ皆さんで。ひと口ずつだけど、焼き菓子の詰め合わせ」  佐和の気転じゃないだろうなぁと思いつつ、ありがたく受け取った。  内勤に声を掛け、佐和を送って店の外へ出る。 「デート中だろ。邪魔して悪かった」 「ううん。こっちこそ」  一緒に階段を降りて、ビルの前まで出る。 「彼女、近くで待たせてる? どこにいる?」  佐和の頭を押さえつけて、周りを見回す仕草をする俺に、佐和は明るい笑い声を立てた。 「いないよ」 「なんだ、佐和がどんな女とやってるのか、見てやろうと思ったのに!」  まだ少し湿り気の残る、洗いざらしの髪を、両手でぐちゃぐちゃにかきまぜた。 「それがイヤだから紹介しないって言ってるじゃん」 「知ってる。冗談だ。俺は佐和のそういうところを男らしいと思う。尊敬する」  胸ポケットから鏡を取り出し、手櫛で髪を直すのを手伝って、背中をたたいた。 「今夜は俺も女と寝て帰る。また明日」  こんなことを言ったって、佐和は嫉妬してくれない。  ぽんと背中を叩いて送り出そうとしたのに、佐和は踏み出さず、その場で振り返った。 「何?」 「仕事してる周防も、めちゃくちゃカッコイイ」  俺は思わず、自分が身につけているシルバーのスーツと黒のサテンシャツを見下ろした。 「ありがとう。職業、イケメン王子だからな」 「SSスラストのCEOとしても、ホストとしても、どっちもカッコイイ。僕もがんばらなきゃ」  笑顔の佐和に、俺は自然に微笑んでいた。  街の出口に向かって歩く佐和を見送り、笑顔で手を振った。店に戻ろうとして、向かいの携帯電話ショップに置かれたパンフレットに気づき、手を伸ばした。  GPS検索サービス。  今日みたいに、佐和がラブホにいるところを直撃して、ため息をつくような思いは、なるべくなら繰り返したくない。使えるサービスかも知れないと思った。

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