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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(26)
「周防なんか、もっといろいろ言われてると思うけどさ。言う人は言うし、通じない人は通じないよね」
水菓子を食べ終える頃、何本目かの徳利から注いだ酒を口に含んで、佐和は肩をすくめた。
「言いたいだけで聞きたくないパターンもあるしな」
俺たちはベンチャーブームがもっとも下火だった時期に起業した。
経産省の呼び掛けに応じて、太宰さんや光島たちが起業家支援のプラットフォーム整備を進め、起業活動を促進していたくらい、本当に起業家が少なかった時期で、学生起業家の数はさらに少なかった。
だからこそ、俺たちのような青二才にもチャンスが巡ってきたのだが、反面、何かにつけて俺たちの名前は取り沙汰された。ほかに注目すべき学生起業家がいなかったからだ。
マスコミ対応は、目立ちたがり屋でお調子者な俺が担当すると決めている。しかし、どこもかしこも俺の顔と名前ばかりでは、新鮮味がなくなってくる。そうなると次に矛先が向かうのは佐和で、俺が使えない以上、腹を括って対応するしかなかった。
佐和は端正な容姿の持ち主でカメラ映えするし、頭の回転が速くて思慮深いから、話す内容も面白い。直接話を聞きたいと講演に呼ばれるし、子ども相手に話すのも上手いから、小中学校へも出前授業に行く。ペンを持たせれば、知性に溢れた上品な文章を書く。だから依頼は一度きりでは終わらなくて、この当時はかなり露出が増えていた。
今でこそ、俺も佐和も本業に関するものと後進の支援育成に関するものに限定して依頼を受け、真面目なことしか話さない。しかし最初期は取材の謝礼金も会社の売上に役立っていたので、資金稼ぎのために多少俗っぽい依頼も引き受けていた。けしかけられているのを承知で、ときにはわざと相手を刺激するような生意気も言ったし、強気な態度もとった。
だから、時代の最先端を突っ走る新しもの好きな人たちには興味を持ってもらえたが、保守的で伝統を重んじる人たちには嫌われていた。
「僕たちって、友だちいないよねぇ」
「まぁな。佐和がいれば、ほかの友だちはいなくてもいい」
俺たちが通っていた大学は伝統があり、アカデミックな校風だった。他大学に比べ、社会に出て経験を積んだ後は家業を継ぐと決まっている学生の割合が高く、幼い頃から恵まれた環境の中で素直に気持ちよく育つ人が多い。
佐和もその典型と呼べるパターンで、つきあう友人たちは皆、似たようなバックボーンを持っていた。
そして一様に、今の恵まれた環境は親に与えられたものであって、自分の努力はどこにもない、生まれ落ちた場所がよかっただけ、という考え方をしていた。
幼稚園や小学校から大学までエスカレーター式で、世間一般の生活水準と常識に疎く、受験勉強や経済的不安を経験していないコンプレックスや、社会に出て今より生活水準を下げてわずかな給料の範囲内で自活できるかどうかという不安も見え隠れする。
佐和も同じようなことを考えていたはずだが、実際に自分の手で起業して経営して、その顔は精悍さを増し、動作も機敏になった。レスポンスが早くなり、優先順位を付けて仕事をすることが上手くなり、オンオフの切り換えもできるようになってきている。
小学校時代からの姿を知る友人たちの目には、佐和が変わった、野心的になった、利潤を追い求めるようになったと映るのかもしれない。ひょっとしたら一足先に社会へ踏み出して活躍していることへの嫉妬や羨望もあろうかと思う。
「言葉が通じなくなっていくなぁって思っちゃった。そんなに人生を怖がらなくてもいいのに……あーあ、せっかくの旅行なんだから、メールチェックなんてしなければよかった!」
佐和はまた盃を呷り、俺は最後の一滴まで注いでやる。
「読もうか?」
「うん。巻き込んでごめんね」
「ごめんねではなく、ありがとうがいい」
「ありがとう」
俺たちには、心当たりの有無にかかわらず、いろんなメールが届いた。
金銭の無心やコネクションの依頼、見合い話は可愛いほうで、吐き気を催すようなグロテスクで卑猥な画像を送りつけられることもあったし、首相動向のように一日の行動をつぶさに記録しただけのメールが来ることもあった。
説教やクレームなら事実に即しているだけまだマシで、身に覚えのない内容で死ねと言われたり、殺しに行くから待っていろと日時と場所を予告されたりもした。
寂しいから一緒にいて欲しい、直接会ってほしい、心中して欲しいという要求もあったし、恋をしました毎日あなたのことを考えていますこんなに好きなのになぜあなたは私を見てくれないのですかと言い募ってきた挙げ句、私をこんなに苦しめるなんてあなたは死ぬべきですと飛躍し、毎日違うメアドを使い、いつ死ぬんですか、今日死ぬんですか、まだ死なないんですかとやられると、相手の心の闇にも思いを馳せてしまうし、自分のやっていることも空しくなる。
あまりにも困惑するようなメールが続くと、メールソフトを立ち上げることすら億劫になってくる。ひとりきりのときはメールチェックを避け、受け止めきれない内容は共有して、その苦しさを半分にして乗り越えていた。
今でも互いのスマホの暗証番号を知り、生体認証を登録しあい、勝手に操作できるようにしているのは、アクシデント時の対応というより、互いのプライバシーへ強く踏み込んでようやく支え合い、助け合っていた時間の名残だ。
俺は佐和のスマホを受け取って、メールソフトを立ち上げた。
「大丈夫、佐和は何も悪くない」
内容を読む前から相手にそう言って聞かせるのも、いつの間にかふたりのあいだで身につけた手法だった。
佐和と友人は、主に常識という言葉を巡ってすれ違っていた。すでにひとかどの経営者になってしまった佐和と、まだ新入社員にもなっていない友人の意識の違いが明らかだった。
『そんなの常識だろ』、『佐和君の常識は、本当の常識じゃない』、『ほんの1、2年先に仕事してることがそんなに偉い?』、『こっちが働いてやるんだよ』、『佐和君はなぜそっちに迎合する訳?』、『自分だって人に使われるのが嫌で会社を作ったのに、どうして使われる側になりたくない俺に説教するの、人の気持ちがわからないの』、『世間知らずっていうほど、世間知ってるの?』、『感謝なんていうパフォーマンスで腹が満たせる?』、『きれい事を言えば自分は偉い副社長だとアピールできると思ってるのかな』、そんな言葉が並んでいて、佐和がお人好しなほど丁寧に返している言葉は、何ひとつ友人には届いていなかった。
見ず知らずの人間ではなく、小学生の頃から知っている友人のくせに、この言い草は酷い。佐和のことを何もわかっていない。就職活動が上手くいっていないという主旨のことも書いてあるが、それは免罪符にはならない。
お前、もう佐和の友人を名乗るなよ。
心に浮かぶ言葉をグラスの底に残っていたぬるいビールで洗い流す。
俺がメールを辿っているあいだ、佐和は目を伏せ、黙って手酌で飲んでいた。
俺はスマホから目を上げないまま、自分の隣のスペースを手で叩く。佐和は気乗りしなそうだったが、それでも徳利と猪口を手に隣へ座った。
すかさず佐和の腰へ腕を回してホールドし、肩に顎をのせて訊いた。
「エッチなパンツの履き心地はどう? 興奮した? 勃った?」
浴衣の裾へ手を掛けると、佐和は慌てて両手で押さえる。
「勃たないよ!」
浴衣を押さえてガラ空きになった脇腹をめいっぱいくすぐった。
「わあっ、何? 何? ちょ、すおうっ、やめっ!」
ディフェンスからボールを守る回し込みの要領で佐和の動きを封じ、脇腹をくすぐり続ける。畳の上に倒れた佐和を押さえつけて、首筋も脇の下も太腿も足の裏も、あらゆるところをくすぐった。
佐和は腹を震わせ、両足をばたつかせ、頭を左右に振って大笑いした。息も絶え絶えになったところでようやく許した。
「よし、笑った! いい子だ!」
仕上げにぐしゃぐしゃと荒っぽく髪を撫でてから、話を戻した。
「俺の所感。もう佐和もわかってると思うけど、現時点での歩み寄りは難しい。10年後に再会して一緒に酒が飲めたらベストじゃないか。それまでは俺が遊び相手になるから、それで妥協して」
佐和はほとんど脱げている浴衣をあちこち引っ張って直しながら、歪みそうになる唇を無理矢理笑ませて頷いた。
「うん。そうだね」
「返信はどうする? 俺が書いてもいい?」
代筆もよくやっていた。特に友人とのつきあいを今後遠慮するときなど、混乱した頭と心で未練を残して書くよりも、客観的な目と頭で書いてもらうほうが、誤解の少ない文章が書ける。自分の友だちのことなんだから、自分でやれと言われそうだが、俺たちが受け取るメールは、もはやそんな正攻法で太刀打ちできる量を超えていた。
簡潔にまとめ、相手の健闘と健康を願う文章で締めて佐和に差し出し、佐和は一度目を通しただけで頷いた。送信ボタンは俺が押した。
「なんか最近、こんなことばっかり。経営者は孤独だってよく聞くけど、こういうことなのかな」
「友だちと常識や価値観がずれていくことは、これからもあるだろうな」
佐和の乱れた髪を手櫛で直すふりで、何度も頭を撫でた。
「ねぇ、周防。常識って、やっぱり多数決かな……?」
畳の上に、佐和の声がぽろんと転がった。
「そうかもな」
「だとしたら、経営者の僕たちは圧倒的に不利だよね。経営者と労働者じゃ、経営者の人数の方が少ないもの。たくさんの人からお前の常識は違うって言われながら、それでも自分の常識を貫き続けなくちゃいけないってことだよね? 僕たちは、ずっとマイノリティなの?」
「マイノリティになるのは怖い? 俺が一緒にいるけど?」
「ごめん、怖い」
佐和はちょっと笑った。俺も一緒に笑った。
「悪かったな、力不足で」
「ううん。でも、周防は僕と一緒に怖がってくれるでしょう?」
「もちろん」
「僕は、一方的に守ってくれる王子様はいらない。僕だってカッコ悪くてもちゃんとがんばるもの。でも『ねぇ、周防。怖いね』って言ったら、隣で一緒に『ああ、怖いな』って言ってくれる周防が欲しい」
俺はもちろん頷いた。俺のことなんて、もうとっくに全部全部佐和にあげている。
「なぁ、佐和。常識は多数決かも知れない。でも、俺たちの常識が常にマイノリティな訳じゃないと思う。別の場所に行けば、マジョリティになることだってあると思う」
「うん」
「こうやっていろんな人との離合集散を繰り返すうちに、俺たちの常識が当たり前な世界に辿り着く日が来るんじゃないかと思う。もしそういう世界がどこにもなかったら、作ってしまおう」
顔をのぞき込むと、佐和は今度こそちゃんとした笑顔で頷いた。
「僕たち、こんな変なパンツを穿いているのに、真面目な話をしてて、おかしいね」
寂しげに笑う佐和の頭を、俺は胸に抱き込んだ。
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