107 / 172

【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(41)

 俺は半分寝ぼけていて、うっかり佐和の黒髪に音を立てたキスをしてしまったが、佐和は何も言わず、俺の匂いを嗅ぎ続けていた。 「佐和?」 「どうしよう、周防。全然神経が休まらない。怖い」  佐和が顔を上げて、俺を見た。  その瞳孔は、暗闇の中の猫のように丸く大きく開き、休みなく小刻みに動いていた。  こんなに視覚を使い続けていたら、誰だって情報の摂取過多で、脳みそがオーバードライブする。  俺はギラつく瞳の上に手をかざし、心がけて低く落ち着いた声を出した。 「大丈夫だ。連日緊張を強いられて、達成感も大きくて、テンションがぶち上がってるだけ。情報を遮断すれば、すぐに落ち着く」  しがみついてくる佐和の背中をゆっくり撫でた。 「ん、ありがと。なんか太陽が昇るのと一緒に、強制的に神経が研ぎ澄まされる感じがして、気持ち悪くなっちゃった」 「人間の身体は、日光を浴びれば活動的になる仕組みだからな……全身に、ぐっと力を入れてみ。手足は強く握って、肩をすくめて。もっと、身体が震えるくらい強く……そう。5・4・3・2・1、一気に緩めて。よくできた。もう1回」  大雑把なやり方だが、効果はあったようだ。緊張と弛緩を3回繰り返す頃には、佐和の瞬きはゆっくりになり、そのまま俺の肩に頭をのせて眠ってしまった。  よく見れば、閉じた目の周りは落ちくぼんでいる。睡眠時間の短い日々が続いているのは把握していたが、ここまで自分を追い込んでいたとは。 「こういうときは、電波の届かないところへ行くに限る」  佐和の寝顔を見ながら、オヤジさんにメールを打った。  土曜日にも関わらず、朝からビジネススーツ姿で出勤し、2回目の総会リハーサルをおこなった。 「今日は夏至だから、今から行けば、日没前に2ダイブできる。行こう」 「株主総会の準備は? どうするつもり?」  シャドーストライプのスリーピーススーツに身を包み、俺を睨む佐和の目はますます冴えて、白目が青みを帯びている。  俺は自分の顔の前にピースサインを示し、人差し指と中指を順番に動かして二択を迫った。 「今日ぶっ倒れるのと、株主総会当日の朝にぶっ倒れるの、どっちを選ぶ?」 「それは……今日だけど」 「ほら、こんなに高熱を出して。無理はよくない」 「熱なんか……っ」  佐和の額と腰に手をあてて後方へ押し、同時に奥から手前へ足を払って抱きかかえ、そのままふわりと床へ倒す。  傍らに片膝をつき、顔の横に手をついて、佐和の目をまっすぐ見ながら宣言した。 「ウチの有能すぎるCOOには、休養が必要だ」  そのままポルシェ・カレラの助手席に押し込んだ。相変わらずボディーカラーは下取り価格が高めのモノトーンしか選択肢がなく、今回は白を選んだ。  途中のスーパーマーケットで酒と肴、3枚パックの安い下着と靴下だけを買って、一路ダイビングショップを目指す。 「んだよ、もう!」  鳴動したスマホをチェックした瞬間に、佐和は駄々っ子みたいな声を上げた。  今度は連続してスマホが震えて、珍しく軽い舌打ちをする。 「周防、聞かないで」 「御意」  おどけて頷く俺をスルーして、佐和は苛々と骨伝導のイヤホンを耳にクリップしながら通話ボタンを押す。回線がつながると同時に佐和は言い放った。 「今月は無理って言ってるじゃん!」  エンジン音で詳細までは聞こえないが、相手の女もそれなりに苛立っているようだ。 「わかってるよ、うるさいな。ああ、めんどくさい! ……言ったよ、だってホントにめんどくさい! ……いつの話を持ち出すんだよ? 人間なんだから、知見を得れば、考え方も変わる。3日前の僕のセリフを盾に、そんなことを言われたって、今の僕はめんどくさいとしか思わないよ!」  佐和は理屈っぽい子どもで、相手がまだ話しているあいだに回線を切った。 「僕たち一緒にいるから、電源切ってもいいよねっ!」  そう言うなり電源も切り、青色のスマホを後部座席に投げた。  同時に車内に流れていた音楽も途絶え、佐和は俺の赤色のスマホを操作してNirvanaを流す。  状況が好転することなど一度もなかったと歌う、痛みに満ち溢れた曲を聴いて、佐和は叫んだ。 「あー、また今回もダメかなぁ! 僕は何をやっているんだろう!」  メガネを外し、オールバックに調えていた髪をぐしゃぐしゃと掻き壊す。  俺は窓を開けて風を取り込みながら軽く笑った。 「愚痴なら聞くし、別れるなら慰めるぞ」  佐和も窓を開け、風で額を冷やしながら苦笑した。 「とても好きだとは思うんだ。でもたぶん愛してないんだよね。求めてばっかりで、満たされないと腹が立つ。自分のワガママしか言い合えない消耗戦の繰り返しだ」 「そこまで素直になって、ワガママを言える相手なのに、上手くいかないものだな」 「ワガママを言うだけなら、僕は誰にでも言うよ。末っ子らしく、かなりワガママで甘ったれな性格をしていると思うけどな」 「そんなに手を焼くようなワガママは聞いたことがないし、持て余すほど甘えられたこともないけどな」 「そう? 周防のことは大事だからじゃない? 恋人は代替可能だけど、周防は唯一無二の存在だ。大切にしないとね」 「愛されてるな、俺は」 「そうだね。愛してるよ」  軽やかに真面目に告げられる『愛してる』の言葉に、俺と佐和はこの辺が海面なんだろうなと思っていた。これ以上には深まることも、突き抜けることもない、生涯緩やかに続く友情。互いを大切な親友と思いながら、ずっと続いていくのだ。    それでいいじゃないか。恵まれている人生だ。  ウィンカーを出してスピードを落とし、丁寧にハンドルを切った。オヤジさんが手を挙げて、挨拶をしてくれた。 「うっそ、マジで?」  佐和は呆気にとられ、それから久しぶりに手を叩いて笑い始めた。  俺たちはワイシャツにトラウザーズ姿のまま、完全防水のドライスーツを着て海に潜った。  少し傾いた陽射しが、はちみつ色になって海の中へ差し込む。  冒険はせず、水深の浅い流れの穏やかなポイントで佐和と手をつないで過ごした。  ワイシャツの袖を濡らしながら器材を洗う頃には、佐和は笑顔を取り戻していた。自然の力は偉大だ。  人懐っこくオヤジさんと話し、風呂に入り、寿司店で切り身になってもなお動くタコに騒いで、手首から先の日焼けを比べて夜道を歩いた。 「ずっと海が見える生活って憧れるね」  絶え間ない潮騒の音の中で佐和が言った。  ガードレールの向こうの暗い海に、打ち寄せる波の空気を含んだ白い部分だけが光って見えた。 「おじいさんになったら、一緒に海を見て暮らそう」 「いいね。周防と一緒なら、そういう暮らしもきっと楽しい」  遠回しなプロポーズの言葉は届かず、佐和はキラキラと笑う。  俺は心の底から佐和を好きだと思い、愛していると思った。  布団をふた組並べて敷き、俺は佐和に告げた。 「佐和、夏至の夜に見る夢には、運命の相手が出てくるらしい」  佐和の夢に潜り込んでやろうと思った。

ともだちにシェアしよう!