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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(23)

 俺はただ、噛まれて色を失っている、佐和の唇を見ていた。佐和は両手を自分の髪に突っ込んで、床を見ていた。  佐和は大きく息を吐いて、震える声で言った。 「ごめん。僕は、無理かも」 「え?」 「僕にできることがあれば、手伝いはしたいけど」 「手伝い? ちょ、ちょっと待って、佐和」  俺はようやく焦って、ソファから滑り降り、床に片膝をついて佐和を見上げた。 「手伝うって、どういうことだ」 「周防ひとりのほうが、思い通りに動けるよ。僕は邪魔な足枷でしかない」 「邪魔? 足枷? 本気で言ってるのか? 体調悪いのか? 風邪ひいてる?」  体調を崩して弱気になっているのかと疑った。 「僕は健康だよ。それでも無理なんだ。ごめん」  俺は今、振られてるってことか? 見合いのときの『私にはご立派すぎてもったいない』みたいな言い方で、見限られて、振られてるってことか?  佐和は目を合わせてくれず、俺はパニックに陥った。  別れ話をされたら、感謝の言葉だけ述べて、あっさり引き下がる。そんな簡単な鉄則も忘れ、俺は佐和の足許に座り込んで、みっともなく訴えていた。   「デリカシーがなくてごめん。傷つけていたなら謝る。悪いところは直す。至らないところは努力する。もっと頑張るから、もう一度チャンスをくれないか」 「違うよ、そういうことじゃない」  佐和の言葉が理解できない。理解したくなくて、全力で拒否している。  俺は動けなくなり、佐和は目を閉じて黙り込んで、事態が膠着したとき、光島が俺たちの前にやってきた。ローテーブルを少しずらしてスペースを空け、床に直接あぐらをかいて肩の力を抜く。 「周防くん、ちょっと落ち着いて座りましょうか。そんなに見つめていたら、佐和くんも顔を上げにくくなる」  示されてソファの上、佐和の隣に座った。 「周防くんは先ほど『社会勉強』と言っていましたね。なぜ、そんなに学んでいるんですか」  俺は一瞬、言葉に詰まった。光島とふたりきりなら話せる。光島を相手にかっこつけようとは思わないからだ。でも、俺は佐和にはかっこつけたい。  視線は宙を彷徨い、言い淀んだが、光島は口許に穏やかな笑みを浮かべている。表情は柔らかいが、俺が話すまで許されそうにはない。 「ええと、その……俺は何もかも足りないからです。何も知らなくて、仕事の仕方もわからないから、です。佐和は自分を世間知らずだと言うけど、無知を自覚しているだけ強い。俺は自分が何を知らないかも知りません。結構いろんな事を知っているとうぬぼれていましたが、仕事を始めてみたら、世の中は知らないことばかりで、今、すごく焦っています」  自分のかっこ悪いところを話すのは勇気がいる。佐和の耳に聞こえるように話すなんて、なおさらだ。でも、光島はまっすぐ俺の目を見て頷き、茶化すことなく話を聞いてくれていて、俺は言葉を続けた。 「俺はせっかちで、佐和のように熟考する忍耐強さがないです。佐和のように瞬時に十手も二十手も先まで考えるということもできない。日頃からいろんなパターンを経験して、身体を使って覚えておかないと、ピンチに直面したときや、素早い判断が必要なときに動けません。だから、俺は学ばないと。もっともっと経験を積まないと」  勝ちたかったら、頭を使って、身体で覚えて、積み重ねるしか道はない。 「それに。もう大学4回生です。とりあえず就職しない、このまま続けると決めましたけど、まだ説得力がある結果は出せていない。そのことにも焦っているし、不安を駆り立てられています」  俺は深呼吸して、心の底にある一番の本音を口にした。 「俺は、佐和と、ずっと一緒にいたいんです。『SSスラスト』をやりたいんです」  隣から小さく洟を啜る音が聞こえて、うわ、このタイミングで泣くなよと思ったときには、俺も釣られて鼻の奥が痛くなっていた。  意味もなく窓の外の白い月を見て、まばたきを繰り返した。  立ち上がった光島がキッチンを往き来して、部屋中にコーヒーの香りが漂った。  淹れ直したコーヒーで満たしたカップを俺たちの前にひとつずつ置いて、光島は自分のコーヒーを飲みながら言った。 「佐和くんも、周防くんも、素直に『うらやましい』、『嫉妬する』と言えばよろしいじゃないですか。ふたりの互いへの嫉妬は、私の耳には『あなたのその部分を心から尊敬しています』、『私はあなたのその部分が大好きです』という意味に聞こえますよ」  佐和はすぐに理解して頷いていたが、俺は佐和のことがセックスしたいくらい大好きなので、照れてしまって頷けずにいた。光島はたぶん、それを俺の不承知と受け取って、俺に言い聞かせるように話す。 「『悔しい』、『追いつきたい』という原動力も悪くはありませんが、ふたりにはあまり合わないように思います。『尊敬する』、『大好きだ』という言葉に置き換えてみませんか。ネガティブな言葉を使うより、ポジティブな言葉を使うほうが、上昇気流も生まれやすいでしょう」  俺が頷くと、光島は立ち上がった。 「座ったまま『感想戦』をしてください。立ち上がってはいけませんよ。男子は立ち上がるとすぐに手が出ますから。私は拳で解決するようなやり方は認めません」  しっかり言い置いて、光島はリビングを出て行った。  佐和はソファの上で膝を抱え、膝に額を押しつけていた。俺はその隣にあぐらを掻いて、その交点を両手で掴んだ。  なんと切り出そうか。  悩む一瞬に、佐和が口を開く。やはり佐和のほうが頭の回転が速い。 「周防」 「何?」 「羨ましい、嫉妬する。尊敬する、大好き」  俺は思わず目を閉じ、鼻から息を吸った。こんな先手を打ってくるなんてずるい。  佐和は、俺がどんなに心臓を射抜かれたか、生涯知らないままだろう。  時間稼ぎにコーヒーを飲み、口を開いた。 「俺も、羨ましい、嫉妬する。尊敬する、大好きだ。だから、これからも一緒に『SSスラスト』を続けるってことでいい?」 「うん。よろしくお願いします」 「こちらこそ。セックスしたいくらい愛してる」 「何それ、意味わかんない」  佐和は噴き出し、肩を揺らして笑いはじめた。俺が右手を差し出すと、佐和も右手を出して握り返してくれた。しっかりと握手した。 「お世話になりました」  光島に挨拶をしてマンションを出て、散歩するペースで歩き始めて、隣を歩く佐和と手の甲が擦れあった。  ずっと一緒にいる。  あらためて佐和に対する気持ちが溢れて、その手を握った。 「出た、ロマンチスト! こんな真っ昼間の公道を、手をつないで歩くなんて、やだ」  呟きと同時に佐和の手は逃げたが、かろうじて俺の小指に、佐和の人差し指が残った。 「こんなつなぎ方のほうが、エロくない?」 「何それ、意味わかんない」  俺たちは照れてそれぞれに違う方向を見ながら、それでも家の前まで指を絡めたまま歩いた。 「お騒がせしました。もう、大丈夫です」  佐和家の人々に向かって、ふたり揃って頭を下げて、俺たちは昨日放り出してしまった経営計画書を作り直した。 「数字、下げようか」  ノートパソコンに向かう佐和の身体を両足で挟み、佐和の腹の前でプリントアウトした資料や自分なりの数字の根拠を書いたメモを広げ、佐和の肩に顎をのせて一緒に画面を見た。 「周防が思った数字でいいよ。焦ってぶちかましただけの数字なら、適正なところまで下げて欲しいけど。本当は心の底で、イケるって思ってるでしょ?」  佐和は頬が触れ合う至近距離で、大きな黒目を動かして俺を見た。 「もちろん」 「その数字、書いてみようよ。キツくなってきたら、数字を落とすか、単位を落とすか、どっちか選ぼう」  腹の前にある資料と見比べながら、フォーマットを埋めていく佐和の手を見つつ、俺はため息をついた。 「単位、なぁ。卒論、書ける気がしない」 「周防は目立つからね。先生にちょっと目をつけられちゃったよね」 「俺が? マジか」 「ビジネススーツが板に着いちゃってるし、話し方もビジネスマンっぽいじゃん? 学究の徒として一途にやってきた世間知らずな先生にとって、すでに実践してる内容を論じてる周防は、黒船みたいな存在だもん。先生が提唱する机上の空論を崩されそうで、嫌なんだと思うよ」 「佐和だって、条件は同じだろう?」 「周防の隣にいたら、僕は大人しく見えるもん。テーマも財務情報をもとにした持株会社の投資意思決定だから、過去の事実を集めてきて淡々と分析すればいいだけだし、ウチの会社は関係ない」  俺は強く息を吐いた。 「なんだよ、それ。向こうから、自分の会社をテーマに書けって言ってきたくせに」  思い切り唇を尖らせ、鼻から息を吐いた。佐和は優しい声で俺をなだめる。 「思ったより優秀で、持て余してるんだろうね。中間発表のときだって、ものすごいイヤらしいツッコミだったじゃん。ほかにダメだしできるところなかったもんね。来年も世話したくないから、単位くれると思うよ」 「マジか。中間発表、結構凹んでたのになぁ」 「え、凹んでたの? 僕は先生が睨み殺されるほうを心配してたんだけど。早く言えばよかったね」  佐和が後ろ手で、俺の髪を撫でてくれた。 「羨ましい、尊敬するのほかに、これからはプレッシャーがキツい、凹んだ、傷ついた、慰めてくれも積極的に言う」 「はいはい」 「慰めてくれ、佐和!」  抱き締めて身体を左右に揺すったら、佐和はインターネットで旅行情報サイトを立ち上げた。 「じゃあ、慰安旅行に行こうか? SSスラスト初の、社員旅行!」 「名案だ! 部屋付き露天風呂があるところ!」  完成した経営計画書をメールに添付して光島へ飛ばし、俺たちは『カップルにオススメ! 客室露天風呂つき温泉宿特集』のページを見た。 「男同士でも泊めてくれるのかなぁ?」 「ゲイカップルだと言い張ればいいんじゃないか」 「僕たち、ゲイカップルに見えるかな?」 「勝負パンツを荷物の中に仕込んでおいて、フロントの前でわざとらしくぶちまければいい」  佐和は手を叩いて笑った。 「ゲイカップルの勝負パンツって、何?!」 「さあ? 調べたら出てくるんじゃないか」  検索したら、想像をはるかに超えるデザインが溢れ出てきて、ルールを作った。 「旅行中、相手が指定した勝負パンツしか穿いてはいけない!」 「うっわ、マジか! 本当に部屋にお風呂がないとヤバいね。周防に何を穿かせようかな。ふんどし?」  俺たちは大騒ぎしながら宿を予約し、笑い転げながら下着を買った。

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