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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(39)

 公園を臨むテラス席に座り、トルティーヤチップスでワカモレをすくって、佐和の口許へ差し出す。  佐和は当たり前に口を開け、俺の手から食べて 「ん。美味しい」  と、目を細める。  してもらったから、お返しするのは当然という発想で、佐和もワカモレをのせたトルティーヤチップスを俺の口へ差し出してくれる。  本物の恋人同士でも、昼間のレストランでこんな食べさせあいはしていない。俺はちゃんとわかっているが、絶対に佐和には言わないで、遠慮なく食べさせてもらう。 「美味い」  キスする予定がない俺たちは、タコスに生の玉ねぎもパクチーもたっぷり入れて、遠慮なくかぶりつく。でも、周りから見れば、ふたりで同じものを食べれば匂いが気にならないからだと思われているかもしれない。思ってくれる人がいたら嬉しい。  せめて他人の誤解の中だけでも、俺は佐和と恋人同士になりたい。恋というものは厄介な感情だと思う。  佐和は向かい側の席で美しくカトラリーを操り、俺はその姿を鑑賞する。  スプーンを手に、トウモロコシのスープをすくい、ひらりと口の中へ流し込んで、佐和は微笑んだ。 「久しぶりに、食事を味わってるって気がする。美味しい」 「毎日、忙しすぎるんだよな。こっちのスープも美味しいぞ」  にんにくと牛肉のスープを自分のスプーンですくって、佐和の口許に差し出す。その温かさと美味しさに、また佐和の表情が緩んだ。  俺も佐和のスプーンからトウモロコシのスープを飲み、佐和が口をつけたスプーンでにんにくと牛肉のスープを飲む頃には、俺は何度も算段しては中途半端に終わっている人員配置を考える。  佐和の負担の軽減は喫緊の課題だ。  食事中、デート中に仕事の話は無粋だなどと言っていられるほど暇ではなくて、佐和と話せるときに話しておかないと、また時間に迫られ、尻切れトンボになって、話が宙に浮いてしまう。 「社内の指揮系統を整えるか、ヘッドハンティングしてプロパーのメンツを潰してでもトップダウンで配置するか。どっちが早くて有効か」 「僕は、社内の人材活用を、もっと考えてもいいと思う。経営トップが変わって面白くないと不貞腐れてるだけで、ポテンシャルの高い人はたくさんいる」  舐められて自分の指示が1回で通らなくても、火災報知器を鳴って謝罪行脚をしても、生理休暇をめぐって悶着があっても、なお社員を正当に評価できる佐和の落ち着きを、俺も見習うべきだ。 「社内FA、社内公募、自己申告制度あたりか」 「うん。僕は上司のチェックなしで直接応募できる、社内公募がいいんじゃないかって思うんだ。生意気上等なSSスラストには、自分の意思だけでアクションを起こせる制度が向いてると思う」 「そうだな。やってみよう」  佐和は笑顔でスマホを取り出す。 「起案書を書こうっと。実はもう叩き台は作ってあるんだよね。周防と話したら、すぐ出そうと思って」  直後に俺のスマホが震えて、叩き台なんかではない、しっかりした起案書と提案書、ワークフローが出てくる。 「こんなの、いつ作ってるんだ?」 「思いついたとき。観覧車に乗るまでの待ち時間とか、スイーツバイキングで僕が先にギブアップしたときとか」  デート中に仕事をしているということか。俺は心配になって佐和の顔をのぞきこんだ。 「ぶっ飛ばされないか?」 「そういう価値観の人とは、そもそもつきあわないもの。僕が仕事してるときは、向こうも仕事してる。女性のキャリアアップって、大変だね。結婚や妊娠っていう見通せない未来を見通してプランを立てて、産休や育休をとったあとの復帰まで考えて足場を固めなきゃいけなくて」 「雇用する側、管理職の意識がよくない。産休や育休で抜けられたら人手が減る、コストがかかるっていう、自分の目の前のことしか考えない。男女一律で産休も育休も介護休暇もとればいい。その穴埋めの工夫を考えずにただ会社の不利益だ、損失だと文句を言うのは、俺たち側の怠慢だ」  姉が妊娠し、姪が生まれたときを思い出す。  姪は、俺が中学の夏休みで帰省しているときに生まれた。  たまたま家の中には姉と俺のふたりきりで、破水したと言われても何のことかわからず、痛みの度合いも姉本人にしかわからなくて、言われるままバスタオルを運び、タクシーを呼び、荷物を持って付き添った。  産院では胎内の様子が画面に映し出され、心音がスピーカーから聞こえて、腹の皮一枚向こうに生まれようとする人間がいるのだということを、そのときようやく理解した。  陣痛に耐える姉のベッドサイドへ呼ばれ、お腹が張るタイミングで腰を押すように言われ、陣痛の間隔があまりにも規則正しく、さらにはその間隔が次第に短くなっていく人体の精密さに畏れを感じた。  出入りする看護師や助産師や産婦人科医の渦に巻かれ、義兄は飛行機が欠航して戻りきれず、俺がそのまま立ち会ってしまった。  今でも姪の頭が、どうやって姉の脚のあいだから出てきたのか、理解しきれていない。姉や助産師の声に圧倒され、赤紫色の太い臍の緒をつけた赤ちゃんがとりあげられ、赤ちゃんは身体中にべたべたしたものをつけたまま大きな声で泣いて、狐につままれたような体験だった。  姉と姪は1週間くらい産院で過ごした。退院してきた姉の歩き方はまだ妊婦のようにぎこちなく、髪はほつれて、唇は白っぽかった。それなのに姪は自分の気分で泣いた。  泣いたら、まず抱く。  姉にそう言われたとき、初めてそれが愛情の示し方だと知った。  人生のうちでもっとも母親に抱き締められたくない年齢だったが、頼んで抱き締めてもらったことを覚えている。  母親に抱き締められたときの安堵は大きかった。愛情とは、安心させることなのかもしれないと思った。  おそるおそる姪を抱き、おむつを調べて取り替え、背中まで広がる緑色の便を拭き、着替えさせ、ミルクを飲ませて背中をさすり、ゲップに失敗した姪の口から吐き出されるミルクを頭から浴びながら、先に姪を着替えさせたりして、短い夏休みを過ごした。  唐突に始めた思い出話を、佐和は丁寧に聞いてくれた。 「得がたい経験だったね」 「俺はただ気まぐれにチビたちを可愛がって、楽しいところだけを味わえるけど、自分たちが主体となって子どもを産んで育てる大変さは、想像を絶する。ウチは家族が多いから負担が分散するけど、あれを両親だけ、あるいはひとり親でこなすのは、本当に大変だと思う」  俺のスマホの中から、姪と甥の成長記録写真を引っ張り出して、佐和に見せた。  佐和は1枚1枚の写真を丁寧に見て、笑んでくれる。 「男女関係なく育休をとりやすい会社にしようね。周防が言うとおり、愛情とは、安心させることなのだとしたら、安心して制度を使ってもらえる会社にすることが、僕たちの、赤ちゃんたちへの愛情かもね」  ヴァージン・モヒートの氷がすべて溶けて、ぬるくなるまで話し込んだ。  仕事の話も、真面目な話も、恋愛の話も、くだらない話も、俺の本命はお姉ちゃんではなく、本当は佐和のことをセックスしたいくらい大好きだということ以外は全部、安心して話せた。  佐和は賛成でも反対でも、くだらなくても、まずは俺の話を聞いてくれる。  もちろん俺も佐和の話を聞く。  違う意見や考えなら、それも安心して話せる。  この安心感も、佐和から与えられている一種の愛情なのだろうと思う。  店を出て、調整の終わったアンダーリムのメガネを受け取り、試着している佐和の姿を見て、自分の欲深さを思った。 「セックスと恋愛以外の愛は、きっと全部もらってるのに、欲張りだよなぁ」  よそ見も流し目も許さないメガネをかけて、佐和が振り返った。前髪をさらさら揺らして笑う顔には、少し不似合いだったが、俺は頷いた。 「似合ってる」  月曜日の昼休み、佐和はスリーピーススーツに身を包み、髪をオールバックに調え、アンダーリムのメガネを掛けた姿で、直行先から戻った俺の前に立った。  俺が想像していた以上にクールで、インテリジェンスな雰囲気が前面に押し出されている。カッコイイ。 「周防が言うとおりだった。皆の反応が全然違う。見た目って大事だ」  その声は冬の窓ガラスのようだ。冷たいが、ずっと頬を押しつけていたくなるような思慕をかきたてられる。 「よく似合ってる。跪いて靴を舐めたい」 「何それ、意味わかんない」  破顔する佐和を見て、今日もまた賞味期限3年の恋愛の1日目が始まる。

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