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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(20)

 最初の決算は、ぎりぎりの黒字で乗り切った。  手放しで喜べるような黒字ではなく、資金調達を担当する佐和は床に倒れ込んで叫ぶ。 「あー、入れて欲しいっ!」  聞きようによってはエロティックなセリフに、俺は合いの手を入れた。 「どこに? 何を?」 「口座にっ! カネをっ!」  一緒に床に倒れ込んで、佐和の頭を抱き寄せる。  佐和は俺の腋窩に鼻先を突っ込んで、もごもご言った。 「電話したら、1時半までには入れるって言ってたんだけどなぁ」 「金額は?」  佐和が口にする金額は、自分たちが簡単にまかなえるような額ではない、大きな数字だ。佐和も考えてはいるだろうが、俺も土壇場で調達できるルートを考えつつ、佐和の耳へ口をつけた。 「2時になっても入らなかったら、俺が佐和に入れてやる」 「いらないよ! その前に銀行に電話っ!」 「俺としながら電話する?」 「周防とはしない! 電話はする!」 「つれないな」  テーブルの脚に身体を打たないように抱きかかえて守りながら、脇腹をくすぐって佐和を笑わせた。 「やーめーてーっ!」  佐和が両足をばたつかせて、息も絶え絶えに笑う。咳き込んだところでようやく解放して背中を撫でてやり、仕上げに頭を抱えて、頬にぶちゅうっと音を立てるキスをした。佐和は苦笑しながら、シャツの袖でごしごしと頬を拭いて起き上がり、乱れた髪を手櫛で直す。 「さて、がんばろっ」  佐和はニットの袖をまくり、パソコンに向かって仕事を再開した。  俺は確実に仕事をさばき、成果を積み上げていく佐和を、とても羨ましいと思っていた。  大学4回生の秋、第2期の決算に向けて動き出した。今回も黒字決算できる見通しだった。  俺はがむしゃらで無駄な動きばかりをしたが、それでも少しは数字に結びついた。  だが、数字の大半は佐和の手腕による。  佐和は大人たちの口出しに惑わされることなく、焦らずに数字を見極めて、経営戦略を立てた。ゴルフ選手がグリーン上でゴルフクラブを基準にカップを見据え、ラインを見極め、パターで転がして、きちんとボールを沈めるような、そんな落ち着きと正確さだった。  対して俺は、自分にたりないものばかりが目について、いてもたってもいられなかった。大学と仕事の合間に、太宰さんのカバン持ちをさせてもらった。さらにその合間に光島にも連れ回してもらった。  さまざまな展示会や交流会に飛び込み、目の前にいる人なら誰とでも話した。  大学では卒論の執筆に追われた。仕事を終えてビジネススーツのまま駆けつけたゼミ合宿や中間発表では、指導教授に散々に叩かれ、研究でも数字を追った。同じゼミにいて、佐和は叩かれるどころか、大学院への進学と研究室への入室を誘われていた。  俺も成果を出したい。巻き返したい。悔しくて、佐和にかっこいいところを見せたくて、頭の中はぐちゃぐちゃだった。  体力に任せて睡眠時間を削り、蒸しタオルを顔に押しつけて飛び回った。  空振りも多かった。失敗もした。叱責もされた。ただ感情的に怒鳴られることもあった。上手くいっても、いかなくても、どちらにせよ頭の下げ通しだった。  毎日が胃の痛みとの戦いで、佐和の前で平然と食事をしてみせるために、隠れて胃薬を飲んだ。  佐和は圧倒的に強くて、かっこよくて、かなわなくて、それでも大好きだった。  恋心が消えれば、自分の変な見栄っ張りも欲張りも減って、ラクになるのではないか。  恋心は3年で消える、佐和の言葉を信じていたが、3年経っても恋心は消えなかった。 「お疲れ様。コーヒー豆、深煎りにしてもらっちゃった」  浅煎りが好きな佐和は、深煎りのマンデリンにミルクをたっぷり入れて飲む。 「そんなに譲らなくていいのに」 「まぁいいじゃん、たまに深煎りも。周防、いっぱいがんばってるし」  ちょっとした笑顔ひとつ、マグカップに淹れてくれるコーヒー1杯で、俺は佐和に惚れ直してしまい、カウントはリセットされてしまう。毎日が3年の片思いの始まりだ。  仕事も学業も恋愛も、何もかもが苦しかった。  ある土曜日の朝、佐和の部屋で来期の経営計画について話し合うため、フォーマットを広げた。  俺は自分の目標数値を佐和に告げた。 「え? 無茶じゃん?」  それが佐和の反応だった。 「は? 無茶って何だよ。俺にはこの数字が達成できないって言いたいのか」  佐和はパソコン画面をスクロールしながら、早口で言う。 「いきなりそんな大きな数字を持ち出される、意味がわからない。根拠になる数字はどこにあるの? 今期のどの数字を基準に設定したの? 来期の何をあてにしてその数字を出したの?」  早口で反論されて、俺は感情的になった。 「この数字は、俺がやるか、やらないかだ。やるって言ってんだろ」 「は? この数字、単純に12か月で割ってみなよ! 月あたり今期の1.5倍じゃん! 卒論だってあるんだよ? システムだって、事務だってもう手一杯だ。今だってフルブックなのに、どうやってスケジュール切るの?」 「営業費上げればいいだろ。そのくらいのことはしてる」 「来期は営業費は上げないって話したじゃん! やるなら、その次って!」 「その次なんてあるのか?」 「何それ? 次があるから、就職活動しなかったんじゃん! 光島さんからのリクルートだって蹴って、背水の陣を敷いたんだろっ!」 「背水の陣を敷いたんだから、そのくらい強気に出ようってことだろうが!」 「強気に出ることと、根拠のない数字をぶち上げることは、違うだろ!」  佐和も感情的になり、激しい言い合いになった。脊髄反射で言葉を浴びせかけ、相手の言葉の揚げ足をとっては言葉を投げ返す。お姉ちゃんが部屋のドアを開けて様子をのぞいても、トーンダウンせずに怒鳴り合った。 「状況は毎日変わってる。そんな鈍くさいこと言ってたら、チャンスを逃す!」 「鈍くさい……」  佐和は絶句した。 「人に会って、話して、感じた風と勢いに乗らなかったら、チャンスは掴めない! このくらいの数字は狙わなきゃ、第3期なんかない!」  佐和はどこか床の上の一点を見つめ、しばらく黙ってから、急に床に放り出してあったニットジャケットを掴んだ。財布と家の鍵とスマホをポケットに入れて立ち上がる。 「何だよ?」 「……無理……かも」  小さく呟いて部屋を出ていった。心配そうな顔で廊下に立つお姉ちゃんに、佐和は一瞥もくれず早足で歩き、まっすぐ玄関へ向かう。 「おい、佐和! 計画書はどうするんだよ?」 「わかんないよっ! そんな数字、僕は責任持てないものっ! 全部、周防の見込んだ数字で埋めてよ!」 「どこ行くんだっ?」 「知らないっ! 僕に用があるなら、検索すればいいだろっ! 鈍くさい僕に用なんか、ないと思うけどっ!」 「んだと? そんなこと言ってないだろうが!」 「言ってるだろ! 行ってきます、晩ご飯いらないっ!」  佐和は怒鳴って玄関から出て行き、家に残った俺は床に向かって咆哮した。顔を上げたら、お父さんとお母さんとお姉ちゃんが俺を見ていた。 「ごめん、俺も出かける。頭を冷やしてくる」  本当なら「大丈夫、大したことない」と言うべきだろうが、今、俺と佐和の関係は何でもなくなかったし、大丈夫とも言えなかった。

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