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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(30)
連れて行かれたのは、昨日、佐和が観たミュージカル映画だった。
「つまらなかったんじゃないのか」
「んー。そうなんだけどね」
佐和はバルコニー席の革張りのペアシートに腰を下ろし、長い脚をオットマンにのせ足首をクロスして、するするとビールを飲む。
2日連続で同じ映画を観る真意は測りかねるが、佐和の隣にいられればいい俺は、何も言わずに大人しくビールを飲む。
光が照明に吸い込まれるように暗くなった。
予告編と映画会社のオープニングロゴ映像が流れ、本編が始まる。
俯瞰で街並みが映され、舞台設定や登場人物を説明するシーンが始まると、佐和はすぐに姿勢を崩し、俺の肩に頭を預けてきた。
昨日観たばかりで展開を全部知っているのだから、最初から飽きるのも仕方ないと思う。それでも途中で帰ると言い出さないのが、俺と違うところだ。
俺は肩に、佐和の頭の重みと髪の匂いを感じながら映画の世界に入り込んだ。
作品のクオリティは高く、歌と踊りを通して人生の喜びと悲しみがよく表現されていて、エンディングは色彩豊かで感動的だった。
主人公と母親の再会のシーンが佐和は不満そうだったが、作品全体のバランスや配分を見渡したときには、ちょうどいいように思う。
佐和の表情を伺ったが、佐和は俺に寄りかかったまま、表情を変えずに銀幕を観ていた。
館内が明るくなると、佐和は両手を天井に向かって伸ばして、笑顔になった。
「面白かったね」
「は?」
「これ、昨日から、周防と観たら面白いんじゃないかって思ってたんだ。やっぱり映画は周防と一緒に観るに限るね」
「映画につきあうのは構わないけど。どうして俺なの?」
「恋愛してないからかな。恋愛していたら、映画を観るにも、よくわかんないタイミングでいきなり手をつながれたり、突然ポップコーン食べさせられたりして集中できないし、終わったら食事に行かなきゃ、そのあとはホテルに誘わなきゃって、いろいろ段取りを考えなきゃいけないじゃん。周防とは恋愛とセックスがないから、安心して映画に集中できる」
恋愛とセックスがないから。何となくその答えは予想していたが、嬉しいような悲しいような気持ちだ。両手をジーンズのポケットに突っ込み、映画館を出た。
「佐和、昼ご飯はどうする?」
「映画につきあってもらっちゃったから、周防の食べたいものでいいよ」
「じゃあ、焼き魚定食とレバニラ炒め」
隣を歩く佐和の顔をのぞきこんで答えた瞬間、佐和は顔をしかめる。
「いいけどさー。違うメニューもあるお店にして」
「冗談だ。ラブホで佐和を食べるか、公園でおにぎりを食べるか」
「公園でおにぎり、いいね! 行こう、行こう」
つま先を跳ね上げるように歩く佐和と、ありふれたコンビニへ足を踏み入れる。
互いが欲しいものを同じカゴに入れ、一緒に中をのぞきこむ。
「周防、これどこにあったの? 復活してるの知らなかった!」
そう言って自分も同じものをカゴに入れたり、違う味を選んであとで比べてみようと約束したり、レジャーシートの大きさを相談したり、一緒にスナック菓子のラインナップを見て季節を感じたり、俺がおもちゃのフライングディスクを見つけてカゴに入れたら、佐和が面白がって喜んだり。
コンビニで買い物をするというありきたりな行為も、佐和と一緒だと楽しい。
ついはしゃいで、意味もなく佐和の頬に冷たいペットボトルを押しつけて驚かせ、少し怒られ、たくさん笑いながら歩いた。
公園ではレジャーシートを敷き、おにぎりや一緒に見つけた新商品のスナック菓子を食べ、違うフレーバーの炭酸水を互いに交換して飲み比べ、フライングディスクを投げ合った。
俺は佐和に向けてなるべくキャッチしやすく投げるのに、佐和はすぐに研究したがるから、フォームや角度を試しまくり、俺は芝生の上を縦横無尽に走りまわった。
佐和が自由に投げるディスクをどこまでも追いかけて、ときには散歩中の犬や小さな子どもを避け、足をもつれさせて芝の上に転がる。それでもキャッチして、拾って、佐和に向かって投げ返す。
こんな恋愛はやめてしまえばいい。そんなことは俺が一番よくわかってる。
でも俺は、俺の夢を叶えようと、気迫に満ちたまなざしで、勇猛果敢に、諦め悪く奔走してくれる人を、佐和以外に知らないし、毎日を一緒に生きてくれる人も見つけられない。
俺はふわりと風に浮かんだディスクに向かって飛び上がり、両手でしっかりキャッチして、そのまま佐和に向かって走った。
「えっ? 何っ? 何っ?」
佐和は戸惑いの声はあげるが、白い歯を見せて笑っていて、いつ俺が飛び込んでもいいように肩幅に足を広げ、両手を広げて、絶対に逃げずにいてくれる。
タックルするように懐に飛び込んで、抱き留められながら抱き締めて、佐和の身体を庇いながら一緒に芝生へ転がった。
青い草と泥の匂い、眩しく光る空を交互に感じながらローリングして、俺は芝生の上に大の字になり、佐和は両手で腹を押さえてげらげらと笑った。
水飲み場で手と顔を洗い、互いの手についた水を相手の顔に向け、指先ではじきあって遊びながら、レジャーシートに戻った。
佐和はうつ伏せになり両肘で上体を支え、俺は佐和の腰に頭を乗せて、それぞれに持ち歩いている本を開く。
休みの日まで仕事のことを考えるなと言われたが、起業3年目の俺たちは仕事が面白くて仕方がなくて、プライベートと切り分ける必要性なんかわからなかった。
佐和は財務関係の本を、俺は意思決定の本を、コミックスのように楽しんで読み、傍線を引いた。
読み終えて交換し、広げる財務の本は、佐和が調べた内容まで書き込まれていて、わかりやすい。佐和の青色の傍線を楽しみながら、おもに企業買収の知識を頭に入れる。
会社では、人を雇ったものの、増やした受注枠をはるかに超える発注があり、人員も設備も何もかも追いつかない状態が続いていた。そこで、太宰さんが経営する会社のひとつを丸ごと買収して不足を埋めようという計画が動き始めていた。
買収すれば会社の規模は一気に大きくなる。そんな予定も覚悟もなかったが、俺たちがやりたいと思っていたことに賛同しての発注だから、やるしかない状況だった。佐和は買収予定企業の情報を細かく調べ、あらゆる角度から検討して、何とかなるのではないかと踏んでいる。
本に落ちる光が紫色になった頃、明るく光るイベント広場からスネアドラムで叩かれるバックビートが聴こえてきた。
心拍数に近いテンポでたゆたうように奏でられるエスニック・ミュージックに、俺は荷物を片づけ佐和の手を引いて歩いた。
夜、神社の祭りに向かうような高揚感があった。
テントの下ではワールドミュージックのライブが開催され、その周りにはワールドフードの屋台が広がっていた。
音楽は好きなだけで詳しくないが、とにもかくにもその熱気が満ちるテントの中へ身を投じる。
両手を上げ、声を出し、ミュージシャンを称えて盛り上がる。
お調子者な俺の姿に、隣で佐和は呆れ顔だが、苦笑しつつも隣に立っていてくれた。
次にスティールパンが奏でられ、その南国の海を思わせる透明感のある音色に、佐和が目を見開き笑顔になって反応した。
「スティールパン。ドラム缶を加工して作った楽器。いい音だよな」
大音量の音楽に乗じ、耳に唇を触れさせながら説明し、佐和の背後に立った。
エメラルドグリーンの海を思わせる音楽に、佐和の腰を抱いて身体を揺らし、佐和の手首を掴んで手を挙げ、佐和の手を使って拍手をし、さらに踊った。
佐和はあやつり人形にされても、顔を赤くして笑いながら大人しくしていた。
「僕、こういうのって恥ずかしくてダメ。高揚した一体感の中で『イェーイ!』って手を挙げたり、声を出したりするの苦手」
「照れる?」
「照れるの通り越して、冷めちゃう。エッチの最中に『愛してる』って言うのが苦手なのと、同じ感じ」
佐和は俺に操られて手を挙げ、軽く飛んで手を振りながら、ちょっとうつむいていた。
「ごめん、嫌なことをさせた?」
ライブ会場を離れながら、心配になって佐和の顔をのぞきこんだ。佐和は慌てて顔を上げ、俺に笑顔を見せてくれる。
「ううん、大丈夫。こっちこそ、変なことを言ってごめんね。楽しかったよ。自分ひとりでは絶対にできないし、やらないけど。周防が一緒にいて、楽しみ方を教えてくれたから、楽しかった! ありがとう」
佐和のほうからハグをしてくれて、今週1週間は、昼ごはん抜きで働けると思った。
ジャークチキンやケバブやビリヤニ、フォーや大根餅やらふてー、練乳たっぷりのかき氷などを買ってシェアして食べた。
箸でつまんで口許へ差し出せば、佐和は自然に口を開け、咀嚼して、ニッコリ笑う。
「ありがと。美味しいね」
笑顔が見たくて何度も繰り返すと、佐和は笑い出す。
「鳥の餌付けみたい!」
それならと、鳥のヒナのように口を開けて催促すれば、佐和は俺の口に料理を入れてくれる。
料理の中には茄子も紛れていたが、佐和が食べさせてくれたら何でも美味しくて、食べ尽くした。
「今日はありがとう。お疲れ様」
佐和が住むマンションの前で、別れの時間が訪れる。
「明日もウチに来る?」
離れがたい気持ちを押さえ、毎日会いたい気持ちを質問に変えた。
「んー。明日は家にいるかも。洗濯しなきゃいけないし」
「じゃあ、夕方か夜、俺が行くかも」
「ん。いつでも適当に来て」
手のひらを見せると、佐和は鍵の束を持った手でハイタッチをしてくれて、おやすみとマンションの中へ入って行った。
佐和の姿が完全に見えなくなってから、俺は小さくガッツポーズをした。
明日も会える! 嬉しい!
ショッピングモールでクラフトビールをいろいろ買って、飲み比べをしようかな。ツマミは何がいいだろう。
早速計画を練り、クラフトビールについて調べて、明日を楽しみにベッドへ潜り込んだ。
突然、GPSで検索された。
『佐和、どうしたの?』
メッセージを送ると、冷や汗をかいた絵文字が返ってきた。
『ごめん、何でもない。ただ、今日も楽しかったなって。周防、今、何してるかな? って思って、つい押しちゃった。意味はないです。おやすみなさい』
丁寧な言葉に、佐和の可愛らしい焦りを感じる。
『寝る前に意味もなく思い出してくれるなんて、最高だろ』
『僕、寝る前って結構周防のこと考えてるよ。仕事の反省するから』
『寝る前に仕事の反省? だから、夢に見るんじゃないのか。仕事じゃなく、俺のことだけ考えて寝なさい』
寝なさい、なんて尊敬する親友に対して生意気な命令形にも、佐和は柔らかく素直に返してくれる。
『そうする。周防のことだけ考えて寝るよ』
俺はダメもとで提案してみた。
『佐和。今の嬉しかったから、また俺のこと考えたら検索して。俺も検索する』
『いいよ。面白そうだね。どんなときに互いのことを考えるのか、統計がとれそう』
ロマンチックな意味ではなく、心理学や統計学の側面から考えるのが、佐和らしい。
『ケンカしたあとに考えて、腹立ち紛れに検索することもあるかも』
『ケンカしたあと、もう周防のことは考えたくないって思ってる時点で、周防のことを考えてるんだもんね』
『俺、朝から晩までずっと検索し続けてるかも』
これは本音で、不安だった。好きすぎて、佐和とバランスがとれないくらい、探し続けてしまうかもしれない。
『いいんじゃない、それはそれで。その結果から何かを導き出せば。仕事のことを考えすぎて、僕から頭が離れないなら、ちょっと改善しなきゃね。まずはやってみようよ』
『佐和のまずはやってみようという考え方が好き。おやすみ。よい夢を』
『おやすみ。周防もいい夢見てね』
もう一度検索されて、俺も検索し返して、枕に顔を埋めて両足をばたつかせた。
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