110 / 172
【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(44)
ポルシェ911カレラの助手席で、佐和は少し緊張気味だ。
言うべきことを箇条書きしたスマホを見て、口の中で言葉を呟き、練習している。
佐和は、講演の依頼を受けて人前で話すときは、その場に適した言葉で話せるように、時間配分と箇条書きだけをメモしておく。
セリフをすべてメモしてしまうと、ただ読み上げるだけで、人に伝わる心の底からの言葉は出てこなくなるからだ。
今日は時間配分を書くほどではないだろうが、いつも通りのやり方をとっているなら、自分の言いたいことは徹底的に自問自答を繰り返して洗い出してあり、項目には優先順位をつけてあるはずだ。
実家にいちばん近いサービスエリアで車を停めた。佐和は手洗いに行き、ミネラルウォーターを買って飲んだ。
「出前授業より、講演会より、株主総会より、緊張する。失敗できないもんね」
またひとくち水を飲み、ペットボトルの蓋を閉める。その手に触れたら冷たかった。
「この緊張が丸ごと俺と結婚したい気持ち、愛情だと思うと嬉しいけれど、失敗したって構わない。俺の家族は、佐和に対してそんなに不寛容ではないし、佐和が言葉に詰まったら、俺が話したっていい。気持ちだけしっかり持っていてくれたら、それでいい」
さっと周囲を見まわしてから、俺は佐和の肩を抱き寄せてキスをした。
実家は相変わらずで、佐和が「おじゃまします」と挨拶すれば、家族がわらわらと集まってくる。
「サワ、スーツ着てる! 似合うじゃん」
真っ先に声を掛けてきた姪は、高校生になった。おしゃれをしたい一心で、校則が少なく私服登校ができる県内トップクラスの高校に入ったのだから、その根性は見上げたものだと思う。
「多笑 ちゃん、ごきげんよう。似合っててよかった。そういえば、スーツ姿でおじゃまするのは初めてだね」
紺色のシャドーストライプのスリーピーススーツに真っ白なワイシャツと空色のネクタイを合わせ、メガネはかけずに黒目がちな一重まぶたの瞳を自由に動かし、前髪をさらさら揺らして爽やかな笑顔を見せる。
「高校は楽しめてる?」
「うん。誕生日だったから、友だちにカラオケでお祝いしてもらっちゃった。あ、香水ありがとう。使ってるよ!」
手首を佐和の鼻の前に差し出して、姪は笑った。
佐和は俺の祖父母と両親、姉と妹には折に触れて花を贈り、姪と甥には誕生日にプレゼントを贈るマメさで、今年の姪の誕生日には、リクエストに応えて甘く大人びた香りの香水を贈っていた。
続いて姪は、佐和の隣で靴を脱いでいた俺の前に立ち、意味ありげな笑いを浮かべて、つま先から頭のてっぺんまでを見る。
「ふうん」
「何だよ?」
「べっつにぃ」
「俺のスーツ姿も決まってるだろ?」
俺はチャコールグレーのシャークスキンのツーピーススーツに、白のワイシャツと淡い桜色のネクタイを身につけていた。
「まぁね」
「佐和とは比べないでくれ。佐和には適わない」
「そんなこと言ったら、サワに失礼だよ」
「あ?」
「さねおみはサワに相応しいから、結婚するんでしょ。しっかりしろ」
「お前、ますます生意気になったなぁ。ウチの会社に来るか?」
「やだ! もっとおしゃれな仕事がいい!」
そのあいだに、離れに住んでいる祖父母も含め、ぞろぞろと家族が集まって、佐和に話しかけながら居間へ連れていく。数年前に家族に加わった白猫のシュガーまでが、佐和の足にまとわりついて、抱きあげてもらっている。
「今朝は少し冷え込んだでしょう? 風邪は引いてない?」
「桜湯を出すけど、あとで生姜紅茶も出すわね」
「ナスの揚げ煮はたくさん作っちゃったから、よければ持って帰ってね」
自分が帰省するとき、基本的には佐和も一緒に連れて帰っている。10年以上続けていれば、そんなに珍しい存在じゃない。それでも毎回、あらかじめ用意していただろう茶菓子だけでなく、おかきや煎餅、漬け物、季節の果物まで、佐和の前にひと通り並べなければ、気が済まないらしい。
さらには祖父が本を、父親が釣り竿を、義兄がルアーを、甥がプラモデルを持ってきていた。
「もういいから、佐和の話を聞いてくれ!」
俺のほうが我慢できずに声を上げ、佐和はまぁまぁと微笑む。
あれだけ緊張して冷たい手をしていたのに、今は頬に赤味が差していて、俺の家族の暑苦しい愛情はちゃんと伝わっているようだった。
家族全員が落ち着いて座ったところで、佐和は座布団から降りて、膝の前に手をついた。
「お忙しい中、お時間を頂戴し、ありがとうございます。本日はお願いがあって参りました。かねてより眞臣 さんとは、親友としてお付き合いをさせていただいておりましたが、このたび親友としてだけではなく、生涯の伴侶として一生を添い遂げようと話し合い、僕たちの意志が固まりました」
佐和は緊張で締まってくる喉を開くため、畳に手をついたまま、ゆっくり呼吸した。
姪が「サワ、がんばれ!」と言うのに、「ありがとう」と応えてぎこちなく笑う。
「つきましては眞臣さんと結婚させていただきたく存じます。皆様のご承諾を賜れば幸いです。お願い申し上げます」
佐和は深く頭を下げた。ゆっくり顔を上げたが、全員が固唾を呑んで佐和を見守ったまま動かなかったので、佐和はさらに言葉を続けた。
「同性同士の婚姻については、まだ法的な整備が進んでおりませんので、互いを伴侶と定める書面を交わしての事実婚となります。ですが互いを愛し、生涯添い遂げたい気持ちは、ほかの夫婦とまったく変わりありません」
肩に力を入れたまま無言で頷く家族たち、ひとりひとりの顔をしっかり見ながら、佐和は誠実に言葉を続けた。
「お父様、お母様、おじい様、おばあ様、ご家族皆様の愛情に包まれて育った眞臣さんの、心の温かさ、誠実さ、度量の広さ、優しさ、深い愛情、すべてに惚れました。生涯をかけて大切にします。たゆまず精進を重ね、彼にふさわしい人間でいられるよう努力します。つきましては、どうぞ結婚のご承諾を賜りたく存じます。お願い致します」
もう一度佐和は深く頭を下げ、俺も気づいて一緒に頭を下げた。
「さ……さねおみを、お願いしますっ」
そう言って頭を下げたのは姪だった。両親が返事をするより先に、フライングで返事をした姪に皆は笑おうとしたが、その顔が涙に濡れているのを見て、目を見開いた。
「ウチの家族も、サワの家族も、みんな賛成だと思うけどっ。おめでとうって言うと思うけどっ。誰が反対しても、私は賛成だから! 反対する人がいたら、私も説得するから。ずっと幸せで仲よくしてください!」
タオルを顔に押しつけて、文字通り「うわーん」と泣き出した姪に、佐和は笑いかける。
「多笑ちゃんの大好きなさねおみを、くださいって言ってごめんね」
「いいのっ。さねおみのことも大好きだけど、サワのことも大好きだからっ。大好きなふたりが幸せなのがいいの……っ! うわーん!」
可愛い姪っ子に本気で泣かれたら弱い。ついこちらの涙腺も緩みそうになる。だが、情にもろくて涙腺が弱いのは家系なので、俺が泣くより先に家族全員が泣き始めた。血のつながりがない義兄まで拳でぐいぐいと涙を拭っている。
こんなに大勢の泣き顔に囲まれたら、佐和はさぞやりにくいだろうと思って隣を見たら、佐和まで泣いていて、俺だけが取り残された。
とりあえずハンカチを佐和に差し出し、全員の涙が落ち着くのを待ってから、俺は口を開いた。
「息子が親友の男と結婚するって言い出して、戸惑わせたと思うけど……」
俺の言葉に、母親はエプロンの端で涙を拭きながら笑う。
「ふたりは結婚しているんだと思っていたから、眞臣から連絡があって、どうやら私たちが勘違いしてたらしいって、大騒ぎだったのよ。そういう意味では戸惑ったわね」
その言葉に家族全員が笑いながら頷いている。
「はあ? いつ結婚したなんて言ったよ?」
「いつ結婚したとか、そういうのはわからないけど。眞臣が帰ってくるときは、いつも佐和くんも一緒に来てくれていたし、堂々と仲よくしていたから、パートナーとして連れて帰って来てるんだと思っていたわ」
「そっちが『佐和くん、また来てね』、『佐和くんも一緒に帰って来なさい』って言ったんだろうが」
「息子が自慢げにパートナーを連れて帰って来て、そのパートナーが素敵な人だったら、そう言うでしょう。男同士だから、カミングアウトっていうの? そういうのはいろいろ難しいことがあるのかしらって話してたのよ。親友って紹介して、あとは私たちに察するようにってことだと思ってたんだけど……何だか、違ったみたいで、ごめんなさいねぇ!」
母親は、顔の高さで揃えた指先を上から下へ振り下ろして笑う。佐和はもう腹を手で押さえ、うずくまって笑っていた。
「で、実際は違ったの? 本当はどうだったの?」
姉が身を乗り出し、目に見えないマイクを俺に向かって突きつける。家族全員が好奇の目で俺を見ていた。
「うるさい。想像に任せるっ! とにかく俺は佐和と家族になる! 佐和は俺の配偶者だから、よろしくお願いしますっ!」
ずっと緊張して釣り竿を握り、泣きながら釣り竿を握っていた父親が、ようやく釣り竿から手を離した。
「佐和くん、丁寧な挨拶をありがとう。ふたりの結婚に異存はありません。いいご縁が結ばれてよかった。末永くお幸せに。そして、末永くよろしくお願いします」
佐和は父の目をまっすぐに見て、しっかりと頷き、畳に手をついて深く頭を下げた。
示し合わせたわけでもないのに、全員が同時に大きく息を吸って、吐いて、笑顔になった。
「さあ、おひるにしましょう」
座卓いっぱいに料理が並べられて、にぎやかな宴が始まった。
ともだちにシェアしよう!