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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(32)

 いつだって今が最高だと思うし、そう思えるように生きているつもりだ。  でも、男4人が秘密基地のような小さな事務所に集まって、遊ぶように働いた時間には、今でもたまに戻りたいと思うことがある。  学生の宇佐木に寄ってたかって勉強を教え、納期の短い仕事を受けてテーブルの下の寝袋で寝て、佐和がテーブルの裏側に貼った星型のシールを一緒に眺めながら、蒲田さんが旅した異国の話を聞いた。  大きな仕事を納めたあとは、屋形船に乗って東京の夜景に歓声を上げ、居残って雑談をした夜は、思いつきで突然ドライブをして、缶コーヒーを飲みながら朝焼けを見た。その感動を胸に会社へ戻り、またいつもの業務に勤しんだ。  4人それぞれの役割が緩やかに決まっていて、でも自分の領域に固執せずにサポートしあって仕事が回った。お互いさまで細かいことは気にしないが、納める仕事のクオリティには厳しい目を持った。とてもいい関係だったと思う。 「ずっとモニターを見てると、目がキツいなぁ」  蒲田さんの嘆きに、宇佐木が呟く。 「緑を見るといいよ」  しかし事務所の窓からは倉庫と運河と空しか見えず、それならと事務所の壁を一面だけ緑色に塗ることにした。  この事務所に入居するとき、すでにM&Aを実行する計画が持ち上がっていた。合併するまでの仮住まいとわかっていたので、取り壊しが決まっている倉庫の2階を好きにしていいと言われて借りていた。 「僕、今度の土曜日は学校なんだけど。僕もペンキ塗りたい」 「わかった。学校が終わったら、俺と一緒にホームセンターへペンキを買いに行こう。正門前まで迎えに行く」  その頃、ナローポルシェと呼ばれる年代物のポルシェに乗っていた。  俺はいつでも佐和の右隣にいないと落ち着かないから、市場にあまり出ない右ハンドルにこだわった。  そのせいでコンディションが犠牲になり、買った時点でオイルが漏れていたし、ボディカラーが黒で温度が上がりやすいのに、暑い日になればなるほどエアコンは効かなかった。  ときには路肩に停めてボンネットを開け、JAFを待つこともあったが、いちいち佐和が面白がって笑うので、いちいち手当てをして、一緒に笑ってドライブを楽しんでいた。  約束の土曜日、まだ授業中で静かな高専の前に、そのナローポルシェを停め、宇佐木を待ち伏せた。  俺は車の外に出て、東京湾から吹く風に身を晒し、ついでにボンネットを開けて空冷式のエンジンに風をあてていたら、チャイムが鳴った。学生たちが校舎から出てきて、少しずつ周辺が賑やかになってきた。  大学を卒業したばかりなのに、このざわめきがもう懐かしい。  正門付近でたむろして話す学生たちのグループがいくつもできて、ほぼ正門の幅いっぱいになった頃、人をかき分け、身をかがめて、ひょっこりと宇佐木が顔を出した。 「宇佐木! おつかれ!」  その瞬間、学生たちの視線は宇佐木に注がれ、人の海がふたつに割れて、宇佐木は身をかがめたまま俺の前まで走ってきた。 「どうした、忍者みたいなことをして」 「社長、何で私服なの?」  小柄な宇佐木はマッシュルームカットの前髪の下から、上目遣いに俺を見ながら、ひそひそ話す。 「今日は土曜日で、取引先との約束は何もないから。スーツのほうがよかったか?」  俺は古着屋で見つけたダメージジーンズとカットソーを着て、佐和に借りたまま返していないジレを羽織り、シルバーのネックレスや指輪や革のブレスレットなんかをいつもどおりにつけていた。 「違うんだけど……スーツでもダメだったかもだけど」  要領を得ない話し方をする宇佐木に首をかしげていたら、ビジネススーツ姿の角刈りの男性が声を掛けてきた。首からネームホルダーを提げていて、学校名入りの教職員証が入っている。 「宇佐木。こちらの方は?」 「バ……バイト先の社長です……怪しいカート・コバーンかぶれのホストじゃないです」  俺は車の中へ頭を突っ込んで名刺入れを掴み、背筋を伸ばして、営業スマイルで名刺を差し出す。 「わたくし、SSスラストの代表取締役を務めております、周防と申します。宇佐木さんは優秀で、いつも真面目に積極的に仕事に取り組んでくれて、私どもはとても助かっています。キャリア支援室の先生には素晴らしい学生さんをご紹介いただきました。感謝申し上げます」 「ああ、佐和さん……でしたっけ?」 「はい。手前どもの佐和が求人票を持ってお伺い致しました。皆様にご丁寧な対応をいただいたと報告を受けております。ありがとうございます」  俺が頭を下げる隣で、宇佐木が一生懸命に話す。 「今日は事務所の壁を塗るから、社長と一緒にホームセンターへ、ペンキを買いに行くんです」  先生の目が俺の重ねづけしているシルバーアクセサリーや、ぼろぼろのジーンズやカットソーに向いていることに気づき、もう一度頭を下げた。 「休業日なので、このような私服姿で失礼致しました」  それでようやく「宇佐木をよろしくお願いします。宇佐木、しっかり働けよ」と解放された。 「悪かったな。スーツを着てくるべきだった」 「スーツじゃなくてもいいけど。一般人に見える私服って持ってないの?」 「事前にそういう必要がわかっているときは、佐和の服を借りてしのぐ」  宇佐木は大げさなため息をついた。 「中学校のとき、キラッキラにおしゃれした母親が授業参観に乗り込んできたときの絶望感を思い出したよ」 「あら。次の授業参観はいつ? ママンがキラッキラのスーツを着て参観に行ってあげるわ」  裏声で喋る俺に、宇佐木は苦笑して、膝の上に抱えていたリュックサックに顔を埋める。 「もう授業参観なんかないけど……でも、文化祭は11月」 「お、白状したな? 会社の予定表に入れておけ。公式行事として、社員総出で押しかけてやる」  嫌がるかと思ったが、宇佐木は素直にスマホを取り出し、予定を入力した。 「うん、よければ来て。僕、文化祭に友だちを呼ぶのって、ちょっと憧れてた」 「わかった。学校中の人に、宇佐木の友人ですって挨拶してやる」 「副社長の服を着て来てね」  俺は笑って、宇佐木の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。 「で、スプレーと、刷毛で塗るのと、どっちがいいんだ? 防水のほうがいい? お前、高専ならそういうの得意だろ」  ホームセンターのフロアで焚きつけると、宇佐木は目を丸くする。 「僕、ものづくりから一番遠い学科だって言ってるじゃん。塗装なんてわかんないよ」 「そうか。俺もわからない。どうしような?」  宇佐木は黙って俺を見たが、すぐにスマホを取り出して情報を集め、店員を呼び止めて質問をする。蒲田さんに電話を掛けて壁の大きさを調べてもらい、刷毛やローラーに吸い込まれる量まで含めてペンキの量を算出した。  さらに予算に合わせ、必要な部分は妥協せず、工夫できるところは節約しながら買い物をして、車に積み込んだ。 「僕、人に説明するの苦手」  そうぼやいて終わるのかと思いきや、宇佐木は作業手順をスマホに入力して整理し、説明するセリフを考えては小さな声で読み、練習をした。こういう真面目で頑張り屋なところを、俺はとてもいいと思っている。  まだ人材を育てるなんて、まともにやったことはなかったが、俺たちが生意気を許し、蒲田さんがいい加減や適当を教えたら、宇佐木はもっと緩急自在になって、伸びるのではないかと話していた。  事務所に着いた宇佐木は、裏紙にプロセスを書き、ほかの3人を相手に説明をする。 「簡単に言うと、養生して、塗って、乾く前に養生を外します。それぞれの詳細については、作業を始めるときに説明します」  はーい、と返事する俺と佐和と蒲田さんに、宇佐木はスマホにまとめたメモを見ながら説明する。 「ええと。まず、養生はこのマスカーというポリシートつきのマスキングテープを使います。テープを貼ってから、こうやって巻かれているポリシートを広げると、結構広い範囲を覆えます。細かいところはこっちのマスキングテープでやりましょう。テープを貼るときは、塗料が入り込まないようにしっかり貼ってください」  宇佐木の仕切りはわかりやすく、作業は順調だった。それぞれが好きな音楽をスマホで順番に聴かせあいながら、手を動かした。 「社長が待ってるからと思って、結構急いで教室を出たんだけど。僕が昇降口を出たときには、もう皆が正門で足を止めて騒いでてさ。超イヤな予感がしたんだけど、やっぱり社長だった。さっきから『誰?』、『紹介して!』って、一度もしゃべったことがない女子からLINEが来てる」  バケットにペンキの缶を逆さまにし、目に優しい緑色を流し込みながら、宇佐木は肩を落として笑った。佐和はビニール手袋をはめた手を叩いて笑う。 「そうなんだよ! 周防と友だちだってバレると、急に女子から連絡が来るようになるんだ。今まで僕の連絡先を教えたって、誰も連絡くれなかったくせに! 宇佐木くんも、あんまり周防と友だちだって言いふらさないほうがいいよ」 「うん、そうする」 「お前ら、友だち甲斐なさすぎだろ!」  ツッコミを入れる俺に、蒲田さんが追い打ちをかけてくる。 「自分の彼女も、社長には見せないほうがいいぞ。全部持って行かれる」 「蒲田さんまで、ひどい。俺、こう見えても、他人の女には手を出さないから!」 「周防は手を出さないけど、女性のほうから勝手に来ちゃうんだよね?」 「うわ、社長ってばタチ悪い」 「なんだと? 俺、タチはいいぞ!」 「最低な会話だな」  文化祭の前日のようにペンキを塗って、緑色になった壁に一緒に目を細め、互いにハイタッチをした。  この頃、俺はまだ友だちとしか仕事をしていなかった。先輩たちからいろんな話を聞かされていても、『心を込めて、誠実に話せば伝わる』などという教えだけを聞きかじり、志を持ったひとつの会社に集まる人ならば、どこかで必ずわかりあえると思っていた。

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