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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(21)
ニットカーディガンを羽織って佐和家を出た。
このカーディガンは祖母が編んだ物で、祖父が長いこと愛用していたが、歳をとって、地味な色は年寄りの顔色を悪く見せるからと譲り受けた。
「カート・コバーンみたいでカッコイイ!」
佐和はそう褒めてくれた。
祖父母の駆け落ち話に、やたら佐和が感動していた姿を思い出し、頭を振って、ブーツを履いた足を前へ進めた。
この週末だけでも、頭を空っぽにしてクールダウンしよう。
そう思った矢先に取引先から電話がかかってくる。声を聞く前から、不機嫌が耳に押し寄せてくる。
「はい、SSスラストの周防でございます」
『あのさぁ、余計な提案なんかいらないんだよ。まずは言った通りのデモとサンプルを寄越してくれなきゃ。仕様書と違ってんだろうが!』
俺は一瞬ミュートにして、細く長く息を吐いてから、通話を再開させた。
「仕様書の通りでは破綻しますので、ご指示通り、一昨日システムのご担当者様に直接ご確認申し上げました。新たに修正した仕様書をもとに……」
『はあ? なんでアイツの言うことを聞いて、俺の言うことを聞かない訳? 俺、修正した仕様書なんか見てないんだけど?』
語尾上がりのキレた口調に巻き込まれないよう、もう一度深呼吸をする。
「さようでございますか。私は社内の確認はとれている、部長様の決裁もいただいているので、修正後の仕様書で進めてほしいと承りました」
ここでパニックにならず、相手に落ち着いて経緯を話せるようになっただけ、成長したと思うが、どうだろうか。
『なんで俺をすっ飛ばして部長が決裁してるんだよ』
「それは、私にはわかりかねます」
『俺の仕様書通りに作って持ってこい!』
以前だったら、ここでも簡単に「かしこまりました」と引き取っていたが、今は踏みとどまる知恵がついていた。
「そうなりますと、作り直しになりますので、サンプル作成料を追加で頂戴することになりますが、よろしいでしょうか」
『サンプルなんだから、タダで持ってこいよ』
「2回目以降は頂戴することになっております」
俺もはじめは仕事を得るためのデモやサンプルなのだから、タダで出して、営業費で回収するものと考えていた。
佐和が「あちらの都合でウチの周防が動くなら、その分の手間賃はいただかないと、黒字の仕事も赤字になるし、先方も周防に甘ったれて、どこまでも文句言うからダメ」と言う。
「俺の仕様書が先だろう。先に出した仕様書に対して、作り直しの作成料請求するってどういうことだよ?」
食い下がられて、佐和ならどう対応するかなと考えた。
「いただいた電話で申し訳ありませんが、システムのご担当者様におつなぎいただけますか」
通話が回され、はきはきとした青年出る。
「周防社長、ごめんね。あの人は、部長がチームから外したんだよ。それが納得できないらしくて。何か言われちゃった?」
社内人事のとばっちりか!
「ご自分で作られた仕様書通りにせよと。余計な提案はいらないと仰せです。再度、最初の仕様書通りのデモとサンプルを持ってくるようにとのご指示なのですが、いかが致しましょうか。2回目以降は作成料をご請求しなければならないのですが」
『えー、そんなことを言ってんの? 提案もデモもサンプルも、持って来てくれた内容で充分だよ。部長は素晴らしい内容だって手放しで褒めてたよ。よかったね』
「それならよかったです。週明けにデモとサンプルの打ち戻しを兼ねて、部長様にもあらためてご挨拶に伺います」
『本人にはこちらから話しておく。部長にも報告しておくね。お休みの日にごめん。また週明けに』
ここまできちんと話せて、ようやくワンフレーズだ。焦って無駄に動くことなく、解決できた自分を褒めたい。
「こんな些細なやりとりとはいえ、少しは成長したと思うんだけどなぁ。ああ、佐和に褒められたいな……結構、がんばってるんだけどな、俺」
頭の上に雨雲が垂れ込めているようで鬱陶しい。
「そういえば最近、仕事に関して、全然佐和に褒められてないな」
佐和に褒められることを目的にするのは違うとわかっていても、佐和に褒められたら嬉しい。
「俺の仕事は、褒めるに値しないんだろうなぁ」
ますます気持ちはどんよりとして、せめて頭上が晴れやかな場所を求め、電車を乗り継いで海へ行った。
季節はずれの砂浜は、散歩を楽しむ人がたまに通るだけだったが、海上には多くのウィンドサーファーがいた。
蛍光カラーのマストが風を切り、生まれる揚力を推進力に変えて水面を走っていく。
thrust という単語を思う。
推進力。佐和がつけた社名だ。
一歩先の世界へ。
でも、今の俺は跳んでも、進んでも、どこにも辿り着かない。
地に足をつけて冷静に状況を見極め、正しい進路を選びとる、根気強く取り組める佐和には、一生敵わないのかもしれない。
「一生、劣等感に苛まれながら、佐和を追い続けるのか。そんなこと、できるのか?」
佐和を好きで、いいところを見せたいのに。認められることなく、足でまといになりながら、ただ嫌われないように。
「別に恋愛で報われなくても、一生親友でいられたら、それでいいんだけど」
佐和は、本音では俺のことをどう思っているんだろう?
スマホを取り出し、検索しようとして指を止めた。
『……無理……かも』
佐和の呟きが耳に残っている。
「もう、俺と一緒にいるのは我慢の限界か。こんな程度のことで褒めてほしいなんてグズってる俺は、佐和の親友には相応しくないかな」
佐和を好きで、一緒に風呂に入って裸体を盗み見て、エロいこともたくさん妄想してて、同じベッドに寝て匂いを嗅いで、冗談交じりに頬にキスして。
「結構なセクハラもしてるしなぁ」
佐和を好きで、一生モノの親友でいたくて、追いかけ回したり、連れ回したり。一緒に本を読み、会社を作って。
「がんばりすぎたかなぁ」
持ち歩いている本は『坂の上の雲』だった。
今回は俺が先に赤色の傍線を引いていた。新しい時代に向かう主人公たちに、俺はわくわくしながら傍線を引いているが、佐和の目にはどう映るだろうか。子どもっぽいだろうか。呆れられるだろうか。
「そういえば、佐和にどう思われてるかなんて、案外考えていなかった」
かっこよくありたいとは思っているが、あとはただ佐和が笑っていてくれたらいい。
俺はいつも、佐和が笑顔になってくれそうなことばかりを考え続けている。
「俺、デリカシーがないんだよなぁ……」
男子校で運動部で全寮制で、ガサツに育ちすぎた。かといって、佐和と同じ中学高校へ進学したとして、自分が馴染めたとも思えない。
「『ごきげんよう』なんて、言えないしな」
考えれば考えるほどドツボにはまる。
風に体温を奪われ始め、近くのカフェに逃げ込んだ。
深煎りのコーヒーを飲みながら、スマホの中にある佐和の写真を見る。
初めてあった日。次の日の読書しながらバナナを食べている顔。馬術部の試合を応援に行った日の佐和の勇姿。一緒に帰ろうと部活中の馬場にもついて行って撮った、馬に与える半割りのリンゴを何か考え事をしながらかじっている横顔、部長の音頭で声出しをする笑顔。
勉強会を仕切る姿、課題に取り組む真剣な顔、図書館前のベンチで晒す無防備な寝顔。
ビジネススーツを試着した姿、一緒に出張に行ったついでの観光。意味もなく新幹線の中で顔を寄せて撮った写真。駅弁を食べて、純真無垢な佐和に、もうひとつの駅弁の意味を耳打ちした帰り道。
ずっとずっと佐和を好きだったし、この先もこの気持ちは変わらないだろう。
「佐和は純粋な気持ちなのに、俺は佐和と一緒にいたいからなんて不純な気持ちでいるから、仕事に差がつくのか」
どうしたらいいかわからないまま、コーヒーを飲み干し、電車を乗り継いで、自分のアパートの最寄り駅に降り立った。
日は傾き、暖色の灯りがともる商店街を歩いて、定食屋のメニューを見て焼き魚定食を食べるのが、せめてもの佐和への抵抗。
アパートに戻って、でも佐和を汚す気にはならなくて、ネット上で見つけた適当な動画で機械的に欲の発散を済ませて、疲労に任せて眠りに落ちた。
日頃の睡眠不足も相まって、一晩ゆっくり眠った。
すっきり目覚めるかと思ったのに、頭の中はまとまらない。
シャワーを浴びてもすっきりせず、髭をあたっても鏡の中の顔は冴えない。
「佐和と会話しないと、頭の中も自力ではまとめられないのか」
あらためて自分の能力の低さに落胆していたとき、スマホが鳴った。
「周防くん、佐和くんを迎えに来てください」
光島の声だった。
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