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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(33)

「いいなぁ、皆、一日中仕事ができて。僕も学校へ行かないで仕事したい」  昼休み、宇佐木は高専から抜け出してきて、蒲田さんからもらった仕事を見渡し、所要時間と優先順位を書き込んで、短時間で出来る仕事を片づけながら焼きそばパンをかじり、牛乳を啜ってため息をつく。 「大学を卒業したら正社員に迎えるから、まずは学校へ行ってこい。俺も出るから、学校の前まで送ってやる」  高専の正門から少しだけ離れた場所で車を停める。宇佐木は素直には降りなかった。 「これから大学へ編入してさらに2年間なんて、遠すぎる」 「そんなに焦るなよ。お前が卒業するまで、ちゃんと会社を続けて待ってるから」  ふくれっ面の宇佐木の頭を撫でてなだめて見送ったが、俺も3年後は遠いなと思っていた。 「やりたいことを見つけたら、すぐにやりたいよなぁ」  宇佐木の前では大人ぶった俺も、佐和の前ではガキのようにぐずる。  事務用椅子に後ろ向きに座って背もたれを抱え、大きく息を吐いた。 「周防の言いたいことはわかるよ? でも、親御さんと宇佐木くんが話し合って、今のところは、推薦入試で大学3年次編入と決めているんだ。一瞬、宇佐木くんの気持ちが揺らいだとしても、そこに周防が食いついたり、揺さぶりを掛けちゃダメ」  しっかり視線を合わせて釘を刺され、俺は頬を膨らませる。 「この流れで、宇佐木をウチの会社にリクルートしたい。大卒ってそんなに偉いのか?」  自分が大学を卒業しておいて何だが、今ひとつそのメリットを理解できていない。 「選択肢が増えるよ。求人情報を見たことない? 大卒が条件になっているところって結構あるよ?」 「選択肢が多くたって、最後に選ぶ道はひとつだけだろ?」 「大卒っていうのは専門性が高いとみなされるから、給与も、入社後のキャリアパスも違うことが多い」 「ウチは違わない」 「それは周防の方針だからね。ほかの会社は違うところが多いんだよ」  佐和は鳴り始めたアラームを止め、ぐずる俺をあっさり捨てて席を立つ。 「打ち合わせに行ってくる。またあとで」  佐和はビジネスバッグの中身を確かめ、ジャケットを手に出て行ってしまった。俺は椅子に座ったまま床を蹴って蒲田さんのところへ行く。 「我が社のスナフキンは、この件についてどう思う?」 「宇佐木の仕事ぶりは見込みがあるし、期待したい。やる気がある今、タイミングよく入社するほうが、モチベーションも維持できそうだ。でも……」 「でも?」 「一度社会人になってから、大学へ3年次編入するのは大変だ。今は高専から推薦で編入できるが、そのチャンスは今回限り。社会人になって働く頭と身体に変化してから、あるいは気の向くままに世界をほっつき歩いてから、勉強する頭と身体を取り戻すのは、余計な手間と時間がかかる。自然な流れで大学まで行くほうがいい」 「大卒って必要?」 「『大卒資格なんかいらない』なんてセリフは、大学を卒業したからこそ言えるんだ」  俺は頷くことはできないまま、次のアポに向けて事務所を出た。  外回りを終えて帰社すれば、宇佐木はヘッドホンで耳を塞ぎ、椅子の上に立て膝で、目の前の仕事に集中している。  宇佐木の仕事は合理的で手数が少なく、俺には思いつかないショートカットもやってのける。余計なことを極力省くから時間もミスも少なく、クオリティが高くて、その仕上がりには尊敬してしまう。 「宇佐木、時間だ。帰れ」 「あとちょっと。今、面白いところなんだ。これ走らせたら帰るから」  残業を礼賛するつもりはない。でも、この仕事が好きだ、楽しい、もっとやりたいという気持ちが伝わってくると、こちらもうっかり帰す手を緩めてしまう。  結局、遅い時間になって車で送ることにして、その道中にぽつぽつと雑談をした。 「社長は、大学に行ってよかったと思ってる?」 「価値はあったと思う。佐和や蒲田さんと出会ったのは大きかった」 「そっか。僕、もう社長や副社長や蒲田さんに会ってるから、大学に行かなくてもいいんじゃないかって思うんだけど。来春からSSスラストの社員になりたいって言ったらダメかな?」  採用活動は恋愛結婚に似ると聞いていたが、宇佐木の言葉には、まるで愛の告白のような緊張と甘酸っぱさがあった。 「ありがとう」  そのまま「ぜひ来春から来てくれ」と言いそうになるのを、どうにか飲み込んだ。 「宇佐木の気持ちは嬉しい。でも、ご両親とは大学編入で話が決まっているんだろう? それを俺とお前だけの話で、勝手に変える訳にはいかないと思う。ご両親と話して、就職でもいい、ウチの会社でもいいと言っていただいてからにしろ」 「やった! 父さんと母さんは大丈夫。お疲れ様でしたっ! また明日!」  宇佐木は明るい声で俺に手を振り、軽やかな足どりで家に入っていった。  俺も嬉しくなって、帰るなり佐和の部屋の鍵を開けた。 「ただいま」  佐和はミネラルウォーターのペットボトルと文庫本を持って、風呂の中にいた。  俺はスーツを着たままバスタブのふちに腰掛けて、さっそく宇佐木とのやりとりを報告した。  俺の弾む気持ちと反比例して、佐和は首を傾げる。 「あんまりぬか喜びをしないほうがいいと思うよ」 「どうして?」 「宇佐木くんはスペックが高いから。ウチの会社にはもったいない。ご両親は反対すると思う」 「……ウチの会社じゃ、ダメか?」 「信用ないもん。クレジットカードだって、全部断られてるじゃん」  きっぱり言い切られて、俺は天井を見上げた。 「とりあえずスーツを脱いで、お風呂に入ったら? 疲れた頭で何を考えたって、いいことはないよ」  風呂の中で佐和と話し、佐和の匂いを嗅いで眠って、俺は断られる覚悟を決めたが、宇佐木はダメージを受けていた。  出勤してきた宇佐木は、俺の顔を見るなりぽろぽろと涙をこぼす。 「僕、ここで働きたい……皆と働きたいよ」 「あと2年、バイトで一緒に働こう。お前が大学卒業するまでに、SSスラストを、どこの会社にも負けない魅力のある、信頼される会社に育てる。ご両親に納得してもらえる会社にする。宇佐木も手伝ってくれるだろう?」  宇佐木は頷かなかった。 「皆に遅れを取りたくない。今日、今すぐだって社員になりたい。SSスラストが変わっていく姿を見るんじゃなくて、バイトなんていう半端な関わり方をするんじゃなくて、僕が一緒に……社長や副社長や蒲田さんと一緒に、僕もSSスラストを変えていきたい」  こんな愛の告白をされて、俺はどうしたらいいんだろう。

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