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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(35)

「周防社長も人の子だということだ」  祖父から譲り受けた古い腕時計を見て、宇佐木の父親・宇佐木氏は言った。 「はい」  意図は測りかねたが、事実を認めて頷いた。 「ご両親は心配していないのか?」  俺の両親を引き合いに出さずとも、最初から自分は息子を心配していると言えばいいだろう。回りくどい誘導に、俺は簡単に刺激される。 「心配してくれているとは思います。でも、認めて応援してくれています。感謝しています」  少々語気が強かった。テーブルの下でそっと佐和に足を踏まれる。そんな合図は初めてだが、意図は伝わる。仕方なく俺は黙った。 「周防の父と、僕の父と、僕たちは、同じような仕事をしていて、親は業界のことも、経営のことも、僕たちよりずっとわかっています。別の業界で働く親御さんよりは、心配が少ないのだと思います」  佐和の穏やかな口調に、宇佐木氏は頷き、椅子の背もたれに背中をつけた。  しかし胸の前で腕組みをしている。  どうやってあの腕を解いて、前のめりにさせてやろうか。どうやって俺に向けて右手を差し出させてやろうか。  俺は表情ひとつ変えていないつもりなのに、こういう好戦的な気持ちがあるのを、佐和はどうやって見抜くのか。押さえつける足は外してもらえなかった。 「僕たちが会社を設立したのは3年前です。よろしければこちらの会社経歴書をご覧ください。学生時代に周防と僕のふたりで起業しました。幸い多くのお取り引きをいただくようになりましたので、現在の場所に事務所を構え、春樹さんにご活躍いただいている状況です」  会社経歴書には商号、設立年月日、役員名、資本金や大株主、沿革などがシンプルに書かれている。 「大きな会社がいくつも関わっているんだな。この会社の子会社ということかな?」  このセリフに頷けば、宇佐木氏にとって安心材料になったかも知れない。  でも、俺と佐和は自分たちの考えで会社を動かしたい。子会社になれば経営はラクになるが、そういう話はすべて断って、経営権は自分たちで持っている。  自然に背筋が伸びる。佐和の足が離れたので、俺は口を開いた。 「いいえ。株式の66.66%は私と佐和が等分に保有し、自分たちの経営理念に沿って意思決定をしています。来期にはM&Aを、再来期にはマザーズ上場を目指して準備を進めています」 「こんなご時世に景気のいい話だな」  褒め言葉ではない。はっきり胡散臭いと思われている。  そこまで言うなら受けて立とうと思った瞬間に、また俺の足に佐和の足が重なった。  黙った俺と入れ違いに佐和が口を開く。 「自分たちも波に乗っていると感じています。この波に乗らなきゃいけない責任も感じています。多くの方に物心両面のご支援をいただいているからです」  話すのは苦手と言いながら、会社を知ってもらうためなら、心を尽くして語る。その言葉は、生理食塩水のように抵抗なく耳に届く。 「来期も、再来期も、僕たちは大きなことをやります。でもそれは周防と僕の単なる野望や思いつきではなく、経営理念に沿って行動した結果、自然についた道です。僕たちは必要に応じて、着実に、計画的に行動しています」  そしてその口調は結構熱くて、だったら俺にしゃべらせればいいのにと思ったが、その先が俺の思惑とは違った。声のトーンが落とされる。 「ですが、どれだけ波に乗っていても、吹けば飛ぶような小さな会社です。ネームバリューもブランド力もありません。そして、世の中の移り変わりが早く、ベンチャー企業の平均寿命が年々短くなっていることも承知しています。僕と周防は、もちろん全部を覚悟しています」  全部を覚悟しているという佐和の言葉には、俺も同意して頷く。そして佐和は寂しげな声で言った。 「でも、ほかの人にまで、この会社に人生をかけてくれ、命を張ってくれとは言えません」  まるで宇佐木の採用を諦めているような口ぶりに、宇佐木氏は我が意を得たりとばかりに深く頷く。  宇佐木は気色ばんだが、佐和の足はまだ俺の足の上にあり、重石となっていたから、俺は黙っていた。 「ご両親が息子さんの人生の選択について、心配なさるのは、もっともだと思います。春樹さんなら、大学へ編入して就職活動をなされば、いわゆる大手と呼ばれる就職先を目指すことも可能だと思います。優秀な頭脳をお持ちですから、大学院への道もあるかも知れません」  佐和の言葉にまた深く頷いて、宇佐木氏は顎を上げた。 「自分の息子のことながら、私もそう思っている。なぜ、大学へも行かず、こんな得体の知れない会社へ行こうと言うのか。この先の長い人生、独立して生きていくためには、こんな会社じゃダメだ。まったく話にならない。あなたたちもわかっているなら、息子の説得にあたってくれ」  会社経歴書はテーブルを越えて、俺たちの胸元へ投げ返された。  俺も佐和も会社の名前が入った物をいい加減に扱われるのは、気分はよくないが騒がずにいられる。だが、宇佐木が反射的に立ち上がった。 「やめてよ! 失礼だよ! 僕の好きな会社を、そんなふうに言わないで!」  宇佐木氏は胸の前に組んだ腕の中へ顎を沈めるようにしながら、低い声で言った。 「好きなことをやって生きていけるほど、世の中は甘くないんだぞ。男は、いずれは家族を養わなくてはならない。学生が遊び半分に作った会社に先があると思うな」  それは大人にとって、ごく普通の考え方だと思う。今まで家族を養うために働いてきた宇佐木氏なら、なおさらだろう。  しかし、宇佐木はテーブルに両手をついて前のめりにまくし立てる。 「この会社は遊び半分なんかじゃない! 毎日、一生懸命に働いてる。今までに僕がバイトしたどこの会社よりも真剣だよ! 社長の努力も、副社長の苦労も、何も知らないくせに!」  宇佐木は拳でテーブルを叩き、母親がなだめようとするのを振り切って、さらに大きな声で怒鳴った。 「それに、先を作るのは、社長と副社長と蒲田さんと僕だ! 僕は一緒にSSスラストの未来を作る!」  宇佐木氏は鼻で嗤った。 「現実を見なさい。男が夢を追える時間は短い。一緒に会社の未来を作るだと? 笑わせるな!」  さらに言い募ろうとする宇佐木の身体の前に、佐和がそっと手をかざして制した。宇佐木はどすんと音を立てて椅子に座る。  佐和は、俺の甥や姪に話しかけるような優しい声で訊ねた。 「宇佐木くんは、どうしてそんなにウチの会社を好きなのかな? もっと条件のいい会社はいっぱいあるよ?」 「そんなの僕だってわかってる。会社の規模は小さくて、お金はなくて、歴史もなくて、決算はぎりぎりの黒字で、来年の合併に向けて仕事は増える一方で、合併したらどうなるのかはやってみなきゃわかんないって脳天気に笑ってて、社長はカート・コバーンかぶれのギラッギラのホストあがりで……」 「全部本当のことだけど、ひどいな」  つい苦笑いしてしまう。佐和も口許を緩ませていた。 「副社長はいっつも僕の食事と睡眠の心配してくれて、蒲田さんはもう無理って言うまでわんこそばみたいに仕事を教えてくれて」  しかもちょっと佐和や蒲田さんは評価が高い。けなされるのは俺だけかと笑いながら聞いていた。 「社長は……社長は、得意なことをすればいいって言ってくれた」  その声は少し詰まっていて、宇佐木の顔を見た。瞳が潤んでいるように見えた。 「僕はゲームばっかり、パソコンばっかり、人と喋るのが苦手で、父さんが情けないって思ってるの知ってたよ。ちょっとした冗談やからかいを笑ってやり過ごせなくて、クラスメイトも僕は面白くないヤツだって白けてた。バイトしたって、話しにくい、コミュニケーションをとりにくいって、仕事も居場所もなかった。僕だって、本当は周りの人と一緒に笑ってみたかったけど、そういうのは全然できなかった。ずっとコンプレックスだった」  話すうちに視線が下がっていた宇佐木が顔を上げた。 「でも、僕が苦手なことは社長が得意なことだからいいって、社長の苦手なことが僕の得意なことだから、それをやればいいって。社長が初めて、僕にちゃんとした仕事をくれたんだ。信頼して任せてくれた。副社長も、蒲田さんも、僕をメンバーとして扱ってくれる。3人がほかの大学や企業にいるなら、僕は行くけど、SSスラストにしかないんだ。周防眞臣はSSスラストにしかいない!」  テーブルに両手をつき、大きく身を乗り出して、父親に訴えた。 「僕はほかの会社になんて行きたくない。大学なんかに回り道するのも嫌だ。今すぐSSスラストの社員になりたい。大学を出て、大きな会社へ入って、仕事が終わったあとに組織や上司の悪口を言うような人間にはなりたくない……社長がまた派手な車に乗って、派手な私服で学校の前に来たら、ちょっとは文句を言うかも知れないけど」 「文句すら言われなくなったら終わりだ。気になったことがあれば、いくらでも言えばいい。文化祭には佐和の服を着ていく」  宇佐木はうつむいてサイドの髪を耳にかけながら呟く。 「本当は、社長の私服も悪くないって思ってるんだけどね」 「知ってる。お前のLINE通知が止まらなくなるだけだ」  俺は堂々と頷き、佐和は笑いをこらえ、宇佐木は頬に涙の粒をぽろんとこぼしながら笑った。  佐和は、そっと俺の顔をのぞき見る。 「社長。こんな熱い気持ちを聞かせてもらって、僕たちはどうしようか?」  俺は宇佐木氏に向き合い、背筋を伸ばした。  まっすぐに見た瞳は、しっかりと俺の瞳を見つめ返してくれていた。 「精一杯がんばりますとしか言えない、夢と未来しかない若輩者ですが、春樹さんに内定を出させていただけないでしょうか。今後、春樹さんが大卒資格を得たい、別の会社へ転職したいと思ったときには、全力で支援します。ですが、まずは4月に弊社に正社員としてお迎えしたい。お願いします!」  椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。 「お願いします」  佐和も一緒に立ち上がり、同じ深さで頭を下げた。こういうとき、隣で頭を下げてくれる佐和の存在が、いかに心強いかを知る。  宇佐木氏は胸の前で組んでいた腕を解いた。 「わかりました。こんなに話す息子を初めて見ました。自分の息子がここまで自己主張できるとは思っていなかった。甘く見ていました。これ以上反対しても、周防社長の手を握って駆け落ちしてしまいそうだ」  宇佐木氏は苦笑して目を細め、息子の姿を見る。  宇佐木は耳を赤くしてうつむいていた。照れているのかと思ったら、泣いていた。 「泣くなよ」 「僕、自分のために頭を下げてもらうなんて、迷子で警察に保護されて、父さんが迎えに来てくれたとき以来だ」 「頭を下げるのが俺と佐和の仕事だ。これからだって、必要があればいくらでも下げる」 「僕も社長に何かあったら、頭下げる」 「それは頼もしい」  佐和は自分のビジネスバッグから封筒を取り出す。 「ちゃっかり持ってきちゃった。内定通知書です。内容を確認して、よろしければ内定承諾書に記入をお願いします。次にバイトに来るときに持ってきて」 「やだよ、今すぐ書く!」  宇佐木の笑顔と一緒に、署名捺印された内定承諾書を受け取った。  帰り道、駅のホームで缶コーヒーを買い、息をついた。 「俺たちは必要なかったな。あれだけの熱量があったら、宇佐木はひとりで解決できた」 「そうだね。でもいいじゃん、ご両親に会えたし。『周防眞臣はSSスラストにしかいない!』、『僕も社長に何かあったら、頭を下げる』なんて素晴らしいセリフも言ってもらったし。惚れられたね」 「嫉妬する?」 「しないよ。周防を認めてもらうと、僕はとても嬉しい」  さらりと前髪を揺らす笑顔にのぼせ、俺は肩を軽く佐和の肩にぶつけた。  その後、宇佐木は今日までプレイングマネージャーとして現場にいてくれている。  会社の悪口や、社長への不平不満など、部下の話を丁寧に聞いては 「社長のかわりに僕が謝ります」  などと言って笑っている。

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