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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(14)
女の肌の上を滑り、湧き出す泉の奥へもぐり込む。快楽に翻弄されて、揺れてはじけて、ほんの一瞬仮眠を取り、すぐにシャワーを浴びた。
全身を削るように洗い、佐和と顔を合わせるに相応しい姿かどうか、鏡を見て確かめて、汗の引かない身体に無理矢理ジーンズを履き、カットソーをかぶる。
眠っている女の財布に、万札を2枚突っ込んで、先にホテルを出た。
夜明け前のもっとも暗い空の下、写真に撮った経営計画書を見返しながら帰る。
静かで暗い家の中をそっと歩いたが、佐和の部屋は明るく、いつも通りの光景だった。
「おかえり」
佐和はノートパソコンで相場を見ながら、公認会計士試験の問題集に取り組んでいた。同じテーブルの上には、光島から突っ返された中期経営計画書と、佐和が論点整理したルーズリーフがある。
「ただいま」
そう答えるときの俺はもうホストではなく、佐和の頭脳に追いつこうと焦るだけの新米学生社長だ。
「佐和は、どうしてこんなにそぎ落とせるんだ?」
佐和のマグカップに手をのばし、冷めたコーヒーを飲む。苦い味だけが際立って舌から喉へ滑っていった。
「そぎ落とす前の豊富な言葉を周防が用意してくれたから、エッセンスを抽出できるんだ」
とりなしてくれる言葉に、俺は首を横に振る。
「俺が叩いてるのは、無駄口ばかりだ」
「それは謙遜じゃない? 僕は尊敬するよ」
コーヒーを淹れてくる、と佐和は俺の手にあったマグカップを取り上げて、部屋を出て行った。
佐和の論点整理は的確で、曖昧な余白がなかった。俺がいなければ、佐和はひとりで答えを出して、もっといい内容の経営計画書を書けるのではないか。
劣等感に頭がおかしくなりそうで、テーブルに両肘をつき、両手を頭に突っ込んだ。
「少し寝てからにする?」
佐和が熱いコーヒーとショートブレッド、チョコレートをトレイにのせて戻ってきて、俺の前に座った。
「いや。気になって眠れない。やろう」
ほろほろと崩れるショートブレッドに口の中の水分を持って行かれ、熱いコーヒーをすすって、俺は背筋を伸ばした。
佐和の親友に相応しい自分たれ!
ルーズリーフの真ん中にひとつずつ論点を書き、互いに要点と思う部分を書き込みながらディスカッションを繰り返した。
「ねぇ、周防。コスト削減と工数削減は、必ずしも一致しないってこと?」
「そう。一致はしないが、連動はする。単純な工数削減ではなく、国内での調達にこだわる結果が工数削減につながる。工数削減と輸送費のカットがコスト削減になる。それはシミュレートしただろう?」
「うん。あのシミュレートは理解してる。『工数削減、ひいてはコスト削減を目指し、輸送費カットと品質保持のため国内サプライヤーからの調達を行う』……なんてどう?」
「素晴らしい。それを俺の言葉で言えないとダメなんだよなぁ」
「僕、周防は忙しくて時間がないだけで、きちんとパソコンに向かって書類を作る時間があれば、ひとりで全部できると思う。僕は周防の発想力を尊敬すると同時に、自分の存在意義を疑う」
「佐和が? 俺は、俺の存在意義を疑ってるけどな」
「僕たち、仲よしだね。かんぱーい」
「うぃーっす」
佐和がマグカップを掲げ、俺もマグカップをぶつけて、飲みかけのコーヒーで乾杯をした。
「業界のネットワーク構築は収益性が低いから、優先順位を下げたほうがいいって言われてるんだけど、どうする? 本来、僕たちが一番やりたいことじゃん?」
俺はコーヒーを飲みつつ頷いて、口を湿してから発言した。
「それなんだけど、光島さんが言うとおり、優先順位を下げてもいいかも知れない」
「マジか。その心は?」
「一番やりたいことだからといって、真っ先にやる必要はないんじゃないか。ステークホルダーも、ネットワーク構築に投資している訳じゃないから、メイン事業に据えることはできないし、予算もそんなに割けない」
「それはそうだけど、僕たちのあいだでも優先順位を下げるの?」
「下げるのではなく、5年後の目標に据える。俺たちは国内調達に特化するという独自路線を選んでいるから、よその会社と没交渉の一匹狼でも生きてはいける。なるべく友好的にとは思うけど。ケンカを売って、業界に殴り込みかける構図になるかも」
「経営資源には限りがある。1度に全部はできないからね、順番にやっていく過程で、新しい出来事や変化についていけない人たちが拒否反応を示すのは仕方ない。そこは覚悟しよう」
「佐和くん、カッコイイわぁ。周防くんってば、惚れちゃう」
裏声を出す俺に、佐和は呆れたように笑った。
「でも僕、ケンカは苦手。感情的になるだけで、何ひとつ相手に伝わらないし、嫌な思いをするだけで、解決しないんだもん。徒労感ばっかり残る」
「何かあったのか?」
「子どもの頃の話。今だって大人じゃないけど」
佐和はマグカップの中の真っ黒なコーヒーを見下ろして、肩をすくめた。
「でも、ケンカのあとのセックスって燃えるよな」
「何それ、知らない」
「じゃあ、俺とケンカしたときは、仲直りにセックスしよう」
「ヤダよ!」
佐和は足をばたつかせ、頭を左右にぶんぶん振って笑った。
「さて。佐和はジェントルマンで、女相手に声を荒げたりしないとわかったところで。この項目はどう書けばいい? 経営環境の変化に負けない粘り強い体制作りをめざす、という書き方でいい?」
「周防CEO、素晴らしい」
パチパチと拍手をもらって、互いにやあやあどうもどうもと頭を下げ、佐和が書類を仕上げた。
「とりあえず、これを光島さんに投げ返して、返事を待とう」
佐和はノートパソコンのエンターキーを押下して、俺たちは床に倒れ込んだ。
「光島さん、手書きで修正するからなぁ……パソコン使えるんだから、入力するなり、スキャニングするなりして、メールで返してくれればいいのに」
佐和の髪を指に巻きつけながら文句を言ったら、佐和が笑った。
「ダメなんだって。僕も同じ事を光島さんに言ったことがあるんだけど、『そうしたら佐和くんは私の顔を見に来なくなるでしょう。文字や声だけで理解したつもりになってしまうし、私も佐和くんがどの程度理解しているか、把握できません』だってさ」
「ま、それは一理あるかもな。電話やメールと、直接会って話すのとでは、大きく違う。日頃コミュニケーションが取れている人同士が、補助的に使うツールだ」
そこまで話して、俺は携帯電話ショップからもらってきたパンフレットを思いだした。
「佐和、頼みがあるんだけど」
「なあに?」
「GPS検索サービスを使わないか」
佐和は俺の顔と、差し出したパンフレットの表紙を見比べ、すぐに頷く。
「いいね。周防に向かって、僕はここだよって懐中電灯を振るみたい」
無邪気な笑顔に全身の力が抜け、俺は一気に眠気に襲われた。
「ダメだ。佐和、寝落ちる前に風呂に入ろう。俺、今日もバイトだ」
「今日、日曜日だよ? 定休日じゃないの?」
「イレギュラー。どこかの女性起業家交流会の貸し切りイベント」
「ホストクラブって、そういう利用方法もあるんだね」
「よろしければ、いずれSSスラストでも何かイベントをやる? 今日は閉店も早いし、同伴もアフターもないから、帰りはそんなに遅くならない」
話しながら服を脱ぎ、シャワーの湯を頭からかぶる。佐和と共用のシャンプーとボディソープで全身を洗い直し、慣れた匂いになってほっと息をついた。
「……ということで、佐和がラブホにいるとわかれば、俺も無粋な電話をかけなくて済む。佐和の女がシャワーを使っている音や、ピアスをなくしたって言ってる声を聞くのは、さすがに申し訳ない」
バスタブの中で膝を抱え、GPSサービスの利用について話した。
佐和は軽くのぼせ、バスタブのふちに腰かけて俺の話を聞く。
意識しないように、見ないようにと思う頃には、俺はすでに佐和の身体を見ている。
緩んでふっくらと柔らかそうな乳暈や、縦長のへそ、髪と同じ黒色の草むら、項垂れたペニス、バスタブに触れて歪む小振りな尻。
「ごめんね。マナーモードにし忘れたのはすぐ気づいたんだけど。床に落としてクッション載せて、ほかの電話は全部無視してたんだ。でも周防からの電話って、着信音が周防の声なんだもん。つい出ちゃった」
「俺だってわかってるなら、むしろ無視しろよ」
「できないよー。『佐和、早く声を聞かせて』って繰り返し言われるんだもん。何か言わなきゃって気持ちになるじゃん」
佐和は眉をハの字にして笑う。
「佐和、チョロすぎだろ」
両手を組み合わせて水鉄砲を作り、佐和の身体めがけて湯をかける。
「僕、そんなにチョロいかなぁ。結構言われるんだ。僕はちゃんと自分で決めて、自分の意思で動いているんだけどな」
佐和は苦笑し、うつむいて首を傾げた。濡れた髪が頬にかかり、その表情は切なげに見える。
「もし、佐和が本当にチョロかったら、今ごろ俺と一緒にラブホに行ってる。やるか、やられるか。ジャンケンで決めるか? 交代制か?」
顔をのぞき込み、ふざけて中指を立ててみせると、佐和は噴き出し、手を叩いて笑った。
「じゃんけんはスリリングだね。交代制のほうが平等かも」
佐和は、そっと中指を立てて、首を傾げた。
「僕、中指を立てるなんて初めて」
「俺と一緒にいると、よくないことばかり覚えるな。かと言って、『姉妹どんぶりって、産まれた日が違う卵を使って作るの?』なんて言う佐和を放置しておくのは、危なすぎる。少しずつ免疫をつけていけばいい」
俺は佐和の手をそっと包み込み、立てている中指を収めさせた。
ちなみに、佐和が俺のスマホに吹き込んだセリフは『周防、電話。早く出ないと切っちゃうからね』というもので、俺の背筋を痺れさせた。今でも俺はこのセリフを着信音に設定している。近頃はマナーモードに設定しっぱなしで、佐和との連絡はSNSを利用するから、この着信音を聞く機会はないが、たまに再生して聞くと楽しい。
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