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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(17)

 会社を設立するために、いろんな種類の印鑑を作った。  会社の実印、銀行印、角印のほか、俺と佐和の個人の実印、銀行印、認め印、スタンプ印が必要だった。 「全部同じ素材でいいよな」  佐和とお揃いになると目論んで、全部オーソドックスな柘植で作ったら、会社設立に必要な事務作業がめちゃくちゃ煩雑になった。  こういう書類を作るとき、会社の実印も個人の実印も、LINEスタンプを押すように、次から次へと捺しまくる。名前の脇に捺すだけでなく、割り印も捨て印も、鉛筆で丸を書かれたところへ次々捺していくので、机の上は印鑑だらけになっていき、サイズや形が違う会社の印鑑はともかく、俺と佐和の個人の印鑑の区別がつかなくなっていく。  何度も俺と佐和の印鑑を押し間違えて、まぁ順番に決まりはありませんからいいでしょうと苦笑いされたり、それでは済まなくて書類を作り直したりするうちに、とうとう佐和がプラモデル用の塗料を持ち出した。 「ふ……副社長……?」 「周防は赤、僕は青!」  事務作業の煩雑さもあいまって、佐和は完全に切れていて、俺に残された返事はハイかイエスしかなかった。  幸い佐和の手先が器用だったので、印鑑の胴体に、実印は3本、銀行印は2本、認め印は1本の赤いラインをぐるりと塗られても、デザインと言い張れなくはない仕上がりになり、事務作業効率は佐和の目論み通り格段によくなった。 「ユニークな印鑑をお使いですね」  そう言われるたび、佐和がぶち切れて発作的に塗りましたとも言えず、「ええ、まぁ」と曖昧に頷いて、今も同じ印鑑を使い続けている。  俺が目論んで一方的に買うのではなく、佐和と一緒に選んでペアアイテムを買ったのは、法務局に会社設立の申請書類を提出した日、つまり会社設立日だった。  登記所には、佐和とふたりで書類を持って行った。  佐和の家族にはプレゼンの練習も見てもらっていたし、その結果も報告していたが、登記にあたって改めて説明した。  そして、ふたりで緊張しながら、頭を下げた。 「ここに本社を置かせてください。お願いします!」 「話はわかりました。いずれもっと立派な場所に本社登記ができるように、ご活躍をお祈りします。がんばってください」  佐和の曾祖父が興した会社を代々継いでいて、佐和の父親は起業家ではなかったが、理解を示し、快諾してくれた。 「ありがとうございます!」  佐和とふたりでもう一度頭を下げた。腹の底から、本気で感謝の言葉が出た。  登記所は、区役所と同じ建物内にあった。 「こんなところに登記所があるんだな」 「ね。僕なんて、生まれたときからずっと、この区役所で手続きしてるけど、初めて知ったよ。緊張するね」  カウンターと待合と記入台、閲覧用テーブル、そして小さな収入印紙売り場があるだけの、こじんまりとした場所だった。  待合の椅子や、分厚いファイルを繰る閲覧用テーブルには、職業が推定しにくい私服姿の人が多いが、見るからに事務職とわかる制服姿の女性もいる。ただ、俺たちのように連れ立って来ている人は、ほとんどいなくて、プリンターの稼働する音、電話の呼び出し音、職員の声くらいしか聞こえない。  その静けさに、緊張を煽られた。  佐和は書類が入った封筒を何度ものぞきこみ、枚数や内容を見直しては、膝の上に置いて深呼吸をしていた。  俺も佐和の手に封筒を持たせたまま書類をのぞいたり、佐和の肩に頭をのせたり、落ち着かなく過ごした。  ようやく順番が来て書類を提出したら、確認が終わるまで待つように言われて、ますます落ち着かない。  本も持っていたが、落ち着いて読書するような心境でもなく、佐和の髪を指に巻きつけて嫌がられたり、佐和のポケットからスマホを取り出して、ロック画面を勝手に俺の写真に変えてため息をつかれたりした。 「株式会社SSスラストさん」  そう呼ばれたときは、心臓が跳ね上がった。佐和と一緒にカウンターに早足で駆け寄って、今どき珍しい事務用のアームカバーをつけた男性を見た。 「こちらの書類、不備はないようですのでね、受理させていただきます。今、ちょっと混んでますんで、登記完了は3週間後になりますが、会社設立日は本日ということでね。株式会社SSスラストさん、いい名前をつけましたね。おめでとうございます。これから頑張ってくださいね」  笑顔を向けられ、俺たちは頭を下げた。 「「ありがとうございます!」」  ちょっと泣きそうになって、黙って登記所を出て、廊下で佐和の顔を見た。佐和の白目も少し赤くなっていた。  俺が口許に笑みを浮かべ、黙って頭の高さに両手を挙げて見せたら、佐和も笑みを浮かべ、黙ってハイタッチして、そのまま俺たちはしばらく互いの手を握って静かにした。  言葉にしなくても感動を分かち合える親友と、一緒に会社を立ち上げることができてよかった。  役所の建物を出て、階段の最後の一段を降りるとき、佐和の手を握った。 「跳べるか?」 「もちろん!」 「「せーのっ!」」  たった一歩先へ跳んで、俺たちは笑顔で歩き始めた。 「佐和、祝杯をあげに行く?」 「いいね。僕、試験場の近くのピザ屋さんに行きたい」 「ああ、いいな。開店時間まで少し時間があるから、のんびり歩こう」  大学1回生の年末年始、佐和家の家族旅行に一緒に連れて行ってもらうことになって、俺は国際免許をとった。車にはまったく興味がない佐和だが、手続きは面白そうだからと運転免許試験場についてきた。古い運転免許証の展示を見たり、食堂でクリームソーダを飲んだり、ピーポくんのぬいぐるみを買うか悩んだり満喫して、帰りに近くのイタリアンレストランでピザを食べたら美味かった。  佐和はその店のことを言っている。 「今度は小さいサイズをいろいろ頼んでシェアしよう」  役所からイタリアンレストランに向けて歩く途中、民家の1階に唐突にシルバーアクセサリーの店があった。腹は減っているが、このまま歩いても店はまだ開いていない。時間潰しにと、どちらからともなく足を踏み入れた。 「わあ、かっこいいね」  ヴィンテージの家具をショーケースに、ハードなデザインのシルバーアクセサリーばかりが並んでいて、壁にはめ込まれたガラスの向こうが工房になっていた。  店名入りの革製エプロンをつけた男性がふたり、それぞれ作業をしていたが、ひとりが中断してギャラリーへ出てきた。 「見せていただいてよろしいですか」  佐和が丁寧に挨拶すると、男性は笑顔で頷いた。 「どうぞ。自分たちでデザインをして、一点ずつ手づくりしています。オーダーや刻印も承ります」  俺は思いついて、佐和の耳に口を寄せた。 「会社設立記念に、何か一緒に買わないか」 「それ、いいね!」 「佐和の好きなデザインはどれ?」 「周防の好きなデザインは?」 「佐和の好きなデザインが、俺の好きなデザイン」 「嘘ばっかり。僕たちの好みは全然違うじゃん。いつも僕に譲ってくれなくていいよ」  話しながらショーケースを見て、店の入口に近い場所にある薬品棚に目を留めた。 「誕生石だって!」 「会社の誕生日だから、こういう石が入っているのもアリかもな」 「この石は繁栄や富貴をもたらすと信じられているので、商売繁盛を願うお客様にも好まれます」  男性の説明に、佐和は俺の顔を見た。 「ますますいいんじゃない?」 「じゃあ、この石が入ったものにしよう。ネックレス? バングル? 指輪?」 「うーん。ネックレスかな。僕、指輪はあんまり慣れてないし」 「わかった。指輪にしよう」 「だったら僕に訊かないで、最初からそう言えばいいのに」  佐和は笑って俺の肩を小突いた。 「どの指につける? 左の薬指?」 「左の薬指は違う気がするけど。つける指に意味ってあるの?」  その疑問に答えるように、ショーケースの中に左右の手のイラストと、十指すべての意味が解説されたカードが置かれていた。 「右の人差し指は、インデックス・リング。夢の実現だって」  意味を辿るうちに候補の指輪は絞り込まれ、全部を佐和の右の人差し指に試着した。佐和の指ならシンプルなデザインが嵌まるかと思ったが、意外にごついデザインが馴染んでかっこよかった。 「同じデザインはありますか? 彼とお揃いにしたいんです」  佐和は当たり前のように男性に訊ね、男性は数回まばたきをしたが、すぐに笑顔で在庫を確認してくれた。 「ございますよ。刻印はいかがなさいますか?」 「今日の日付と、SS Thrust って入れてください」 「SSは、おふたりのイニシャルですか」 「はい!」  何となく会話が成り立っているが、佐和は社名のつもりで話していて、男性は俺たちをほぼ間違いなくカップルだと思って話している。  カップルに間違えられたい俺は、何も訂正せず、今年のクリスマスプレゼントも、アクセサリーにしようかなとショーケースを眺めた。

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