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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(22)

 光島の個人オフィス兼自宅は、一方通行の道路に面した、古いマンションの5階にある。  エレベーターはなく、軽い息切れを感じながらインターフォンを押す。同時にバタバタとドアから遠のいていく足音がして、光島の笑い声が聞こえてから、ドアが開いた。 「ごきげんよう。御社の副社長は、奥にいますよ」  いつもは玄関脇のオフィスにしか出入りしない。初めて案内された奥のリビングには、マンションの古さを逆手に取ったレトロ趣味なソファがあり、その上に膝を抱え、頭から毛布をかぶった佐和がいた。  毛布の合わせ目は内側からきっちり握られ、固く閉ざされていて、頭上の隙間から黒い前髪だけが出ている。 「何してるんだ?」 「何もしてないっ! ちょっと寒いだけっ!」  事情も状況もわからないが、佐和の姿をひと目見ただけで、俺の胸にはどうしようもなく愛しさがこみあげてきた。  自分のまとまらない思考や劣等感は、津波のような愛しさに一気に押し流されてしまう。  抱き締めたいし、キスしたい。セックスもしたい。甘い言葉とキスと愛撫でゆっくり溶かしていきたい。  まさかそんなラブシーンは演じられないから、とりあえず隣に座った。毛布のかたまりは身じろぎして、ほんの数ミリだけ遠のいた気がする。  光島に出してもらったコーヒーを会釈して受け取り、ひとくち飲んだら、口許に視線を感じた。  少し振り返ると、すぐに毛布の内側へ佐和の目は隠れてしまう。 「佐和もコーヒーをいただいたら?」  反応はなく、俺は半分ほどコーヒーを飲んで、改めて佐和に、というか毛布の山に向き合った。  さて、どうやって崩そうか。  しばらく待ってみたが、佐和はますます深く毛布をかぶり、合わせ目を強く握りしめる。  そっと肩に触れたら、膝を抱えたまま向きを変えて、背中を向けられてしまった。  キッチンと隔てるカウンターでノートパソコンを操作しながら、光島は肩をすくめて見せる。  俺は佐和に聞こえないように気をつけながら、天井に向かって息を吹き、佐和の背中に触れる近さまで距離を詰めて話し掛けた。  「俺、愛宕山(あたごやま)の前を通ってきたんだけどさ。今、愛宕山はすごい吹雪。山頂は氷点下らしい。山の前を通るだけでも冷たい風に吹かれて、凍え死ぬかと思った。めちゃくちゃ身体が冷えてるんだけど、俺も中に入れてくれない?」  愛宕山は東京都港区にある、たった標高25.7メートルしかない小さな山だ。周辺のオフィスビルよりずっと低いし、愛宕神社の石段や、NHK放送博物館のエレベーターなどを使って、簡単に登頂できる。もちろん寒くなんかない。 「愛宕山?」  毛布ごしにくぐもった声が聞こえて、俺は大真面目に頷いた。 「そう、愛宕山。鼻の先が凍傷になるかと思うくらい寒かった。だから、俺にも毛布を半分貸して。マジで死にそうなほど寒いんだ。寒いよ、佐和」  残念ながら笑ってはくれなかったが、俺に向かって毛布は開かれた。  肩を並べ、一緒に頭から毛布をかぶった。 「顔を見せて、佐和」 「やだ」  佐和は抱えた膝に額を押しつけていた。  強引なことはしたくない。ただ一緒に膝を抱え、佐和の頭に自分の頭をくっつけた。  普通なら、沈黙が怖くて口を開いてしまう。そして焦って言葉やタイミングを誤ったりする。  でも、俺と佐和のあいだに流れる沈黙はこんなときでも心地いいから、俺は佐和を待つことができた。  ただ黙って頭をくっつけ、膝を抱えて過ごした。  そして人間はそんなに長時間、身体を強張らせていることもできない。佐和はとうとう、ぷはっと息継ぎするように毛布から頭を出した。  俺も一緒に頭を出し、一枚の毛布を分け合って羽織る。佐和がコーヒーを飲むタイミングで一緒にコーヒーを飲み、背もたれに寄り掛かるタイミングで、一緒に背もたれに寄り掛かった。  佐和の動作を自分の身体にミラーリングして同調を示し、少しずつ佐和の心が開くのを待つ。太宰さんのカバン持ちをしながら教わったやり方だ。  佐和は肘掛けに頬杖をつき、不機嫌に言う。 「周防は、数字も、行動も、いつだって突飛なことばっかり。愛宕山が吹雪だとか、変なことしか言わないし。僕はもう、やってらんない」 「突飛、か。まぁ、愛宕山は晴れてたけど」  天体望遠鏡が置かれたバルコニーの向こうは晴れていて、空は高く澄み切っていた。 「あ、月が出てる。光島さん、望遠鏡使っていい? 佐和、一緒に見よう!」  白い半月が浮かんでいるのを見つけ、ベランダに飛び出して、天体望遠鏡を覗いた。佐和は一緒にベランダへ出てきて、ため息をついた。 「すぐにそうやって楽しいことを見つけて飛び出す。走り出す。いなくなる。人を頼る、巻き込む、懐く」 「佐和も見て。月が透けていくみたいだ」  佐和も望遠鏡をのぞいた瞬間は笑顔になったが、すぐ悲しそうな顔になってソファへ戻ってしまった。  俺もまたソファに戻り、脚を組んで座る佐和の隣に覚悟を決めて正座した。 「副社長のお話しを謹んで拝聴します」  佐和は横目で俺を見て、深いため息をついた。 「周防は、すぐに飛び出す。走り出す。いなくなる。会計士試験受かって、ホストのバイト辞めて、ようやく時間に余裕ができると思ったら、今度は太宰さんのカバン持ち始めるとか、何なの? 卒論どうするの?」 「ういっす」 「展示会だ、交流会だって、飛び回って。しょっちゅういろんな人に呼び出されて飲みに行って……あー、もうっ! ホント、嫌。言葉にすると、合コン行きまくってる彼氏に文句言ってる彼女みたい!!!」 「佐和も一緒に行く?」 「いかないっ! 何、その、飲み歩く彼氏みたいな解決法っ?! 一緒に連れて行けば、自分は飲めて彼女も文句言わないだろう、みたいな! 恋人同志なら解決する場合もあるだろうけど、僕たちの場合は何も解決しないから! 僕たち、会社やってるんだよ! 仕事してるのっ! 何でもかんでもふたりで一緒に行ってたら、仕事、終わんないのっ!」 「ういっす」  平身低頭していたら、光島がノートパソコン越しに声を掛けてきた。 「周防くんは、趣味や遊びで飛び歩き、飲み歩いているんですか? 誤解は解いておいたほうがいいですよ」  俺は首を傾げた。 「何を言っても、合コンに行きまくってる彼氏の言い訳みたいになりそう」  佐和は腕を組み、背もたれに寄り掛かって、長い脚を組み直した。 「いいんじゃない? どうせ僕だって、彼女みたいな文句の言い方してるんだし! 言うことあるなら、聞くよっ?」  それならと俺は佐和に向かって言った。 「ええと。全部、社会勉強……です。やっぱり合コンか風俗に行く男のセリフだな」  風俗、という単語に佐和は俺を見て、俺は、行ってません、一時期高級ソープランドで黒服のバイトをしてただけですと首を横に振った。別に行っても問題はないはずだが。 「わかってるよ、そんなこと。周防が真面目に、真剣にがんばってることなんかわかってる。僕が嫌なのは……」  佐和はゆっくり息を吸い、ため息と一緒に呟いた。 「僕が嫌なのは、そういう周防についていけない僕だ」  組んでいた脚を解いて肩幅に開き、そこへ両肘をついて、両手で顔を覆った。 「俺についていけない? ……ごめん。佐和を困らせているつもりはなかった。ただ学びたかっただけで」  佐和は両手で顔を覆ったまま首を横に振った。 「謝らないで。わかってる。周防は勇気があって、人懐っこい。すぐに人の心を掴むし、人の気持ちを敏感に察して気転を効かせる。誰からも可愛がられる。頭の回転が速くて、勘もいいから、学んだことはすぐ身につける。ひらめき力があって、いろんなアイディアを思いつく。昨日ぶち上げた数字だって、僕がびびってついていけないだけで、周防なら可能だと思う……僕が。僕が、ダメなんだ。追いつけない。周防の才能と成長するスピードに、僕が、追いつけない……僕は、周防が持っているものを、何ひとつ持ってない」  両手の間から見える唇は、強く噛み締められていた。

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