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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(40)
佐和のイメージチェンジが効果を発揮し、さらにお姉ちゃんを秘書室長に迎え入れて仕事の交通整理をしてもらったことで、俺たちは今までと同じ時間と労力で、倍近い仕事量をこなせるようになった。
比例して会社の規模も大きくなり、もう倉庫街には適した物件を見つけることができなくなって、東京タワーの近くにある高層ビルにオフィスを借りた。それは奇しくも、SSスラストを作ろうと決めた日、東京タワーの大展望台から俺が指を差したビルだった。
「すごいね! 本当に実現できちゃった!」
「佐和の力だ」
「違うよ、僕と周防の力だよ。ふたりだからできたんだ」
窓の外を見て佐和ははしゃぎ、俺は佐和を抱き締めた。
「さあ、約束通り、電波の届かない場所へ行こう」
お姉ちゃんを雇うと決めた日に言われた
「スキューバダイビングがいいらしいわよ。電波の届かない場所!」
という言葉に従って、俺たちはスキューバダイビングを始めた。
初めはカラフルな海を好んで潜ったが、人気スポットには多くの人が集まる。見ず知らずの人との交流に佐和が音を上げて、オヤジさんのショップに機材を置かせてもらうようになった。
近郊の海には、南の海のようにわかりやすく見応えのある大きな生き物はいない。
だが、岩陰に潜む小さな生き物たちのユーモラスな姿は楽しく、小さな魚の群泳や、冬から初夏にかけての海藻の森には胸を打たれる。
さらには地形がダイナミックで、水路やトンネルや洞窟もあり、コース取りもいろいろ楽しめる。
季節によってまったく違う表情を見せる海に魅せられ、1年中飽きることなく通って、過多な情報に溢れる世界から自分たちを切り離した。
「周防が言うとおり、レンズにこだわって正解だった。僕の技量でもブレずに明るく写る」
俺たちは互いの誕生日に、水中撮影に適したコンパクトデジタルカメラをプレゼントしあった。上達するつもりはあまりなく、腕前はカメラの性能に任せて、ただ自分のスマホの中へ海を持ち帰る目的で写真を撮った。
特に冬は透明度が高く、海藻が育って、差し込む冬の陽射しがきらめく。
水が侵入しないドライスーツは、少し着脱が面倒だが、その手間をかけてでも潜りたい魅力がある。
潜って最初の1枚は、互いの姿を撮る。最初はたまたま佐和が俺にカメラを向け、気づいた俺も佐和にカメラを向けた。その後、特に地上で言葉にして確認しあったことはないが、毎回の習慣になっている。
コンデジを手に泳ぎ、俺は陽の光に透けて頭上に広がるワカメや、空を飛ぶように泳ぐ佐和を撮り、佐和は卵を守るネオンカラーのチャガラや、種類豊富でカラフルなウミウシ、メカブの根にしっぽを絡めたタツノオトシゴを撮る。
そしてもうひとつ、言葉にして確認し合ったことがないのが、手をつないで泳ぐ習慣だ。
ふたりきりで海の中に潜り、ほかの人の目がなくなったとき、俺が佐和の手を掴んだ。迷子にならない、異変に気づきやすい、安心感がある、佐和に訊かれたらそう返事をしようと思っているが、訊かれたことはないまま、安全停止を終えるまでただ手をつないで泳いでいる。
ショップに戻り、互いが撮った写真を見せ合い、データを共有する。
「佐和のデータもクラウドに上げるぞ」
「うん。任せる」
佐和はオヤジさんを手伝い、器材の手入れをしていて、俺は勝手に佐和のコンデジとタブレットをつないだ。
互いのパスワードを知っていて、相手の端末内を閲覧できても、必要以外のフォルダは開かず、開いても必要なデータ以外は見ないのがマナーだと思っている。
だが、佐和のタブレットを操作し、未整理の写真が放り込まれたフォルダを開いて、展開されたサムネイルの中に、俺はうっかり1枚の写真を見てしまった。
佐和が女性の肩を抱き、そのベリーショートヘアに唇を押し当てて自撮りしている構図で、その女性はまたもや古都だった。
学生時代に顔を見たきりだが、髪の長さ以外は変わっていない。胸が小さくて、背が高くて、とんでもない美人。
クリックなんかしなけりゃいいのに、つい佐和の笑顔を見たくて、写真を画面いっぱいに開いてしまう。相変わらず爽やかな色男だ。
肩を抱く佐和の右手の薬指と、その指先をそっと掴む古都の右手の薬指には、見たことのないシンプルなシルバーのペアリングがある。
「ちくしょう、俺のタブレットで作業すればよかった」
こういう佐和のプライベートを見てしまう事故は、年に1回くらいの頻度でやらかす。
俺は頬をふくらませ、尖らせた口から細く強く息を吐いた。
それでも俺たちの関係は良好で、互いの部屋を気軽に往き来し、腕枕をして、朝起きてから寝落ちする直前まで、仕事の話もくだらない話もごちゃまぜにして笑っていた。
「僕、こういう状況って大好き。黙って発言を聞いて、表情や仕草を見て、この人はどこまで嘘を続けられるかなって観察するの、わくわくする」
佐和が俺のデスクに腰掛けて脚を組み、そう言って笑ったのは、約1年半前のことだ。
オールバックの髪型も、タイトなスリーピーススーツも、クセの強いアンダーリムフレームのメガネも板につき、佐和の装備として機能している。レンズの奥で軽く視線を送れば、それだけで誰もが手を頭の後ろに組んで跪く。
その頃、後継者が見つからない取引先の経営陣から、直接M&Aを持ちかけられていた。
とても友好的な内容で、トップ面談や基本合意書 の締結はあっさり済んだ。
俺はもう用済みで、佐和が統合後のプラン策定や財務や法務、事業、労務などの詳細調査手続き や企業価値評価 を進めている。
しかし、途中で売手企業の株の多くを所有する、創業家のメンバーが翻意した。
経営陣が説得に当たったが、高齢な創業者を盾に、その後ろで利潤を求めて画策する者がいるようで、経営陣も翻弄される。
M&Aをこのまま進めたい者、条件を変更して落とし所を探りたい者、違約金を支払ってでも取引を中止したい者が入り乱れた。誰が本当のことを言っているのかわからなくなり、佐和は目を輝かせてプロジェクトを仕切っていた。
「佐和はポーカーゲームとかリズラゲームとか、得意だもんなぁ。俺なら途中でテーブルをひっくり返す」
「周防なら、テーブルごと全部ひっくり返して、相手の肩に足を掛けて啖呵を切るね」
デスクに座ったまま、空中の見えない肩へ足を掛ける佐和の仕草に、俺は素直に頷いた。
「テーブルをひっくり返す必要があれば、いつでも呼んでくれ」
「ありがとう。僕が次に周防を呼ぶのは、クロージング だ」
事態は混迷を極め、俺は佐和にプロジェクトの中止も視野に入れていいと伝えた。
しかし佐和の目は常に冷たく、マネジメントは的確だった。
誰にも惑わされることなく、ひたすら状況を観察し、二度とない一瞬のタイミングにアクションを起こした。薄紙にカミソリの刃を滑らせるように深く美しく一刀両断し、その傷口から血が噴き出す前に押さえて事態の収拾を図るという神業をやってのけた。
誰もが刮目した。双方の担当者たちが呆然とし、次に雄叫びをあげた。
佐和は担当者たちから握手を求められ、賞賛を浴びた。背筋を伸ばし、人当たりのいい笑顔で握手を返したが、俺の顔を見ると困ったように笑った。
「僕、こういうのは苦手」
本気で逃げたがっている佐和を素直に逃し、盛り上がるメンバーを連れて飲みに行くのは、俺が引き受けた。
その夜、佐和が部屋で一人で静かに過ごしたのか、誰かと祝杯を挙げたのかはわからない。
明け方、ベッドが沈むのを感じて目を開けたら、佐和が俺の腋窩に鼻先を突っ込んでうずくまっていた。
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