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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(31)

 最初は社員ひとりとアルバイトひとりを雇った。  社員は蒲田(かまた)さんという男性だ。一旦は就職してシステムエンジニアとして働いたが、その後バックパックを背負って世界中を旅をしたという。  旅を終え、思うところがあって大学へ3年次編入をして、俺たちと同じゼミに所属した。俺と蒲田さんは教授の嫌われ者同士、意気投合して、一緒に卒論を書いた。  人懐っこくて、情に厚い。誰とでも仲よくなるが、馴れあわない。自分の目でものを見て判断することができ、実年齢よりもずっと人間の本質を知っているような人だ。  卒業したら幼なじみの女性と結婚して、そのまましばらく日本にいるというので、ウチの会社に来てもらった。  アルバイトは宇佐木(うさぎ)という青年で、近くの高専に募集を掛けて釣り上げた。  面接で「何か質問はありますか?」と訊いたとき、宇佐木は両手のこぶしを膝の上で白っぽくなるまで握りしめていた。 「あの……僕、この仕事を、ぜひやってみたいんですけど。人と話すのが、苦手なんです。やっぱり人と話せないとダメ、でしょうか?」 「そんなことはないです。今のように、自分の口で人と話すのが苦手だと伝えられれば、それで充分。あなたの苦手なことは、俺の得意なことだから大丈夫。だからぜひ、あなたはあなたが得意なことをしてください。もちろん俺にも苦手なことがあるけれど、それはあなたが得意なことだから、きっと大丈夫ですよね? そういうことでいかがですか?」  宇佐木はこくんと頷き、その日から労働基準法で定める時間いっぱい、登校前も、空き時間も、昼休みも、放課後も、ずっと会社にいて、学校の宿題や定期テストの勉強をしながら、黙々と働き始めた。  ふたりが4人になっても、まだ俺たちは気楽だった。  大きなダイニングテーブルをひとつ置いて4人で使い、テーブルの下の寝袋で仮眠をとって、仕事に疲れてくると下ネタが飛び交った。 「あー、入れてほしい!」  佐和のお決まりの言葉に、俺もお決まりの掛け合いをする。 「どこに? 何を?」 「口座に! カネを!」  佐和の叫びに片頬を上げて笑い、蒲田さんが口を開く。 「そんな副社長へ、答えは健全ななぞなぞをひとつ。『裸のふたりが抱き合ってじっとしたり、手で探り合ったり、激しく動いたりします。出したら終わりです』さあ、なんのことでしょう?」  佐和は顔を赤らめて笑い、頭を抱える。 「えっ、どうしよう? 僕、不健全な答えしか思い浮かばない!」 「出したら終わりっていうのがミソだな」 「周防、わかるの?」  左隣に座る佐和の視線を受けてから、目の前で中国語のテキストを広げる宇佐木を見た。 「宇佐木もわかるよなぁ?」 「相撲」  宇佐木はテキストに視線を向け、右手の指のあいだでシャーペンを回しながら、正解をぼそっと呟く。 「あー、そういうこと! 先入観が強すぎて、全っ然わからなかったー!」 「副社長、何だと思ってたんですかー! えっちー!」  俺が囃し立てると、佐和はべえっと舌を出してみせる。 「僕、エッチだもん! 誰か入れてっ!」  佐和は叫んで、取引時間が終了したオンラインバンキングシステムの画面に向かい、お手上げをする。  宇佐木も中国語のテキストに額をくっつけ、動かなくなっていた。 「よし、ひと区切りついたら、競馬に行くか!」  俺の決断に佐和は笑った。 「僕たち、最低だよね。下ネタと競馬って、どんな会社なの?」  会社の近くに地方競馬場があって、毎年夏になると夕方からレースを開催している。  場内はイルミネーションで飾られ、ビールや軽食を買うことができ、東京湾からの風が心地よく、夕涼みに最適だった。俺たちはいくつかのレースで少額の馬券を買って、人馬一体となって走る姿に歓声を上げた。  佐和はパドックで柵にもたれ、手綱を引かれてゆっくり歩く馬たちに目を細める。 「可愛いなぁ」  明るくライトアップされた場内で、佐和の笑顔がぴかぴか光った。  俺は、馬と呼吸を合わせて障害物を飛び越える、佐和の凜々しい騎乗姿を思い出して、つい口を滑らせた。 「馬術部を途中で辞めさせて、ごめん」  佐和は黒目がちな瞳を大きく見開き、それから厳しい声で言った。 「そのセリフ、2度と言わないで。僕は、自分のことを自分で決めただけだ。周防にそんなことを言われる筋合いなんかない」 「あ、ああ。失礼、浅慮な発言だった」  俺たちはもう少し会話を重ねたいと思って、互いの動こうとする唇を見たが、蒲田さんが呼びに来て、それきり話せないまま皆で競馬を楽しみ、ファミレスで夕食を食べ、宇佐木の豊富なドリンクバーレシピに『若者は違う』と驚いて笑い、解散した。  佐和は自分の気持ちを言葉にしたし、俺は一応謝罪の言葉を口にした。話は済んでいるとは言えば済んでいる。もう一度蒸し返して話すべきかどうか。  シャワーを浴びながら考えて、答えは出ないまま濡れた髪をタオルで拭きつつぼんやりしていたら、スマホが短く震えた。  佐和に検索されていて、折り返すより先に電話が掛かってきた。 「もしもし?」 「さっきのパドックでのこと、謝りたい。ごめんなさい。周防は僕を思いやってくれたのに、あんな言い方をするべきじゃなかった」  佐和はいきなりひと息でしゃべった。少し早口で、緊張が伝わってきた。俺は釣られて緊張したが、送話口に揃えた指先をかざして、気づかれないように深呼吸してから、佐和の気持ちが緩むようになるべく穏やかな声で話した。 「わざわざ電話をありがとう。俺こそ、軽はずみだった。ごめん」 「ううん。ただ、僕は僕のことを自分できちんと考えて決めている、そこに周防が責任を感じる必要はまったくないんだ」  佐和は誠実に話してくれた。 「もし、もしも、周防が僕のひとつひとつの決断まで気に掛けてくれているんだったら、それは周防の負担が大きくなりすぎるから、しなくていいよって言いたかった。僕は大丈夫なんだ。愚痴とか泣き言とか言っちゃうけど、ちゃんと自分の足で立てるし、歩ける。自分の名前は、自分で言える。そのくらいは自分でできるように、ちゃんと頑張ってるから。その……これからも、周防の隣に立っていられる、親友でいさせて」  俺はしっかり頷きながら話を聞いて、自分の気持ちを観察しながらゆっくり話した。 「佐和のことを軽んじてるとか、対等に思っていないとか、そういうつもりじゃなかった。本当に言葉が悪かった。申し訳ない。ただ、馬の姿を見ている佐和の笑顔が楽しそうだったから、何かひと言、声を掛けたかった。上手い言葉が思いつかなかったんだ」 「軽んじられているなんて思ってないよ。周防はいつも僕を思いやって、尊重してくれてるってわかってる。でも、言葉は難しいね。僕も全然思いつかないし、上手く言えないけど……もしよかったら、笑ってほしい」 「え?」 「無理した笑顔はいらないけど、もし、僕が隣にいるのをいいなって思ってくれたときは、笑ってくれたら嬉しいかも」  俺は鍵の束を掴んで部屋を飛び出した。車両用信号が赤になるのと同時に、歩行者用信号が青に変わる前に横断したのは、この熱い気持ちに免じて許してほしい。エレベーターを待つのももどかしく非常階段を駆け上がり、佐和の部屋の鍵を開けて飛び込んだ。  部屋の明かりはもう落とされていて、佐和はスマホを持って、ベッドの中にいた。 「えっ?」  俺はベッドの上に飛び乗って佐和の身体を跨ぎ、顔の両脇に手を突いた。 「笑顔を見せに来た」 「あ、う、うん」  佐和を見下ろしながら、めいっぱい口角を上げ、目を細めて笑って見せたら、佐和が噴き出して笑ってくれた。  俺は嬉しくなってそのまま佐和の左隣に寝て、佐和の首の下へ腕を差し込む。  互いに寝心地のいい位置を探して落ち着き、佐和は俺の腋窩に鼻先を突っ込んで深呼吸した。俺も佐和の髪に鼻先を突っ込んで胸いっぱいに匂いを嗅ぐ。一気に緊張がほぐれて、眠気が襲ってきた。 「おやすみ、また明日」  帰らない俺に、佐和は小さく笑う。 「おやすみ。また明日」  とてもロマンチックな表現をするならば、俺たちはベッドの小舟に乗って、一緒に夢の旅に出るように心地よい眠りについた。

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