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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(15)

 風呂を出て佐和の部屋へ入ろうとしたら、お姉ちゃんが向かい側の自分の部屋から出てきた。  俺は両手をスウェットパンツのポケットに入れ、身体に触れるつもりがないことを示しつつ、左右に動いてお姉ちゃんの行く手を阻む。 「もう、周防くんってば、邪魔!」  お姉ちゃんは笑って足を止め、俺の胸を叩いた。 「デート?」 「会社の同期とバーベキュー」  ボーイフレンドデニムにTシャツを着て、頬には丸くチークを入れ、赤いリップを塗っていた。 「TPOに合ってるし、可愛い……けど、ちょい待ち」  俺は自分のチェックシャツとワッチキャップを持ってきて、お姉ちゃんの腰にシャツの袖を結び、ワッチキャップをかぶせて髪をととのえた。 「風が吹くと体温が奪われるし、髪も乱れるから、持っておくといい。ほら、もっと可愛い。いってらっしゃい」  姿見越しにウィンクすると、お姉ちゃんは芍薬の花が開くように笑う。姉や母親がこれだけ美人だったら、佐和のハードルは自然に上がるよなと思う。 「今日は、いい男、いそう?」  帽子で覆われた耳に囁くと、お姉ちゃんは首を傾げた。 「バイト上がりでよければ、迎えに行く」 「うん。連絡する」 「俺も、バイトが終わったメールする。たぶん早く終わるから」  家の前まで見送ったら、車が停まっていて、お姉ちゃんと同世代らしき男が運転席と助手席にいた。  俺は後部座席のドアを開けてお姉ちゃんを乗せ、助手席の窓から男ふたりを見た。 「おはようございます。凜々可の弟です。今日は姉がお世話になります。よろしくお願いします」  テメェら、お姉ちゃんに下手なことすんなよ、の意味を込めた威圧的な笑顔で挨拶し、車を見送った。  佐和は玄関のドアに寄り掛かり、何も言わずに一部始終を見ていた。 「どうした?」 「ん……姉思いの弟だなって思っただけ」  佐和は大きくあくびをし、そのあくびは俺にも伝染って、一緒に佐和のベッドへ倒れ込む。佐和の首の下へ腕を差し入れて、シャンプーの向こうにある匂いを嗅ぎながら眠りに落ちた。  きらきらとしたピアノ曲が流れて、佐和が身じろぎをする。陽は高く昇っていた。佐和は床に落としてあったスマホへ手をのばし、そのまま俺の手をすり抜けて、床へ落ちていった。 「ん……今から? 明日、朝イチで打ち合わせがあるから、早く帰るけどいい?」  通話を切って、佐和は髪をかきあげ、洗面所へ向かう。俺は佐和の枕を抱いてため息をついたが、時計を見れば、俺も出勤の時間が迫っていた。  佐和の隣でシェーバーを使い、整髪料で髪を撫でつける。ついでに手に残った整髪料を佐和の髪に揉み込み、毛先をつまんで調えた。 「うっわぁ、チャラい。何これ?」 「たまにはいいだろ。似合ってる」  鏡の中の佐和が目を丸くしている。その反応を面白く見ながら手を洗い、俺のほうが先に家を出た。デートに出かけるとわかって送り出せるほど、俺は立派な人間じゃない。  ほかのプレイヤーたちはイベント直前の出勤でよかったが、社長とマネージャーと俺と内勤はセミナーが始まる前に出勤した。  女性起業家の自主セミナーで、プロジェクターを用意し、座学が行われる。  準備の合間にレジュメを見ていたら、声を掛けられた。 「SSスラストのメロスじゃないか」 「あ、太宰さん」  俺と佐和のプレゼンテーションを聞き、真っ先に手を挙げてくれた投資家だ。自身もIT関連の会社を経営しながら、起業家支援に力を入れている。 「何やってんだ? 参加するのか?」 「この店のホストです。週末だけ働いてます」 「面白いことやってるなぁ。セリヌンティウスも一緒か?」 「いえ。佐和は原油やとうもろこしで稼いでます」 「先物か。ヤツならそのくらいやるだろうな」 「会社が予想以上に忙しくなってきているので、こういう荒っぽい稼ぎかたは、そろそろやめますけど。まともに働くのが馬鹿らしくなるんで」 「まともに働こう、一攫千金で遊んで暮らそうという野望をもたないところが、お前のつまらないところだ」  ソファにどっかり座り、タバコを取り出す。俺はライターを点けて差し出した。  自分も隣に座り、タバコを取り出して火をつける。 「貧乏性なんですよ。比較的、裕福な家庭で育ったはずなんですけど」 「親父さんも真面目だからな」 「父をご存知なんですか」 「同じ顔をしてるだろう。苗字も同じだし、すぐにわかる。周防社長も息子のことは一切言わないから、何も聞いてないけどな」 「そうですか。帰省すると、めちゃくちゃ励ましてくれますけどね。俺は振り切れますけど、佐和なんて朝まで飲まされてます」 「セリヌンティウスまで、一緒に帰省するのか」 「ウチの家族は、全員佐和の大ファンです。佐和を連れて帰らないと怒られる。小学生の姪っ子は、大きくなったら佐和のカノジョになるそうです」  タバコを吸い終えたタイミングで、準備を終えた主催者が、太宰さんに近寄ってきた。 「太宰先生、お越し下さってありがとうございます。先生がいて下さると思えば、百人力です」  栗色の巻き髪を揺らして目を細める。太宰さんは俺の肩を叩いて見せた。 「俺の隠し子だ。俺の隣に大人しく座らせておくから、聴講させてやってくれ」  明らかにホストとわかる服装で、ついさっき打ち合わせにも参加したばかりだから、主催者は目を丸くした。 「本名は周防眞臣といいます。最近、太宰さんの出資でSSスラストという会社をはじめました。よろしくお願いします」  SSスラストの名刺を取り出して交換した。  何をする会社なのか、何をしたいのか、今は何をしていて、将来は何をしたいのか。光島に何度も直されたおかげで、迷いなく、心を込めて話せるようになっていた。 「講師になっていただきたいくらい、しっかりされてるわ」  テストに合格して、俺は聴講を許された。  セミナーでは、参加者の起業プランが話された。どの起業家たちも身近なところからアイディアを見出し、自信を持って起業へつなげようとしていた。着眼点は悪くないし、実行可能だとも思う。だが、規模が小さすぎるように見えた。  俺だって佐和の部屋で、中古のローテーブルひとつで仕事をしているのだから、偉そうなことは言えないが、こんなに小さな規模では、何か壁にぶち当たったとき、簡単に辞めてしまうだろう。  思ったことを正直に言ったら、太宰さんは頷いた。 「お前らは自己資金ではまかなえない事業を興そうとしていたから、出資しようと思った。他人の金でやるからこそ、いい加減にはやらないだろうと、ふたりの素直で真面目な人柄や、信頼し尊敬し合っている関係性にも点数を入れた」 「ありがとうございます」 「ただ、日本で女性が起業しようとしたとき、男と同じように資金を調達するのは、実はまだまだ難しい。俺たちは、男に生まれたというだけで、多くのメリットを享受してる」  男という性別。佐和を思えば悲しくなることもあるが、男社会において、姉や妹ならすぐには許されなそうなことをしても、男なら肩を叩いて励ましてもらえる。恵まれてもいる。  仕事終わりにメールチェックして、お姉ちゃんがいる店に合流した。  オヤジ臭い大衆酒場の小上がりで、お姉ちゃんの姿勢は崩れまくり、不機嫌極まりなかった。  卓を挟んだ向かい側には、またもや古都がいた。古都がここにいるということは、佐和は帰宅したのだろう。明日の打ち合わせは、佐和がひとりで行き、俺は講義に出て代返してノートを取る手筈になっていた。 「バーベキューって、皆で一緒に食材を用意して、焼いて食べて、楽しみましょうってイベントなんじゃないのぉ? なんで、女性に世話してもらおうって、手も動かさずに突っ立ってる訳? 私はあんたのママじゃないのよ!」  俺はお姉ちゃんの言葉に全部頷いた。 「バーベキューなんて、むしろ女はおしゃべりしてていい。男が働く場だ。今日、お姉ちゃんとバーベキューやった野郎どもは全員失格。どんなに仕事ができても、相手にしちゃダメだ。次の週末は、庭でバーベキューやろう。俺のバーベキューソースは美味いよ」  ぽんぽんと頭を撫でて慰め、お姉ちゃんはホッピーをあおった。 「周防くんは、凛々可ちゃんのことが好きなのね」  古都に言われて、俺は素直に頷いた。 「はい」 「可愛い弟よ」 「俺の気持ちを知っていても、そういって優しくしてくれるので、ありがたいです」  普通、こんな野郎が自分の弟を好きだと知っていたら、遠ざけても不思議ではないのに。  心から感謝して、お姉ちゃんの世話を焼いた。

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