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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(27)

 風呂に飛び込み、また真面目な話をたくさんした。人生とは、経営とは、友情とは、生きるとは、死ぬとは、恋愛とは、セックスとは。 「周防にとって恋愛とは、何?」 「エナジードリンク。佐和にとって恋愛とは?」 「非日常、かな。この世の憂さを忘れさせてくれるもの」  まだそういう話を盛んにしたい年齢だった。周囲より2年以上早く社会人になって、仕事ばかりしていたという記憶が強いが、佐和と語り合った時間は青春だったと思う。  毎日の中で感じたこと、疑問、違和感を吐き出して、違う角度から光をあてて、自分たちなりの検証をした。 「実際に一歩を踏み出すっていうことが、大切なのかなって思った。たった一歩でも、0と1の差は大きい」  浴槽のふちに腰掛けて脚を組み、その膝を抱えながら、佐和は話した。 「僕は温室育ちの世間知らずだけど、実際に身を投じてみれば、そんなことをコンプレックスに感じる時間もなくなっちゃう。ただひたむきに学ぶ、調べる、実践の中でそういうのを繰り返していけば、それがたとえ付け焼き刃かもしれなくても、自分の身について、案外どうにかなるんだなーって」 「自分は何も知らないと気づけば、おのずとやるべきことが見えてくるよな」 「うん。知らないっていう自覚は大事だね。自覚してなかったら、学ぶことも、人に頭を下げることもできない。そしていつまでも知らないままだもんね」  俺は両手を組み合わせて水鉄砲の形にし、佐和の身体へ湯をかけた。 「さて、世間知らずな佐和くんに問題です。『穴兄弟』とは何でしょうか?」 「ピーチ! ファイナルアンサー!」  正解は期待していなかったが、それにしても意味がわからない。穴からアヌス、尻、桃とでも連想したのか。 「ピーチ?」  不可思議な反応を示す俺に、胸を張っていた佐和が首を傾げた。 「あれ? 違ったっけ? エアアジア? スターアライアンス? あ、ユナイテッド?」  それでようやく俺は佐和の連想を理解した。 「佐和。全日本空輸に、今すぐ全力で謝れ。風呂に顔面突っ込む勢いで謝れ!」 「わー、ごめんなさーい!」  佐和は風呂に潜って、俺のすぐ隣に浮き上がった。 「残念。何ならJAL兄弟もあるかなーって思ったんだけどな。兄弟間でのマイレージ交換ができますよーって」  手のひらで湯を拭ったばかりの顔へ向け、俺は指先で湯面をはじいた。  「俺の質問がそんなまともな内容なこと、あったか?」 「ないけどさー。ほかに思いつかなかったんだもん」  俺は佐和にヘッドロックをかまし、耳に唇を押しつけながら言葉の意味を解説した。聞きながら佐和は噴き出し、肩を震わせ、解説が終わるとすぐに手を叩いて笑った。 「すっごい勘違いだったね、僕!」 「そのカマトトとも思えるすっとぼけた曲解ぶりは、いつ聞いても素晴らしい」 「カマボコはトト()からできてるの? って質問するんだっけ。あ、明日カマボコをお土産に買おうっと。水族館にカマボコって売ってるかな?」 「水族館で買うのは難しくないか。どこか店を探そう。きっと旅館の人が情報を持ってる」  佐和は頷き、すうっと泳いでまた浴槽の縁に座った。佐和が空を見上げ、視線を辿って一緒に見た空の遠くに、ゆっくり飛行機が横切った。白く強く光る閃光灯と点滅する赤と緑の回転ビーコンを追う。 「僕たちは、向かい合ってしまわないように、気をつけなきゃね。向かい合えば周りを見なくてよくて、ふたりきりの世界で心地いいだろうけど」  佐和が何を連想したのか、今度はすぐにわかった。 「『愛とは互いに見つめあうことではなく、共に同じ方向を見つめることである』」  パイロットだったサン=テグジュペリの言葉を思い出したら、佐和は頷いた。 「僕たちの愛は互いに見つめあうことではなく、共に背中を預け合いあらゆる方向を見ることである。どう?」  佐和はくすくす笑い、俺は頷く。 「名言だ。今もどこかの空を飛んでいるであろうサン=テグジュペリ先生も褒めてくれてる」 「サン=テグジュペリせんせーい、SSスラストはここでーす! GPSで検索してー!」  佐和はおどけて、両手両足を夜空に向かってばたつかせた。  翌日、水族館と縁結びの神社と恋人の丘を巡り、カマボコを買って帰宅した。  その直後、ふたり揃って雑誌のインタビューを受けた。自分たちの関係性について問われ、サン=テグジュペリの言葉を引用して答えたら、互いの背中を預けあった構図で写真を撮ってくれた。  俺はトラウザーズのポケットに両手を突っ込んで立ち、顎を引いて睨め上げるようにカメラを見て、佐和は胸の前で腕組みして見下すようにカメラを見た。ふたりともまだフェイスラインが甘く幼い顔立ちで、精一杯生意気で、やんちゃに見える。  こんな生意気で一生懸命なヤツらなら、今の俺ならちょっと声を掛けてやろう、食事にでも連れて行ってやろう、その野心や夢や信念とやらを聞いてみてやろうと思う。  かつて、俺たちにご飯を食べさせ、話を聞いてくれた大人たちも、同じように思っていたのかもしれない。 「うわぁ、懐かしい。僕たち生意気だね」  頭にタオルを巻き、マスクをして、本棚の上の文書保存箱を整理していた佐和は、古い雑誌をのぞき込んで目を細めた。 「まだまだ生意気でいたいけどな。結婚したら少しは人間が丸くなるかな」 「どうかな。変わったかどうかを決めるのは自分じゃない。『アイツは変わった』って言うのは、いつだって周りの人だよ。結婚して丸くなるのかどうか、その評価がどちらになろうとも、僕たちは、僕たちだ」  俺は何度も深く頷き、佐和のマスクを外して唇を重ねた。佐和のほうから舌を滑り込ませてくれて、俺たちは目を閉じ、ゆっくりとキスを味わった。  唇を離すと、佐和は俺の耳に唇を近づけた。 「ねぇ、周防。今夜、おねだりしてもいいかな?」  おねだりという言葉に、ねだられている身体が早くも疼く。 「俺もおねだりしたいと思っていた。楽しみにしてる」  約束のキスをしていたら、部屋の外からお姉ちゃんのわざとらしい咳払いが聞こえた。 「もー。人に持って来るように言っておいて、いざ探して持って来たらラブシーンとか、意味わかんない」 「俺たちにとっては、こんなのはラブシーンのうちに入らない。ありふれた日常会話だ」  俺はお姉ちゃんに向かって顔を突き出してのろけ、お姉ちゃんは容赦なく波動拳を繰り出して、俺と佐和は吹っ飛ばされてベッドへ倒れ込んだ。  お姉ちゃんが納戸から持って来てくれたのは、理科室でよく見かける標本箱だ。幼き日の佐和少年が自由研究で昆虫採集と標本作りを試みたものの、虫が可哀想で挫けたというエピソードつきのものだ。  佐和は今回はためらうことなく、壁から1枚のコピー用紙を採取した。  用紙の周囲が少しセピア色に変化していたが、油性ペンで書いた文字はくっきりとしている。  丁寧に埃を払って標本箱に昆虫針で固定した。  ラベルに『株式会社SSスラスト 第1号看板/旧本社にて採取』と今日の日付を書き込んで貼りつけ、防虫剤を入れて蓋を閉じる。  会社を設立した日、指輪を買い、互いの口へピザを食べさせあって、はしゃいで帰宅して、そのままの勢いで書いた。ふたりで油性ペンを持ち、俺が文字の枠線を描き、佐和が丁寧に塗りつぶして、右下に会社設立日を書き添えた。  壁に貼りつけてふたりで拍手をして満足し、ずっとそのままにしていた。今回取り外すにあたって、額縁に納めるか、写真だけ残して処分するかなどと話し合っていたとき、お姉ちゃんが標本箱の存在を思い出した。 「いい感じじゃない。社長室の壁に掛けておけばいいわ」  休み明けに会社に持っていくと言って、お姉ちゃんは標本箱を梱包し直し、部屋から出て行った。  俺は人目がなくなった隙に、また佐和とキスをした。 「僕たち、キスばっかり!」 「今までしてこなかったぶんを取り戻しつつ、通常通りのキスもするんだから、回数は多くて当然。毎日2倍の回数にしたって取り戻すまでに12年かかる」 「その頃には、そのキスの回数が当たり前になっていて、取り戻したあとも結局同じ回数のキスを続けていそう」 「不満か?」 「まさか。そういう僕たちの未来が楽しみだね」  今度は佐和が俺の唇を奪い、ふたたびお姉ちゃんに波動拳を食らうまで、俺たちはキスを繰り返した。

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