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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(19)

 ホストの仕事は天職だと思ったが、SSスラストの社長業は天職には思えなかった。  どこへ行っても、何をしても、叱責され、リテイクをくらった。理不尽なことではなく、本当のことばかりを指摘されたので、却ってダメージは大きかった。  大学3回生の夏は睡眠時間がまったく足りなくなっていた。  思いがけず公認会計士試験の短答式試験に合格し、二次試験にあたる論文式試験の勉強も重なっていたし、ゼミも始まっていたからだが、何よりもSSスラストの仕事が予想をはるかに越えて大変だった。何をするにしても手間がかかった。 「お前、学生だから、事業なんか失敗してもいいと思ってるのか。ダメならホストに戻って稼げばいいと思ってるのか」  ビジネススーツを着て大学へ行き、ゼミで中間発表をしてさんざんに絞られてから駆けつけた俺を一瞥し、太宰さんは忌々しそうな顔をした。何を指してそう言われているのか、まったく見当がつかないまま、脚を肩幅に開き、両手を身体の前で組んでで背筋を伸ばし「いいえ」と短く答えた。 「昨日、何時間寝た?」 「1時間半くらいです」 「馬鹿が。ゾンビみたいな顔をしやがって。俺はそんな貧乏神に取り憑かれた会社には一銭たりとも投資したくないし、取引もしたくない。巻き込まれて共倒れしたくないから、すぐに手を引く。社長の顔は会社の看板だ。お天道様の下を堂々と歩ける、相手に信頼感と安心感を与える顔をしろ!」 「はい!」  改めて背筋を伸ばし、頭を下げた。 「このあとの予定は?」 「いいえ、特には」  次のゼミまでにやらなければならない数々の課題を腹の底へ押し込んだ。 「三時間後に戻ってくる。それまで、そこのソファで寝て、少しはまともな顔を作れ。商売の話はそれからだ」  クッションとタオルケットを与えられて、一瞬で眠りに落ちた。  目を開けたときには日が暮れていて、足許に佐和が座っていた。 「佐和?」 「おはよう。僕も一緒にお説教だって」  佐和は脚を組み、片手で文庫本を開きながら笑っていた。 「ごめん、巻き込んだ」  俺は目の上に手の甲をのせ、深く息を吐いた。悔しい。 「全然。本当のことを指摘されたなら『おっしゃるとおり』って言えばいいし、さらに食らいついていきたい相手なら、指摘してもらったことに感謝して『今後も頼りにさせていただきたい』とお願いすればいいんじゃないの」  平然と座っている佐和の姿と、ソファに寝ている自分の姿の差が悔しくて、佐和を蹴り飛ばしたかった。 「何でそんなに胆が据わってるんだ?」 「僕は、空気も、人の感情も、よくわかんないんだよ」 「そんな言葉に騙されると思うか?」 「本当だよ」  さらに言葉を重ねようとしたとき、太宰さんが戻ってきた。 「さて、話を聞こうか」  俺は起き上がって頭を振り、髪を整え、ネクタイを締め直して革靴を履き、太宰さんの前に立った。  仕事の話は具体的で詳細だった。 「できるか? 正直に言え」 「できます」  俺の返事を聞いた太宰さんは、佐和の顔を見た。佐和がしっかり頷くのを確認してから、話がまとまった。それも俺は気に入らない。自分が信用されていないと思った。  機嫌の悪さを精一杯腹の底へ押し込んで、太宰さんの誘いで行きつけのうなぎ屋へ連れて行ってもらった。  蒲焼きが焼き魚に分類されるのかどうか、佐和は太宰さんの話に笑いながら、背筋を伸ばし、正しい箸の持ち方で鰻を食べる。 「お前たちはまだ先っぽがパンツにこすれただけで、あっという間だろうけどな」  下世話な話にも、佐和は楽しそうに笑う。太宰さんは佐和の反応を見てさらに話を続ける。 「そんなのはエロじゃない、生理現象だ。刺激だけじゃイけなくなってからがエロスの始まりだ」  佐和にセックスの話なんかしないでくれ。鰻の香ばしく焦げた部分だけが苦味として舌に触れて、日本酒で飲み下した。  クラブへ行って話術巧みな女性たちに囲んでもらい、バーへ行ってウィスキーを飲ませてもらい、名物ママが仕切るスナックでカラオケを歌い、酒焼けしたママの下品な替え歌に手を叩いて笑った。佐和は替え歌をすぐに覚えて、常連客たちと一緒に唱和する。 「やって、やって、やっちゃって! いけるわ、いけるわ、どこまでも!」  何が空気を読むのが苦手だ。どこへ行っても上手く馴染んでるじゃねぇか。  「ごちそうさまでした。ありがとうございました。おやすみなさい!」    佐和と一緒に腹の底から声を出し、折り目正しい挨拶をして太宰さんを見送ってから、自分たちもタクシーに乗った。 「周防、お疲れ様。今日はもうお風呂入って、寝よう」  小さくあくびをする佐和に、「お疲れ」と一言返すのが精一杯だった。言葉にならない感情が喉につっかえていた。 「今日はアパートに帰る。いい加減、換気しないと」  親が所有する物件なのをいいことに、佐和の家に居着いてもアパートはそのままにしていた。 「うん、じゃあ明日。試算表を一緒に確認してほしいから、2限が始まる前に図書館の前で会える?」  そんなの、佐和ひとりで確認すれば充分だろう、わざわざ俺に声を掛けてくれなくてもいい。口から出そうになる言葉を飲み込んで、先に佐和をタクシーから降ろした。  ほとんど物がない部屋に帰り、スーツを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込めば、どんなに悔しくても思い出すのは佐和の笑顔と裸体ばかりだった。 「ちくしょう」  俺は枕を抱き、自分の唇を押しつけながら、充血する身体に手を滑らせた。セックスを妄想して腰を突き上げ、欲を放った。  一気に冷める身体と罪悪感に心臓が震える。 「ちくしょう」  簡単な刺激だけで佐和を穢した。右手に絡む白濁をティッシュペーパーで拭い、コンビニ袋にぶち込んで、そのままアラームをかけることすら忘れて寝た。  起きたときには約束の時間をとっくに過ぎていて、スマホには佐和からのメールが届いていた。 『約束の時間があるから、これで提出するね』  試算表の画像が添付されていて、もちろんその数字は完璧だった。  2限も昼休みも過ぎて、ようやく3限に滑り込んだ俺に、佐和は柔らかな笑顔を向ける。 「疲れてるよね。よければこれ飲んで」  責められることなく缶コーヒーを渡されて、俺は心底悔しかった。ちくしょう。

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