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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(36)

 社員数が3桁を超えて、急に仕事が忙しくなった頃の話だ。  まだお姉ちゃんはいなくて、降りかかる仕事を自分たちでイチから仕分けし、優先順位をつけてさばいていた。  特にオールラウンダーな佐和の仕事量が爆発的に増えて、俺も可能な限りは分担し、少ない睡眠時間で朝から晩まで働き通しだった。  オフィスは移転していたが、相変わらず運転免許試験場の周辺にいた。建物の屋上からは東京タワーが見え、運河を見下ろせた。  その頃、俺は、佐和いわく『デコレーションケーキみたい』なマンションに住んでいた。築年数は古いが、水回りが広くリフォームされていて使いやすい。ついでにダブルベッドも寝心地のいいマットレスを吟味して買い換えて、消極的に佐和をおびき寄せていた。  佐和は相変わらず恋愛しているようで、残業を少し早く切り上げたり、土曜日の夜は俺の部屋に来なかったりして、逢瀬の時間を作っているらしい。  土曜日の夜は俺も遊ぶことにしていて、重低音が脳髄まで震わせるような店で、常連の仲間と踊ったり飲んだり、無駄話をしたりした。 「おためしで、周防くんと寝てみたらいいじゃん。周防くんのエッチ、優しいよ」  俺はその言葉を受けて、女の顔をのぞく。 「いいよ。試してみる?」  そんな軽いノリでホテルに行くこともあった。途中で怖くなった、気が変わったと言われれば、どのタイミングでも手を離し、タクシーに乗せて、笑顔で見送る。  早朝に部屋へ帰ったら、佐和が寝ていた。 「セックスが上手くいった次の日の朝って、急に心が広くならない? 何でも許せそうになって、別れるのやめようかなって思っちゃう。一瞬の気の迷い、幻だけどね」  日曜日の朝、俺の部屋でトーストをかじり、観葉植物に水を与えながら、佐和は言う。 「はあ。光源氏も後朝(きぬぎぬ)(ふみ)を交わすくらいだから、セックスの翌朝は時代を問わず、誰でもロマンチックになるんじゃないのか」  女が自分の部屋に私物を置くのはあざとい、マーキングみたいで絶対に嫌だと言うくせに、観葉植物は佐和の私物で、俺の部屋に置くんだなぁと思いつつ、返事をした。クローゼットの中はいつも混ざり合っているし、いいんだけど。 「ああ、ロマンチックになってるのか、僕は! やだなぁ! ……でもさ、もし毎晩セックスが上手くいったら、毎朝勘違いをして、昼間は会社に行って互いの顔は見なくてよくて、夜になったらセックスで解決して、幻だけで生きていけるのかな?」  佐和は首を傾げ、大きな緑の葉の埃を、濡らしたキッチンペーパーで愛おしげに拭く。どんな恋愛をしているのか、俺にはやっぱりよくわからない。 「不安の解消や問題の一時的な解決をセックスに求め続けていたら、ジャンキーにならないか?」 「僕、セックスが苦手なのに、依存症になるかな? でも、アルコホリックの人も、お酒が苦手だったけど飲んでるうちに、気がついたら、なんて言うよね」  佐和は力なく笑い、観葉植物の葉をぽんぽんと撫でた。  日曜日の昼からまた積み残していた仕事をした。佐和のデスクで一緒に電卓を入れて、合わなかった数字を合わせたときには、午前零時を過ぎている。  今日もよく働いたね、と夜中にベッドにもぐり込んでくる佐和の首の下へ左腕を通して眠った。  体温を感じて深く眠り、アラームより早く目覚めた朝は、至近距離で佐和の寝顔を見る。  香水も整髪料もつけていないときの佐和の匂いを嗅ぐと、洗濯を繰り返して柔らかく白くなったオーガニック・コットンのガーゼケットを思い浮かべる。自然体でまっさらで、柔らかくて、華美でもストイックでもない。  前髪はさらさらと額の上を滑り、額があらわになると、前髪で和らげられていた端正な顔立ちがはっきりして、精悍な印象に変わる。 「あー、キスしたい」  前髪を人差し指に巻きつけていたら、佐和が目を開けた。 「無性にキスしたいって思うとき、あるよね」  佐和は自然にのびをして、大きく口を開けてあくびをする。きれいな歯並びが見える。 「俺とキスする?」  こめかみに額が触れる至近距離で打診したが、佐和はいつも通りの反応だ。 「しないよ! どうして周防としなきゃいけないの。意味わかんない!」  佐和は笑ってうつぶせになり、そのまま俺の腋窩へ鼻先を突っ込んで息を吸って、俺は佐和の頭を抱いて匂いを嗅いだ。  アラームが鳴って同時に手をのばし、ボタンの上でふたりの手が重なる。佐和がそのまま掴んだ目覚まし時計を俺の胸の上に置き、2回目のアラームが鳴るまでまどろんだ。  蒲田さんは、会社の規模が大きくなっても、あえてプレイヤーとしてフロアにいて、会社全体を見てくれていた。  その蒲田さんが 「社長、ちょっといい?」  と声を掛けてきたのは、昼休みに入ってすぐのことだ。  屋上へ上がり、ふたり並んで柵にもたれ、ゆらゆら揺れる運河の水面を眺める。 「副社長、ちょっと苦戦気味かもなぁ」 「どういうこと?」 「俺も含めて、ディレクターは全員年上だろ? そこそこ腕に覚えがあるプロパーだと、反発心が芽生えるみたいでさ。指示が1回で通らない」  ああ、と俺は頷く。  俺たちが吸収合併した会社に新卒で入社し、たたき上げられてきた管理職は、何かにつけて自分のやり方を貫こうとする。俺も佐和も理詰めで論破したり、情に訴えて説得したり、時間を割いて一緒に飲みに出かけて話を聞いて懐柔したりを繰り返していた。 「年上って、意外に狭量なのな。蒲田さんみたいな度量の大きな年上としか仕事してこなかったから、佐和も俺も、戸惑ってる。最初は不機嫌の理由もマジで思い当たらなかった」  俺たちは順調過ぎて、嫌な大人というものにあまり出会わなかった。変なメールを寄越す人や、会ったこともないのに噂話を撒き散らす見ず知らずの人はいたが、仕事で関わる年上は、仕事に関しては高潔な人ばかりだった。  世の中には話してもなかなか通じない人がいる、そもそも話すつもりすらない人がいるという事実に、地味に打ちのめされていた。 「でも俺より佐和のほうが、よっぽど丁寧で、相手のプライドを守ってる気がするけどな」 「周防さんは、できないヤツに用はないから」 「用なんかないだろ。無理しないで、さっさと自分に合った会社へ転職してもらうほうが、よっぽどお互いのためだ。定着率なんか低くて構わない。採用や入社教育に手間を掛けてやる気があるヤツを入れるほうが、組織は上手く回る」 「辞めて欲しいヤツほど居座ることもあるけどなぁ」  柵を両手で掴み、腰を引いて背中のストレッチをしながら、蒲田さんは苦笑いした。 「こっちが理念をしっかり持っていれば、少しずつ新陳代謝して、SSスラストらしくなっていく」 「その前に副社長が忙殺されて、潰れないといいけどな」 「佐和が潰れたら即座に立ち行かなくなる、今の状況は早目に打開したい。俺が分担するにも限界があるんだよなぁ」  当たり前だが、俺には俺の仕事があって、佐和の仕事を引き受けるにも限界がある。  かといって、個人情報や企業機密に関わる仕事は誰にでも渡せるものではなく、また佐和が仕事を抱えすぎて、誰かに仕事のやり方を説明する時間も余裕もなくなっていた。  蒲田さんのスマホが鳴動し、気軽に応答する。 「屋上」  そう返事をすると相手の話に耳を傾け、すぐに行くと答えて通話を切った。 「宇佐木から。チーム給湯室が佐和さんとトラブってるって」 「あー、チーム給湯室……」  その名前を聞くだけで、俺は運河に向かってうなだれる。よごれた東京湾のべたつく潮の匂いがむかむかする。  倉庫街の一角に1棟丸ごと借りているビルは火気厳禁で、ベランダや屋上も喫煙不可と決まっている。  全社員に通達してあり、トイレや給湯室に貼り紙もしているのだが、昼休みに、一部の女性社員たちが給湯室に寄り集まって喫煙した挙げ句、火災報知器を鳴らした。  スプリンクラーが作動して大騒ぎしているあいだに、自動的にセキュリティ会社へ連絡が行った。そこから、通報を受けた消防車がサイレンを鳴らして駆けつける騒ぎに発展し、警察もやって来て、会社の周辺は一時騒然となった。  俺と佐和は、警察と消防にそれぞれ呼び出されて頭を下げ、火災には特に神経を尖らせている近隣の倉庫会社にも謝罪して歩き、もちろんビルのオーナーにもこっぴどく叱られた。  社員のミスを謝るのが自分たちの仕事だと心得ていても、本人たちは開き直り、逆ギレし、ふてくされるだけで、反省の色が見えないのはため息が出る。 「さて、様子を見に行くか」  俺はGPS検索ボタンを押し、屋上のドアを開けて、非常階段を3段とばしで駆け下りた。

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