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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(34)

「父さんの頭は硬いって思ってたけど、ここまでだとは思わなかった。僕、もう家には帰らないっ」  宇佐木は小さく洟を啜る。 「お前も頭が硬いな」  思わず素直な感想を述べて、宇佐木に涙目で睨みつけられた。 「まぁまぁ。昨日の夜は眠れた? ご飯は食べた?」  佐和は箱買いしているカップ麺に湯を注いで差し出し、宇佐木は食べ始めるのと同時にまた涙をこぼした。  泣きながら鼻水と麺を啜り、スープを最後の一滴まで飲み干して、いきなり仕事を始める。 「少し休め。そこまでの労働は求めてないぞ」  俺の言葉に宇佐木は返事をせず、椅子の上に立て膝をして画面を見る。 「うーさーぎ。意地になってクオリティ落とすなよ」  蒲田さんの呼び掛けに、涙声で言い返す。 「しないよ、そんなこと! 1日に1度くらい、やりたいことやらせて!」  俺たちは処置なしと視線を交わし、肩をすくめた。  何時間経っても、宇佐木は家に帰らないの一点張りで、佐和が母親に電話をかけた。 「お世話になっております、SSスラストの副社長の佐和と申します……はい、家に帰りたくないと言っていて、とりあえず今夜はこちらで一晩お預かりいたします」  佐和は根気よく柔らかく話すのに長けている。けんかっ早い俺は電話口には出してもらえず、佐和の声を聞き続けた。 「もちろん、このままではよくないと思います……はい、つきましては一度、春樹さんの進路について、お父様、お母様と直接お話しさせていただくことはできないかと……いえ、こちらへの就職をお願いしたいということではなく、我々の正直なところをお話しさせていただければ……」  翌日、宇佐木の自宅へ訪問する約束をして、さしあたり今夜の宇佐木の寝床が問題になる。 「テーブルの下で寝袋で寝るから心配しないで。お疲れ様でした」  宇佐木はそう言って手を振るが、宇佐木だけを寝袋に寝かせて、自分だけ柔らかなベッドに寝ることはしたくなかった。 「ウチに来い。ダブルベッドで俺と寝よう」  俺が声を掛けると、蒲田さんが笑った。 「ウチに来い。奥さんが今日は早上がりだから、得意料理の炊き込みご飯と肉じゃがを作ってくれるって。社長とダブルベッドで寝るよりは、ひとりでソファベッドの方がいいだろう」  宇佐木は蒲田さんに引き取られ、俺は佐和の部屋に転がり込んだ。  蒲田さんの言葉に影響されて、俺は市販の炊き込みご飯の素と無洗米を炊飯器にセットする。  佐和はスマホでレシピを見つつ、鍋で肉じゃがを煮ながら言った。 「どの進路を選ぶにしても、本人が納得すること、ご両親のわだかまりをなるべく少なくすることが大事だよね」 「まわりくどい。未成年ならともかく、成人している本人がやるって言っているんだから、それでいいだろう」 「短絡的。誰にだって家族や友だちがいるんだ。反対されるよりは、賛成されるほうがいい」 「そんなに多くの賛成が必要か? 俺は佐和の賛成だけがあればいいぞ?」  佐和はじゃがいもを小皿にとって箸で割り、息を吹きかけて冷ましてから、俺の口へ入れて黙らせる。 「僕だけの賛成があればいいっていうのは、周防の覚悟をあらわす言葉だろ? 僕だって、覚悟ならしてる。いちばん最後の手段は、周防の手を掴んで駆け落ちだけどさ。僕は、宇佐木くんに、そこまでのことはさせたくないな……だって、駆け落ちは無傷じゃ済まないもの」  佐和の言葉に寂しい響きを感じた。初めて実家へ連れて行ったとき、佐和が祖母の話を聞いて、何かを言いながら泣いていたことを思い出した。  翌日、宇佐木が学校へ行っているあいだに、蒲田さんから報告があった。 「相当な言われようだったらしい。吹けば飛ぶような会社だ、いつ潰れるかわからない、学生の遊びの延長だ、チャラチャラと調子に乗っているだけで実績がない、そんな無名の会社に勤めるなんて恥ずかしくて親戚に言えない等々。まぁ、宇佐木が怒る、怒る」  蒲田さんは苦笑いだ。何時まで宇佐木につきあってくれたのか、顔色は白っぽい。 「宇佐木くんのお父様がおっしゃる通りだね。吹けば飛ぶし、いつ潰れるかもわからないし、学生の遊び……じゃないけど思いつきからスタートしてる。チャラチャラと調子に乗っていると見られてもしかたない生意気な発言ばかりだし、実績もない。無名の会社で、ブランド力は皆無」  佐和は頷く。それは俺も認めるから頷くが、そこで黙ってしまいたくはない。 「小さなベンチャーだからこその面白さややりがいを、宇佐木は選んでいるんだろうに。どうしてそれがダメなんだ? 人生、ひと暴れしてみたいだろうが」  蒲田さんはニヤリと笑い、佐和は身体ごと横に倒して首を傾げる。 「んー。その理由こそ、ご両親に伺ってみないとわからないよね」  俺と佐和は学校終わりの宇佐木と合流し、電車に乗って自宅へ向かう。揺れる車内で、宇佐木は何度も念を押す。 「僕、絶対に就職するからね。『大学へ行ったほうがいい』なんて言わないでよ!」  佐和は笑顔は見せるが頷かず、俺も適当に答えをはぐらかした。  俺と佐和のあいだでは、アイスブレイクは俺が担い、本題については佐和が主導で話し合うと決めている。俺は宇佐木が来たいなら来いと思っているが、佐和は俺の意向を知りつつも、まだどの方向へ話を持って行くのか明確にしていなかった。 「なるべく皆が納得できるように、落ち着いて話そうね」  宇佐木に爽やかな笑顔でそう告げて、話を切り上げてしまった。  宇佐木の自宅は閑静な住宅地にあった。玄関から階段を上がって2階のダイニングルームへ案内される。階段の壁には子どもたちがもらった賞状や、工作した作品が飾られていて、愛情ある落ち着いた家庭だという気がした。  階段の途中、出窓にサバトラ模様の猫がいて、俺と目が合うとニャアと鳴いた。佐和が『ごきげんよう』と挨拶をすると、しっぽで床を3回叩く。 「はじめまして。SSスラストの周防と申します。本日はお忙しいところ、押しかけまして申し訳ございません」 「同じくSSスラストの佐和と申します。こちら、よろしければ皆様で召し上がってください。地元の江戸野菜を使ったロールケーキです。お口に合うといいのですが」  名刺と菓子折りを差し出し、ふたりで角度を合わせてお辞儀をする。  父親は、俺たちの話し方や視線の動き、所作を鋭い目でチェックした。就職してから今までのキャリアの中で、多くの経験を積み、多くの人を見てきたのだとわかる。 「どうぞ、かけて」 「失礼致します」  俺も佐和も、年齢不相応な場数を踏んで、毎日のように人前で立ったり座ったりを繰り返しているが、宇佐木の父親の積み重ねてきた場数には到底及ばないだろう。  自分たちの立ち居振る舞いが、せめて宇佐木の人生の選択の邪魔にならないものでありたい。  母親は朗らかで、如才のない笑顔で佐和から菓子折りを受け取り、コーヒーを勧めてくれる。 「今日は蒸しますね。どうぞ無理しないで、上着を脱いでくださいね。エアコンの温度は大丈夫かしら」  心づかいに会釈して、上着は着たまま、アイスブレイクの言葉を口にしようとしたとき、先に父親が口を開いた。 「いい腕時計をつけているね」  相手が男性の場合、持ち物なら腕時計、靴、鞄を褒めるのが定石で、褒められたら語れるものを身につけておくのも定石だ。俺は素直に頷いた。 「古いセイコーです。祖母がデパートの時計売り場に勤めていたときに、祖父が祖母に会いに行く口実に買ったそうです。縁結びの時計で縁起がいいからと、会社を設立したときに譲り受けました」  祖母の大学在学中はアプローチを無視していた祖父だが、祖母が卒業してからは、むしろ祖父のほうが積極的に口説いたそうだ。  祖母の両親まで口説くことはかなわず駆け落ちした祖父母だが、俺たちは宇佐木の両親を口説けるだろうか。

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