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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(37)

 佐和のデスクの前に今年入社した20代前半の女性と、ひとまわり年上の女性が立っている。  チーム給湯室の中でも、もっとも仲がいいと自分たちで言い合っているふたりだ。  社内では目が合うと手を振り合い、ときには手をつないで歩いている。業後も一緒に遊びに出かけたり、週末に互いの部屋に泊まって一晩中海外ドラマを観たりしているらしい。  別に仲がいいのは構わない。俺だって連休に佐和と徹夜で『プリズン・ブレイク』を観るくらいはする。仕事さえきちんとすればいい。  そのふたりを支援するように後ろに立つのが、チーム給湯室のリーダー的御局様で、会社に反発し、物申すことで人気を得ているが、周りが自分と一緒に文句を言い始めたら、自分はさっさと足抜けする抜け目なさも持ち合わせている。 「ふたりは生理が重いんです。診断書がなくても、リーダーの私が証言すればいいでしょう?」 「生理になるのが悪いなんて、女性差別じゃない?」 「副社長は童貞で、女の身体のことなんか知らないから、そんなふうに言えるんじゃないの?」  佐和はツーピーススーツを着ていて、脱いだジャケットを椅子の背もたれに掛け、ワイシャツの袖をまくり、東京タワーのステッカーを貼ったノートパソコンを開いて、ふたりの話を静かに聞いていた。  俺はまず宇佐木の席まで静かに移動して、目立たないように片膝をついて身を屈めた。 「何があった?」 「あのふたりが、先週の月曜日から金曜日まで、同時に5日連続で生理休暇を取得してる。実は海外旅行に行っていたのではないか、と」  見せられた画面は休暇取得状況一覧表で、縦軸に従業員名、横軸に日付が入っていて、休暇の種別ごとに色分けされている。  たしかに、ふたりは先週の月曜日から金曜日まで、同時に5日連続で生理休暇を取得していた。 「勤怠管理のプログラムを組んだのは僕なんだ。バグったかなと思って副社長に報告したら、『意図的だろうね。今の時期は、ハワイ旅行の代金が安いんだよね。しかもあの自慢げに仲間に見せているネックレスは、ハワイでしか買えないブランドだよ』って」  たとえ本当に生理だったとしても、ハワイに出かける元気があったら、それは労基法でいう就業が著しく困難な状態ではない。不正な取得になる。 「佐和は、真正面から問いただしたのか」  ぎゃんぎゃんと騒ぐ声に、振り払いたいような頭痛を感じてこめかみを指先で押さえた。 「そこはよくわかんないけど、気づいたらあの状態。生理だ童貞だって叫べば勝てると思ってるのかな。聞きたくもないのに聞かされるこっちは、セクハラを受けてる気分」  宇佐木は肩をすくめた。  俺は国会議員に耳打ちする役人のように、静かに佐和に近づいて、どこもよそ見せず佐和だけに話しかけた。 「副社長、お話し中に失礼。フロア中に声が響き渡ってるけど。どうしたの?」 「生理休暇の取得に疑問があったので、お話しを伺ってるところ」 「ここで大きな声を出すのも何だから、ミーティングルームへ移動しませんか。俺も同席していい? 邪魔だったらもちろん引き下がるけど。14時半まで空いてる」 「うん。同席してもらおうかな」  俺は立ち上がってミーティングルームの手配と、女性管理職の立ち会いを指示した。 「具体的な症状を言わされるなんて、セクハラです!」  宇佐木が言うとおり、フロア中に響き渡る声で、全員の耳に生理だ童貞だとねじ込むほうが、よっぽどセクハラだ。が、俺まで佐和の面倒を増やしてはいけないから、大人しくしていた。  佐和はまったく表情を変えず、おそらく何度も繰り返しているであろうセリフを口にした。 「そんなことは一度もお願いしていません。ただ僕の疑問に答えていただきたいだけです。先週の月曜日から金曜日まで5日間、就業が著しく困難な状態が続いていらしたんですか。その5日間、どちらで療養されていたんですか。ご家族など証言できる方はいらっしゃいますか。それだけです」  チーム給湯室はまた口々にぎゃんぎゃんと騒ぎ、佐和は落ち着くのを待ってから、口を開いた。 「僕は医者でもなんでもなくて、個人的な感覚でしかないんですが。5日間も『就業が著しく困難な状態』が続くとしたら、まず婦人科を受診されたほうがいいと思います。任意で受診していただくほうがいいですが、必要があれば受診命令を出します」 「個人的な感覚って、何? 生理になったことあるの?」 「婦人科の内診がどんなに嫌なものかわかってる?」  鼻で嗤って佐和を見下しながら騒ぐのを、佐和は黙って聞いてから、落ち着いて口を開いた。 「僕の彼女も生理はかなり重くて、2日目と3日目は生理休暇を取得して、自宅でうめいています。独り暮らしだけど、食事の用意も家事もできないから、僕が行ってご飯を作って、家事をやるんですけど。洗濯物を見るだけでも、まぁ男の僕は血の気が引きますよね。『古都ちゃん、こんなに出血して死なないの?』って。……ああ、古都ちゃんというのが、彼女の名前なんですけど」  お姉ちゃんのバンド仲間で、佐和の馬術部の先輩の古都ちゃん。バーベキューの前に別れて、さんざん文句を言っていたのに、いつの間にヨリを戻していたのか。 「今、彼女は婦人科に通ってピルを飲んでいます。内診台は嫌がっていますけど、あの椅子に座って強制的に脚を開かされて、指や器具を入れられるなんて、嫌だと思って当然だと思います。診察の日は付き添って、帰りは何でも彼女の好きな物を食べに行きますけど、そのくらいのご褒美がないと通院も続きませんよね」  楽しいことをするためじゃなく、嫌なことを軽減するためにデートするなんて、相変わらず優しい男だ。いいなぁ、俺も生理になりたい。 「症状はだいぶ軽減したようで、自分がやりたいと思っていた仕事を休んだり、諦めたりしなくてよくなったし、肩身の狭い思いをしなくてよくなったと言っています」  佐和は彼女の体調がよくなったと言いながらニコリともしない。 「どうして肩身が狭いのって訊いたら、サボってると思われるからだそうです。生理の重さは千差万別で、経血量が多いから大変とも限らない。男性の理解を得にくいのはもちろん、同性である女性からも、自分が生理の日に働いているのに、あなただけ休むのはずるいと思われたりするそうです」  ゆっくり息を吸って、吐いて、佐和は言った。 「どうしてそんなに理解を得にくいんでしょうか。本当に生理休暇を必要としている人が、肩身の狭い思いをしなきゃいけないのは、実際にサボるために、濫用する人がいるからですよね?」  さらりと揺れる前髪の下で、佐和の瞳が鋭く光った。 「自分の私利私欲のための制度利用が、本当に生理休暇を必要としている人にとって、いかに迷惑になっているか。本当に生理が重くて辛い人の気持ちを考えて行動できているのか、よくよくお考えいただきたい!」  強くなってしまった語気に自分で驚いて、穏やかな口調に戻った。 「今回に限り、おふたりの自己申告を信用することにします。そのネックレスがホノルル本店の限定品であること、トルコ石のオプションチャームが今月発表になったばかりの新作であることも、不問にしましょう。たまたま彼女がチェックしていたから知っているだけで、僕はアクセサリーには詳しくない」  遠回しにハワイ旅行へ行ったことはわかっていると釘を刺し、肩の力を抜いた。 「と、ここまでプライベートをお話ししてしまいましたが、僕と彼女はケンカが絶えなくて、しょっちゅう別れています。次に何かの拍子にこの話を思い出しても『古都ちゃんは元気?』などとは、絶対に僕に訊かないでください。そのときには僕たちは別れています」  相変わらず佐和の恋愛はよくわからない。  その場にいた全員が「はあ」と間の抜けた返事をして、その場は解散となった。 「古都ちゃんは元気?」  仕事終わり、佐和はシャワーを浴び、タオルを被って俺の部屋へやってきた。コンビニで買った惣菜をつまみつつ、あえて地雷原へ踏み入ったら、佐和はビールの缶に口をつけたまま苦笑した。 「もう別れたってば。周防は、何回か会ったことあるんだってね」 「お姉ちゃんを迎えに行ったときに、2回ほど」 「お姉ちゃんと周防はお似合いだったって言ってたよ」  その口調が少し俺を慰めるような、励ますようなものだったので、勘違いの糸口は古都にあるのだと理解した。  佐和を好きだとバレるよりは、そのくらいの勘違いのほうがいいのかも知れない。  俺は肯定も否定もせず、軽く微笑んで、苦味の強いビールを飲み干した。

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