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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(38)

 俺はこみ上げるビールの炭酸に紛れさせて、ため息をひとつ、気持ちを切り替えて佐和の正面に座った。 「ちょっと触らせて」  まだ湿っている前髪を額から後ろへかき上げてみる。思った通り、凜々しい眉と聡明な額があらわになって、大人びて見える。 「佐和は、童顔だ」 「ええっ、僕が童顔っ?」  驚く佐和に、俺は自分の意見を押し通すため、真顔で頷く。 「前髪を下ろしているから、なおさら中性的で幼く見える。弟みたいに可愛がられて甘えて、急に自分の男らしさを出して、ギャップで女を落とすの、好きだろ?」  改めて両手で前髪を後ろへ押しやり、急に大人の男になった佐和の姿にときめきながら笑いかけたら、佐和は首をかしげながら笑う。 「んー、どうだろう? 押しつけがましく世話を焼かれるのは嫌だけど、たまに弟みたいに可愛がられるのは、悪い気はしないかもね。男だから、男らしく振る舞いたいときはもちろんある。でも、それを計算で使い分けるほどのテクニックはないかな」  無邪気な小悪魔め、とは口に出さず、ただ俺は笑った。 「で、胸は小さめで、背が高くて、とんでもない美人が好きだよな?」 「んー、そうかもね。ちっちゃくて丸みを帯びてふわふわとした、いかにも女性らしい女性は、あまり好きにならないかも」  佐和は俺に何度も前髪をかき上げられて、くすぐったそうに笑った。 「やっぱり、前髪をおろしていると、童顔が際立つ。プライベートはそれで構わないし、俺は今の自然な佐和も好きだけど、仕事をするときは大人びて見えるほうが有利だと思う。試しに前髪を上げて、メガネをかけてみないか」 「メガネ?」 「今度の週末、俺とデートしよう」  年代物のナローポルシェは世話をしてやる時間がなくなって泣く泣く手放し、新車のポルシェ718ケイマンに乗り換えていた。  新車には、自分でオプションやボディーカラーを選べる楽しさがある。買うときにディーラーへ佐和を連れて行き、軽い愛の告白のつもりで甘えた。 「自分が助手席に乗る前提で、ボディーカラーは、佐和が好きな色を選んで」  佐和は頷き、即座にディーラーのスタッフに顔を向けた。 「下取り価格がいちばん高い色は何色ですか?」  愛も夢もない質問をする姿に、さすが俺の佐和だと思った。  白か黒という選択肢が示され、手放したナローポルシェにまだ未練があったから、同じ黒という結論に至った。  黒のケイマンを駆り、まずは国内外の多くのブランドから厳選したアイウェアを扱うショップへ行く。  古い土蔵を改装し、大正時代の古きよき家具をショーケースに見立てた落ち着いた空間に、世界中から選りすぐりのフレームがずらりと並ぶ。 「予約していた周防です」  名乗ればすぐ、古い蒔絵の角盆にアンダーリムのフレームが、いくつも並べられて運ばれてきた。 「お洒落だけど、個性が強過ぎない?」  案内されたソファに座って、佐和は完全に引いているが、俺は構わず佐和に向き合い、そのソファの座面に片膝をついて、フレームをフィッティングしていく。 「佐和の顔立ちは爽やかでさっぱりしてるから、少し個性的なデザインでアクセントをつけたほうがいい。でも、このシャープな眉は佐和の能力の高さを物語るから、フレームで隠したくない。だからフレームはアンダーリムがいい」  アンダーリムの中でも、レンズの形は様々で、オーバルやバレル、ボストン、スクエア。素材もセル、メタル、天然素材、合成樹脂。色も黒だけでなく、青や赤や緑やシルバーなどいろいろ試した。  試着するたびにサイドの髪を耳にかけて佐和に触れ、前髪をかきあげて、様々な角度から存分に佐和の顔を見る。 「佐和は何でもよく似合うな」 「嘘。僕は普通のデザインしか似合わないよ」 「自分の魅力に気づいていないのは危険だ。不意打ちでそこら辺の女を片っ端から射止めて、望まない相手に惚れられる。気をつけたほうがいい。……ああ、これも試してみよう」  着せ替えは楽しかったが、ビジネスマンの佐和に一番適しているのは、比較的オーソドックスなスクエア型のアンダーリムだった。  黒の合成樹脂素材で軽く、耐久性に優れていて、メガネに慣れない佐和でも扱いやすそうだ。  佐和は、テンプルの幅が黒目の直径より幅広いことを気にする。 「左右がちょっと見づらいね」  だが、額をむき出しにして、クールな目でチラチラと横目で人を見られたら、その色気にのぼせる人が続出する。俺は自信を持って頷いた。 「目の表情が横から読み取りにくくなっていい! ほら、最高にクールだ」  佐和は手鏡で自分の顔を見て、困ったように笑う。 「そう? メガネなんてかけたことがないから、いいとか、悪いとか、自分では全然わかんないよ」  俺は佐和を店内の大きな姿見の前に立たせ、背後に立って両手で佐和の髪を前から後ろへかきあげて、手のひらで頭全体を押さえながら、鏡の中の佐和と目を合わせた。 「ほら、似合う」  そう声をかけた直後、佐和は鏡の中の自分と目を合わせ、背筋を伸ばし、肩を開いて軽く顎を上げた。黒目に力強い光が宿り、目つきが鋭くなり、物事を深く明解に見抜く眼力があった。 「ああ、こういうこと」  その声は脊髄に氷柱をぶち込まれるようで、俺は痺れた。 「そういうこと。さすが勘所がいい」  佐和はすぐに表情を緩め、髪を押さえる俺の手から逃れて、手櫛で乱れた髪を元に戻して笑ったが、俺の意図は伝わったらしい。  大人しく視力測定を受けて、疲れ目を軽減する程度のごく弱い度を入れてもらった。 「俺のお仕着せだから」  自分のクレジットカードで支払いを済ませ、さらに近くのテーラーへ佐和を連れて行く。 「スーツを買うの?」  もうたくさん持ってるけど、と言わんばかりの佐和に、俺は笑顔で上半身だけのマネキンを指差した。 「佐和が着るオッドベストを作る」 「何それ?」  佐和は俺の指差す先を見た。 「スーツに合わせて着る、素材違い、色違いのベスト」 「ベスト? なんで?」 「佐和は内勤メインだから。社内ではジャケットを脱いでいることが多いだろう。ワイシャツだけだと、ワイシャツのたるみがルーズに見える。ツーピーススーツの日はオッドベストを着て、きちんとした、少し偉そうな印象にしてほしい」 「なるほど。わかりました、着ましょう」  素直に頷く佐和の肩に、気が変わらないうちに左右から異なる布を次々とかけ、佐和が持っているビジネススーツを思い浮かべながら、勝手に候補の布とデザインを決めた。 「どう? どれでも全部、佐和に似合う!」  胸を張って言ったら、佐和が笑った。 「周防がそう言うなら、そうなんだろうね」  佐和は爽やかなライトグレーの布とシングルボタンのオーソドックスなデザインを選び、さらにバックベルトやポケットの位置を決める。  俺はそのあいだも勝手に佐和の背中や肩に布をあて、別の店員とデザインを打ち合わせて、気に入った布をすべて店員に渡した。 「全部、お願いします!」 「ベストばっかり、そんなにいらないよ!」  俺は望み通りのセリフを佐和から引き出すことに成功した。 「よし、スリーピーススーツも作ろうっ!」  佐和が好きなシャドーストライプの布を揃え、全身のサイズを測ってもらう。 「佐和は何でもよく似合うな」 「嘘。僕は普通のデザインしか似合わないよ」  メガネのときと同じような会話を繰り返し、苦笑する佐和にブラックのシャドーストライプの布をあてた。  佐和はタイトなブリティッシュスタイルで、ベストは襟付きのデザインを選ぶ。  正面から見たスタイルは堅実で重厚感があるが、後ろ姿はセンターベンツで、小ぶりなヒップラインが見え隠れするので結構エロい……と思ったが、あまり口を挟んで機嫌を損ねたくもないし、自分の目を楽しませてもらおうと口をつぐんだ。 「頼むから自分の魅力に気づいて、コントロールできるようになってくれ。心配で、こっちの心臓がいくつあってももたない」 「何それ、意味わかんない」  笑う佐和の髪の毛をぐちゃぐちゃにして、佐和が鏡の前で髪を直している隙にカードを切った。 「自分の戦闘服は、自分で買うよ」 「今回だけ許してほしい。仕事ばっかりでストレスが溜まってる。忙しすぎて、カネの使い道もない」  佐和は隣を歩きながら、ため息をつく。 「周防は、車を買ったばっかりじゃん」 「車しか買ってない。相応以上には、俺たちは稼いでるぞ」  口ごたえをした俺を、佐和は冷ややかに見る。 「そうだね。僕たちは今期も役員報酬を上げたしね。自動積み立ての金額も増やそうね」  佐和の理路整然とした綿密な資金計画に、何を言ったって叶う訳がない。 「はい、わかりました」  うなだれた俺を見て佐和は笑い、背中を叩いてメキシカンレストランでのランチに誘ってくれた。

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