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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(29)

 大学を卒業し、初めて人を雇って、運転免許試験場の近くに事務所と住まいを借りた。  そのタイミングで同居を言い出せばよかったのかもしれないが、佐和は初めての独り暮らしをとても楽しみにしていたし、俺も同居して自分の理性を保つ自信がなくて、徒歩1分の距離に部屋を借りた。 「家の鍵を信頼できる友だちに預けておくといいんだって。これは提案なんだけど、もしよかったら、合鍵を交換しない?」  はじめての独り暮らしに関するハウツー本に、そう書いてあったらしい。  素直に引き受けて、俺も部屋の鍵を渡した。  最初のうちは丁寧にインターホンを鳴らして互いの部屋を行き来していたが、独り暮らしに慣れない佐和が、毎日どうでもいいことでやって来る。俺も晩酌だ何だと押しかける。  どうぞとか、勝手に入ってと言い続けるのが面倒になり、相手が部屋にいようがいまいが、関係なく出入りするようになった。  勝手に鍵が開いて、佐和が入ってくる。 「ねぇ、周防。重曹って便利で、何にでも使えるんだって! はちみつの容器に入れておくと使いやすいらしいんだけど。ねぇ、はちみつ食べない?」 「佐和の身体に塗って舐めていいなら」 「いやだよ! そんなことするくらいなら、チーズにかけて食べるし、はちみつレモンとハニートースト作るっ! 僕、材料買ってくるから、食べてよね!」  大学に通わなくなって、少し時間に余裕があったので、佐和は全力で独り暮らしを満喫していた。  佐和と俺の潔癖度合いはさほど変わらず、仕事が忙しければシンクが白く曇っていても無視できる。  だが当時の佐和は重曹やクエン酸を買い込み、割り箸に布を巻きつけた棒を作っていたりした。  朝起きて勝手に家事をやってマウントを獲ろうとする女とは、ケンカになっても仕方なかったと思う。  以来、佐和は自分の部屋に女は入れないと決めた。  だが、それでも佐和は恋愛をしていた。  毎日来るのに、来ないのだから、すぐわかる。検索ボタンを押したら、星印は映画館にあった。  このあとは映画の感想でも話しながら食事をして、ホテルへ行く流れだろうか。  明日は休みだから、朝までゆっくり過ごすだろう。  俺はシャワーに頭を突っ込み、荒っぽく全身を洗った。こういう週末に限って、仲間からの誘いはない。かといってわざわざこちらから誘ったり、赤坂や六本木まで出かけるのも面倒くさい。  佐和が来ないとわかっているなら、心置きなくひとりの時間を楽しんで、さっさと疲れて寝てしまおう。  枕を抱いて、佐和を抱いている気持ちになりながら、右手を動かし己を責め立てた。  俺は佐和の顔や首筋に、全身にキスをしたい。 「佐和……好きだ。大好きだ」  俺は耳が弱い。佐和に耳たぶを口に含んで吸われたり、耳に吐息や声を流し込まれたりしたら最高だな。  周防、大好き。愛してる。  そんな言葉と声と笑顔を妄想したら、枕が相手だって、前戯は丁寧になる。布を撫で、つまみ、抱き締めて頬擦りし、佐和が気持ちよすぎて泣いてしまうまで責める。  脳内では佐和の妖艶な姿が目まぐるしく展開され、俺ははばかることなく腰を振って、夢中になって高みを目指す。 「愛してる。愛してる」  先走りで濡れた先端を指の腹で撫で、自分の腰が引けても許さず責めて、力強く茎を扱いて、俺は爆ぜた。 「くっ……、はあっ、佐和っ!」  身体の震えと同時に大量の白濁を飛び出させ、快感を手に入れた。 「ごめん、佐和。気持ちよかった」  抱き締めた枕に謝って、そのままうとうとしていたら、玄関の鍵が開く音がした。軽いため息が聞こえ、ソファにビジネスバッグを投げる音がして、バスルームのドアが開く。  時刻は午前0時を過ぎていた。  俺は降り注ぐシャワーの湯が佐和の肌に当たる音を聞きながら、そっと寝室の空気を入れ換え、シーツを交換し、キッチンで手と顔を洗って自慰の痕跡を消して、再びベッドに戻った。  期待を胸に目を閉じていたら、佐和がベッドに滑り込んできた。背中にぴたりとくっついてくれる。嬉しい。 「おかえり」  寝返りを打って、佐和の首の下へ腕を差し込む。佐和は素直に受け入れて、俺の肩に頬を擦りつける。 「ただいま。ごめん、起こしちゃったね」 「いや、平気。自然に目が覚めた」  笑いかけると、佐和もぎこちなく微笑む。 「どうした?」 「んー……」  佐和の表情は冴えない。俺は佐和に気づかれないように、濡れた黒髪にこっそり唇を触れさせながら話しかけた。 「ミュージカル映画は気に入った?」  勝手に映画の内容まで調べるなんて、踏み込みすぎかも知れないが、佐和は俺に踏み込まれ慣れているのか、嫌がられたことはない。  佐和も俺の居場所を検索し、「昨日の〇〇のライブは楽しめた?」なんて、俺に興味と関心を持って調べてくれていることがあって、そういうときはとても嬉しい。  そして映画の感想だが、映画祭の大賞受賞作にも関わらず、佐和の表情は曇っている。 「僕の好みには合わなかった。終盤で唐突にヒロインと母親を再会させて和解させて、短時間に分かりやすく感動を引き出そうとされたのが気に食わない。無理にストーリーをつけなくても、歌とダンスに任せておけばよかったのに」  俺の肩に額を擦りつけながら、苛々と言った。  俺は佐和のまだ湿っている髪に鼻をつけ、シャンプーの向こうの匂いを嗅ぐ。腹の底から愛しさがこみ上げ、つい強く抱き締めそうになるのを我慢して、佐和の髪を柔らかく撫でる。  佐和は俺の肩に額を擦りつけて仔猫のように甘え、俺の腋窩に鼻先を突っ込んで目を閉じる。そのまま何度か大きく鼻で呼吸して、吐く息と共に全身の力を緩めると、寂しそうな声でぽつんと言った。 「ねぇ、周防。セックスの最中に『好き』って言うのも、言われるのも、嫌いな僕は薄情かな」  冴えない表情の本音はセックスの失敗か。これはダメージがでかそうだ。 「さあ。俺は言わないし、言われた経験もないけどな」  俺が付き合う相手は、暇つぶしに恋人ごっこを楽しむ友人でしかない。相手がよほど変な勘違いをしない限り、愛だの恋だのという言葉は出てこない。 「エッチなことに集中してるときに、好きとか愛してるとか美しいことを言われると、萎えるんだよね」  俺は現実のセックスでは、好きも愛してるも言わないが、妄想の中の佐和には言いまくっている。以後気をつけよう。 「中折れした?」 「集中力をつなぎ止めて最後までしたけど、終わったあとの気持ちの落ち込みが半端じゃなかった。『好き』って言葉が肌にへばりつくみたいで気持ち悪くて、そう思っちゃう自分がすごく嫌で」  佐和は強く下唇を噛んだ。俺が佐和の恋人だったら、噛んでいる唇を舐めて吸ってあやすのに。 「中学生の初デートならともかく、この年齢になったらセックスは避けて通れないよな。俺もときどき無理したり、面倒くさく思ったりする。一人でするほうが気楽でいいなとか」 「うん」  俺にできるのは、機に乗じて佐和に恋人との別れを促すことくらいだ。 「そんなに無理しないで別れたら? そのかわり、明日は俺と一緒に重曹で風呂場やシンクを磨こう」 「うん。もう振られてきた」  俺の腋窩にもぐり込んで、佐和はもごもごと言った。 「おめでとう。佐和を狙っている奴らに再びチャンスが訪れた」  佐和は顔は上げなかったが、ちょっとだけ笑ってくれた。 「僕はわがままで、ついていけないって。ついてこなくても、向こうは向こうでマイペースにしてくれればいいのに」  その声は寂しそうだったが、俺がしっかり抱き締めるより先に顔を上げた。 「ねぇ、明日、時間ある? 一緒に映画を観に行ってくれない?」 「いいよ」  頷くと佐和は笑顔になって、俺の肩に頭を乗せ、寝息を立て始めた。

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