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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(24)
佐和のお父さんに車を借りて、一路、温泉を目指した。
あいにくの曇り空だが、佐和は助手席から空を見上げて目を細める。
「眩しすぎなくて、ちょうどいい天気だね」
「佐和がそう言うなら、今日はいい天気だ」
俺たちはラジオから流れる曲の歌詞を知っているところだけ歌い、知らないところは適当な鼻歌を歌う。
佐和は相変わらずカラオケは苦手そうだが、流れてくる曲を聴いて
「あ、この曲いいよね」
と口ずさんでいて、歌うことそのものは楽しんでいた。
そして、佐和が独り言のように歌っているときの無防備な歌声は、りんご飴のような瑞々しくて爽やかな甘さがある。この歌声を聞けるだけでも、俺は佐和と親しくなることができてよかったと思う。
佐和の口から紡がれる歌に耳を傾けながら車を走らせた。
高速道路を降りて、大きなカーブを曲がると同時に、一気に視界が開けた。
優しい曇り空を映した海が視界いっぱいに広がる。
「わあっ、海ーっ! テンション上がるねっ」
佐和は子どものような歓声を上げる。助手席の窓を全開にして光る海に目を細め、黒髪を輝かせていた。
俺はサングラスをかけて視界を確保しながら、こんなに喜んでくれるなら、毎日だって車を運転するし、海を見せてあげたいと思う。
そろそろ自分の車を買おうかなという考えが頭をよぎった。
旅館へ到着すると、やけに派手な笑顔で迎えられ、張りのある声で案内された。通常の気遣いを超えた無理が感じられ、ゲイカップルを見慣れない人たちの精一杯好意的な対応なのだろうと察する。
「ごきげんよう、お世話になります」
佐和はいつも通りの笑顔と対応で、自分たちがゲイカップルだと思われていることに、まったく気づいていない。
仲居が退出したタイミングで、俺は佐和に訊いてみた。
「下着をぶちまけなくても、ゲイカップルだと思われている。気づいてた?」
「うっそ。マジで? 全然、普通の接客だったじゃん」
「腫れ物に触るような接客だっただろうが。彼女とふたりで旅館に泊まって、あんなにわざとらしく賑やかに対応されるか?」
「んー。彼女と泊まるときのほうが、腫れ物に触るような対応じゃない? 『お連れ様』かな、『奥様』かなっていう。あ、あと、僕、彼女と旅館に来ると、夫婦ごっこさせられるのがすごく嫌。『奥様』って呼ばれて、何で喜んでるの? 『ご主人』って呼ばれて、僕はすっごく嫌なんだけどって」
佐和は本気で不機嫌な顔をしていて、俺は心配になった。
「それ、口に出したらケンカにならないか?」
「うん、なったよ。つい『僕たち夫婦じゃないよね? 僕は結婚願望はないんだけど』って言ったら、そのままケンカに突入。その程度のことを適当に受け流せない狭量な僕が悪いらしい」
佐和は盛大に息を吐き、温泉まんじゅうの包みを開いてもぐもぐ食べる。
「先月別れたのは、それが原因か?」
「んー、決定打ではないんだけど、影響はしたのかな。僕といるのが疲れるなら、浮気なんてしないで、さっさと別れてくれていいのに。何で夜中に何駅も離れた遠いファミレスに呼び出されて、初対面の浮気相手から怒鳴られなきゃならないの。そんなに大きな声を出さなくたって、ちゃんと別れるよ」
肩をすくめ、ほろ苦い玉露をすする。
「俺が言うのもなんだけど、女とのつきあい方を見直したほうがいいんじゃないのか」
「周防みたいに『彼氏にはなれないけど、遊び相手にならなれるよ。何して遊ぶ? 恋人ごっこ?』なんて、さらっと言えたらいいのかなぁ」
俺の常套句を真似て首を傾げている。
「言ってもいいけど、恋愛には発展しないぞ?」
「そっか。恋愛なしっていうのも、さみしいな。周防は本当にいつも遊びで、本当に全然恋愛はしないの?」
「好きな人はいるって言ってるだろ。恋愛をしていない訳じゃない」
「告白すればいいのに」
佐和のアドバイスに俺は思わず笑って、飲んでいたお茶を噴きそうになる。
「相手にされないんだから、どうしようもない」
「押しが弱いんじゃない?」
新しく包装を解いた温泉まんじゅうを俺の口角にぐりぐりと押しつけてきた。
「自分から告白したことがないヤツに言われたくない」
しばらく佐和の好きなようにさせておいてから、不意打ちで佐和の手首を掴み、指ごと温泉まんじゅうを食べた。
「わあっ! 痛い、痛い、噛まないでっ!」
さらにその指を派手な音を立てて吸って、舌先でくすぐって舐めまわしてやった。佐和は大きな声で笑う。
「もうっ! べたべたになっちゃった」
佐和は苦笑しながら、おしぼりでごしごし指を拭いていて、俺は立ち上がって佐和の肩を叩いた。
「風呂!」
その場で服を全部脱いだら、佐和も潔く脱いだ。
脱ぎっぱなしのまま部屋の外にある露天風呂へ向かう。
「わあっ、気持ちいい!」
1歩踏み出しただけで、佐和は両手を広げて喜んだ。
大きくて四角い御影石の浴槽は、樋 から流れ込んだ温泉で満たされ、溢れていて、湯面と海、そして空までもが一体になって見えた。
「いい景色だ」
薄曇りの空が陽射しをやわらげ、頭上で鋭い鳴き声をたなびかせながら旋回する鳶の姿を見ることができる。
佐和はさっさとかけ湯をして風呂に飛び込み、浴槽のふちから身を乗り出して景色を見ていた。
浴槽は手前が浅く、奥が深くなっていて、みぞおちの高さまで浴槽のふちがあるかわりに、柵がなかった。直下は波が砕けるごつごつとした岩場になっている。
俺はなるべく音を立てず、湯面を揺らさないように気をつけながら、そっと佐和の背後に立ち、いきなり佐和の両肩を掴んで「わっ!」と脅しながら前へ押し出し、すぐに自分の胸元へ引き寄せた。
「わあっ!」
佐和は海に響き渡るような大声で叫ぶ。
「びっくりした?」
耳に口を寄せて訊ねると、佐和は深呼吸をしてから、はじけるように笑い出して、手にすくった湯を俺にかけた。
「もうっ! びっくりしたっ!」
そこからは身体を離し、向かい合って距離をとり、両手で湯をすくって、ざぶざぶと大量の湯を掛け合った。
佐和のかけ方は容赦なく、大粒の湯を頭から浴びせられ、俺も水遊びなら得意で大量の湯を佐和に浴びせた。
「うっわ、何でそんなにたくさんすくえるの? 滝じゃん!」
「水の掴みかたがあるんだ。ほら!」
大きく波打つ湯面にバランスを崩しかけた佐和の腕を掴まえ、浴槽の浅い場所に並んで座った。
身体を揺するほど暴れていた湯面が落ち着きを取り戻す頃、佐和は湯の中で膝を抱え、俺の肩に寄りかかってきた。
「天使の梯子がいっぱい」
「ああ。ドラマティックだ」
いつの間にか空全体を雲が覆い、隙間からいく筋もの光が射していた。
「僕、周防と見る景色が一番好き」
佐和は目を細め、左右の口角を上げた。
「段取りとか、駆け引きとか、余計なことを考えず、目の前にあるものを素直に見て、素直に感動できる。空でも、海でも、星でも、東京タワーでも、仕事中のパソコン画面でも」
「仕事中のパソコン画面でも?」
隣を見ると、佐和は少し照れたように笑った。
「うん。この数字は周防が頑張って勝ち取った数字なんだなとか、とうとうこれから何年もかけて減価償却するようなものを買っちゃったな、会社は続いていくんだな、ゴーイングコンサーン だなとか。会社に関して、いちいち愛を感じちゃう。ちょっとマニアックだね」
「『SSスラスト』を一番愛してるのは、俺たちだからな。登記所へ行った日の写真を見るだけで目頭が熱くなる変態は、そうそういない」
「あの日、嬉しかったよね。ずっと覚えていたいな。ケンカしたり、失敗したり、落ち込んだり、恥をかいたりしたことも、周防と一緒にしたことは、全部覚えていたい」
「俺と一緒にしたこと? 会社に関することじゃなくて?」
「ほとんど重なってるけど、周防と一緒にしたこと。周防が覚えてるかはわからないけど、初めて会った日、周防は二日酔いで、僕が少し大きな声を出したら、人差し指を唇の前に立てたんだ。その仕草に、僕は結構ドキドキした。色っぽくて、カッコよくて。この人、女性にモテるんだろうなって思った」
「ひょっとして、俺に一目惚れした?」
ガキ大将のような荒っぽさで照れ隠しをしながら、佐和の肩を抱いた。佐和は素直に俺とくっついて、至近距離で大きな黒い瞳を向け、笑顔で頷く。
「そうかも。ある意味、一目惚れだったかも。すごい、僕でも一目惚れすることがあるんだね! 大きな発見!」
佐和は水飛沫を上げながら、パチパチと自分で自分に拍手しておどける。
俺は思わず佐和を抱きしめた。
「めちゃくちゃ愛しいヤツ! 何と愛しいヤツなんだ、佐和は!」
俺が唇を尖らせたので、佐和はすぐに察して身を引いたが、もちろん逃さず頭を抱え、佐和の頬に思いっきりぶちゅうっと音を立てるキスをした。
「もう! だから僕たち、ゲイカップルに間違えられるんじゃないのぉ?」
佐和は苦笑しながら、手の甲で頬を擦った。
「間違えられたら、何か問題でも?」
「大アリだろ。合コンの誘いも、紹介も、なくなっちゃうじゃん。周防みたいに視線が合っただけで勝手に女性が落ちちゃうなんて魔法は、僕は持ち合わせてないんだから!」
俺は佐和と視線を合わせてみたが、佐和は笑うばっかりだった。この魔法、佐和にだけは通用しないんだよなぁ。
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