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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(25)

 佐和の肩を抱き、大きな黒目をさまざまな角度から見つめて遊び、変な気分になる前に身体を離した。  軒下にダブルサイズのデイベッドがあり、左半分を空けて仰向けに横たわる。遠くに見える雲は手漉き和紙のような美しい濃淡を見せながら、金色の陽の光を透かし、風とともに流れていた。  晩秋の午後の風は肌を乾かし、のぼせた身体を冷ましてくれる。  「ああ、気持ちいい……」  目を閉じて、樋から湯が流れ落ちる音と潮騒、鳶の鋭い鳴き声を聴く。  通常業務に加えて卒論、決算と、忙しい日常から、久しぶりに頭も身体も引き離されているのを感じた。 『明日のために寝なくてはいけない』という義務感や、『もう起きていられない』と意識を失うような眠りではなく、自然にプールに浮かぶような心地よいまどろみを味わった。 「周防、風邪ひくよ」  佐和の声とともに、乾いたタオルケットで全身を覆われるのを感じて、そのまま眠りに落ちた。  そんなに長い時間眠ったつもりはなかったが、薄雲の向こうは濃いオレンジ色に変化していた。  隣には、佐和がうつ伏せ、目を閉じている。唇は薄く開き、深い呼吸を繰り返していた。  俺は佐和に向けて横向きになり、手枕をして寝顔を眺める。俺のように『顔がよくて何が悪い。この顔だって俺の取り柄だ』などと憎まれ口を叩かないだけで、爽やかな笑顔とともに『ごきげんよう』と挨拶すれば、女には不自由しない顔立ちをしている。 「問題は恋愛観だよなぁ。俺に言われたくないだろうけど」  頬にかかる黒髪を、そっと指先で剥がして、耳の後ろへ撫でつけてやる。そのまま何度も手櫛で髪を梳きながら、佐和の顔を眺めていた。途中で佐和は薄く目を開き、ふわりと笑むとまた目を閉じた。 「気持ちいい」  佐和の呟きに愛しさがこみ上げ、優しくしたい気持ちが溢れて、自然に自分の口許にも笑みが浮かんだ。  ただ『好きだなぁ』と思いながら、佐和の前髪をかき上げ続けた。  潮の香りを含んだ風が一陣、佐和の肩にタオルケットをかけ直し、乱れた自分の髪をかき上げて、水平線を見た。  雲の下に現れた夕陽が力強い光を放っていた。思わず身体を起こしてその姿を見る。沈むまで諦めず、光を放ち続ける力強さを、自分も持ち続けていたい。 「力強い夕陽だね」 「ああ」  佐和は隣に起き上がり、一緒に夕陽を見てくれた。 「僕、最近、周防が夕陽をカッコイイって言う理由が、何となくわかるようになってきた」 「そう? 俺も佐和に影響を与えることがあるのか」 「いっぱいあるよ。お互いに影響を与えあうから楽しいんだよ、僕たちは」  太陽はさらに水平線へ近づき、雲を染め、さらには海をも染めた。眼前も頭上も取り巻く空気すべてが茜色に染まって、思わず息を飲んだ。  無意識のうちにベッドの上を手で探り、気づいた佐和が俺の手を掴んでくれた。  東の空からやってきた夜にあとを託すように太陽が消えて、我に返った。 「最近、夕陽を見ていなかった」 「たまには社員旅行も必要だね。また旅行して、いろんなところから夕陽を見よう。夕陽ハンティングの旅なんていうのも、よさそうだね」  温泉で身体を温め、糊の効いた浴衣を広げて羽織った。  互いに横目で相手を見る。 「佐和殿、いざ尋常に勝負」 「望むところだ、周防殿」 「「いっせーのー、せっ!」」  中身のわからない袋を互いに差し出して交換する。 「うっわぁ、スッケスケじゃん……しかもこれ、まさかTバック?」  黒のシースルーTバックビキニを顔の高さに広げ、佐和は絶句する。  俺は俺で、マゾヒスティックなフェイクレザーのジョックストラップを手に言葉を失っていた。  互いに背を向け、浴衣の内側でもぞもぞと勝負パンツを穿く。 「これは……どうなんだろう?」  佐和は浴衣の内側を見下ろして、戸惑いの声を上げた。  俺は試着室のカーテンを開けるように、佐和の浴衣の裾をひらりとめくる。 「どう? あ、いいじゃん、エロくて」  俺はさらに浴衣を開き、佐和の尻を洗面台の鏡に映した。  腰から伸びる布が、丸く後ろに突き出す尻の谷間に消えていく。 「ほら、後ろもエッチな感じ。勝負パンツらしくていい」  鏡の中の佐和に話し掛けると、佐和は困ったように笑う。 「うーん。Tバックなんて初めて穿くから、すごい違和感。食い込む感じがする」  俺は軽い気持ちで腰周りの布を上に引き上げて食い込ませた。 「ぎゃあああああっ!」  佐和は悲鳴を上げて逃げ、振り向きざまに左右の手首を合わせて両手を開き、波動拳を放つ。俺は見えない波動を腹に受け、背を丸めて、ぐはあっと後ろに飛んで見せた。 「やめてよっ! 今度やったら真・昇竜拳だからねっ! で、周防はどうなの?」  正面に立った佐和にがばっと浴衣を開かれた。  俺は前髪をかきあげ、反対の手を腰にあてて上体を捻り、片足に体重をのせて、モデルのようにポーズをとって、派手なウィンクを決め、口の中でキスの音を立てた。佐和はその瞬間に爆笑した。 「周防って、何でも似合うね、カッコイイ!」  両手を叩いて笑い、床に膝をついて腹を押さえて笑って、笑いすぎて咳き込んでいる。  背中をさすってやっていたら、インターホンが鳴り『失礼致します』と仲居の声が聞こえた。  俺は浴衣の前を深く合わせ、兵児帯を腰に巻きつけて結びながら、対応に出た。 「お夕飯をお持ちいたします」 「はい。お願いします」  脱ぎっぱなしだった服を慌ててまとめ、ボストンバッグの上に放り投げた。座卓の上を片づけてもらっているあいだに、佐和のチノパンとニットジャケットはハンガーにかけ、脱いだTシャツとボクサーブリーフと靴下はランドリーバッグに入れる。 「あ、ありがとう」  部屋へ入ってきた佐和は『やってもらって、ラッキー!』くらいの軽さと機嫌のよさで近寄ってきて、お返しのつもりなのか、俺のライダースジャケットをハンガーにかけてくれる。 「本革の服って、いい匂いがするね」  そのまま抱き締めて匂いを嗅ぎはじめた。 「汗臭くないか?」 「それも含めていい匂い」  わざわざジャケットの内側の脇の部分に鼻先をくっつけている。 「フェチ?」 「そうかも」 「明日、ニットジャケットを貸してくれるなら、そのジャケットは佐和に貸してやるよ」 「本当?! 取り替えっこしよう、しよう!」  佐和はさっそく浴衣の上からジャケットを着て、『僕、かっこいい!』などとはしゃいでいる。  その隙にふたり分の荷物整理は終わり、夕食の膳も整った。  俺も佐和もきちんと浴衣の前を合わせ、正座をした。  膝を割って下着を見せる羞恥プレイと仲居へのセクハラは避けたい。 「まぁまぁ、どうぞお楽になさってくださいね」  リラックスさせようと、『温泉はいかがでしたか』、『明日のご予定は』などと話し掛けてくれる。 「近くの水族館はイワシの大群が見応えがありますよ。神社には弁天様が祀られていて、根元がひとつになったイチョウの木があるんです。結びの木と呼ばれていて、絵馬を書いて奉納すると、おふたりのご縁が生涯続くんだそうです」 「水族館と、神社、近いなら両方行ってみたいね」  仲居の話に頷きながら、俺に同意を求めてきて、俺は縁結びの神社に行くのも悪くないと思いつつ、黙って頷いた。 「水族館の割引券がございますから、お持ち致しますね。それから、少し山の方へ行きますと、恋人の丘というのがありまして、ふたりの名前を書いた南京錠をロックすると、その恋人たちは永遠に結ばれるんだそうですよ」  仲居の朗らかな笑顔に、佐和は熱心に頷く。 「そうなんですか。……そういえば、僕たちのどこを見て、恋人同士だって思われたんですか?」  佐和はズバリと斬りこみ、仲居は息を呑む。佐和は慌ててとりなした。 「あ、いいんです。僕たちは本当に恋人同士ですし、隠してもいません。間違ってないんですけど、予約するときにも、宿帳にも、ふたりの関係を書いてないのに、どうして友達同士ではなく、恋人同士だとお分かりになったのかなって思っただけです」  すらすらと嘘をつく佐和に、仲居はホッと息をつく。 「そうですねぇ、雰囲気と申しましょうか。お互いの目を見ていらっしゃる時間の長さや、眼差しの優しさ、表情の柔らかさ、打ち解けた空気、身体の距離、ちょっとした会話から伝わる思いやりでしょうか……あと、おカバンがひとつだけでしたので、日頃から一緒に生活をされていらっしゃるのかなと思いました」 「荷物! 確かに僕のボストンバッグにふたり分詰めてきたもんね! さすが、プロの方はそういうところで判断なさるんですね。勉強になりました。ありがとうございます」  爽やかな笑顔で礼を言って、仲居は安堵して退出した。  俺たちは恋人同士でいいのか?  俺はひとりで心臓をバクバクさせていたが、佐和は並んだ先付けや八寸に箸をのばし、ひと口ごとに嬉しそうな顔をしている。  頭のいいヤツが考えることは、凡人にはわからない。推測できなくて素直に訊いた。 「俺と恋人同士に思われてもいいのか?」 「うん。なぜ僕たちが恋人同士に間違えられるのかっていう、僕の疑問は解決されたから、いい」 「あ、そう」 「それに、この旅館の人たちが僕に彼女を紹介してくれる可能性は限りなくゼロに近い」 「まぁな」  佐和の基準は、いろいろわかりにくいなと思う。疑問に思ったら、本人に確認するのがよさそうだ。 「俺が佐和の服を片づけるのは嫌じゃないのか? この前、彼女に服を片づけられて文句を言っていただろう」 「んー。僕たちが、僕たちの服を片づけるのは『生活』だろ。必要があってやってることで、ごっこ遊びやシミュレーション、家庭的な女アピールとは違う」 「そういう判断基準があるのか」  俺は徳利を傾けて、佐和の猪口に熱燗を注ぐ。佐和も徳利を傾けて、俺の猪口に注ぎ返してくれながら、苦笑した。 「今までもよく恋人同士に間違えられるなぁとは思ってたけど、旅行カバンの数は盲点だったよ」 「これからは旅行カバンの数はふたつにして、遠く離れた距離で糸電話でも使う?」  佐和が距離を置きたいと言い出すのではないか、そう不安に思いながら訊ねたが、一笑にふされた。 「何それ、めんどくさい! 僕たちは今のやり方で上手くいってるんだから、変えることないよ。仕事を前にして、僕たちが恋人同士に間違えられるなんて、些細なことじゃない?」 「なるほど、佐和は彼女さえできれば、ほかで誤解されても構わないのか」 「そうだね。彼女と僕、周防と僕が、それぞれ本当のことを知っていれば、僕はそれでいいよ。ほかの人たちにどう思われても、気にしない……そう思ってないと、世の中にはいろんな憶測や推測でものを言う人が多すぎて、感情が波立って疲れちゃう」  佐和は猪口の中身をひと息で飲み干した。  その気持ちはよくわかる。  俺は佐和の猪口に酒を注いだ。

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