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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(45)
佐和は俺につきあって、ノンアルコールビールで乾杯をする。
「土曜日なんだから、明日も仕事は休みでしょう? 泊まっていけばいいのに」
母親に、佐和は爽やかに困った顔を作る。
「明日から周防が出張で、明後日から僕も出張なんです。今日中に実家にも顔を出さないと、その先のスケジュールが厳しくなっちゃうので。すみません」
「よく働くのねぇ。電車や飛行機に乗ったら、空気が乾燥して喉を痛めるわ。のど飴を持っていらっしゃい。ちょうどいいケースがあるのよ」
祖母はいろんな大きさの丸や四角のアルミケースを山ほど持ってきた。
「バザーに出すためにたくさん作っているの。どれでも好きな物をどうぞ」
ふたには、花や動物やお菓子や幾何学など、さまざまな柄の薄紙が貼られていた。
「ペーパーナプキンを専用の糊で貼ってあるのよ」
にゃあん、と鳴き声がしてシュガーと目が合ったので、俺は黒地に白猫のシルエットが描かれた四角いスライドケースを選ぶことにした。
「僕もシュガーちゃん柄を選んでいい?」
俺も含めた全員が頷いて、佐和も丸形の同じ柄を選んだ。
「馬とか、星空もあるのに、いいのか?」
「僕はもう、そんなフェーズにはいないよ」
軽やかにそう言って、猫柄のキャンディケースを大切そうに両手で包んだ。
その後も食事のあいだじゅう、佐和は文学、釣り、ゴルフ、猫、カルトナージュ、庭木の育成、アニメ、プラモデル、メイクアップ用品、近所の人の噂話等々、無駄話の集中砲火を浴び続けた。
さすがオールラウンダーの佐和は、どの話題にも爽やかな笑顔で相槌を打ち、持っている知識があれば話を合わせ、知識がなければ質問をして、話題を掘り下げていく。
だが、佐和は人酔いしやすい。俺はいつものことながら心配になるが、佐和は意外にこの家ではリラックスして、ときには子どものような表情すら見せる。可愛いしかっこいいし爽やかだし大好きだし愛おしいし、本当にどうしてくれよう。
「さねおみって、ずうううううううっとサワのこと見てるよね」
姪がやってきて、俺の隣に座り込んだ。
「まあな。どれだけ見ても見飽きない。いつ、どの角度から見ても、いい男だ」
「うっわ、のろけ! いいね、いいね。聞くよ、のろけ!」
「お前のようなガキに聞かせるのろけはない」
「えー? それってエッチなのろけってこと? 聞く、聞く!」
「エッチなことは俺と佐和だけの大切な秘密だ、ばーか」
互いにべえっと舌を出しあっていたところへ、祖母に解放された佐和が、俺たちのほうへ向き直った。
「どうしたの? またケンカ? 仲よしだね」
「サワ、のろけ話を聞かせて!」
「のろけ話? そんなの聞いて楽しい?」
「楽しい、楽しい。ね? のろけて!」
姪に両手で肘を掴んで揺すられて、佐和は困ったように笑う。
「んー。のろけ話になるのかは、わからないけど」
佐和は首を傾げながら言葉を紡いだ。
「大好きな人とずっと一緒にいられるのは嬉しいな。毎日の生活の全部がデートで、『また明日』じゃなく、『おやすみなさい』で1日が終わって、目を開けたら隣に周防がいて『おはよう』って言えるのって、嬉しい。死ぬまでずっと周防とそういう生活を続けていけるんだって思ったら、とても幸せな気持ち……ちょっと照れるね」
前髪をさらりと揺らし、顔を赤くして笑う姿に、姪と俺は同時に畳へ倒れ込んだ。
「くーっ、私も結婚したいっ!」
「佐和、最高! 毎日のろけてくれ!」
姪と俺は畳の海を泳いではしゃぐ。ふざけすぎてうっかり手の甲が姪の唇にぶつかり、擦ってしまった。
「悪い。大丈夫か」
すぐに起き上がって姪の顔を見たら、口紅が唇の輪郭からはみ出している。
「さねおみ、はしゃぎすぎ!」
姪は笑って起き上がり、メイクポーチを持ってきて座卓の上に鏡を据えて、メイク直しを始めた。
「お前、人前でメイクを直すなよ」
「いいじゃん、自分の家の中なんだから。ね、サワ?」
「僕、女性がお化粧をする姿を見るのって好き。見ていてもいい?」
隣に頬杖をつき、佐和は目を細める。
「僕は女性が自分のためにメイクを楽しんでる姿って、とても素敵だと思うんだ。肌を調えて、色をのせていくごとに、目が輝いて口角が上がってくる。顔の上で魔法の杖を使ってるみたいに見える」
「魔法の杖、か。ロマンチックだな」
俺は女のメイクを急かすことはしないが、かといって観察したこともなければ、特別何かを考えたこともない。佐和はやっぱり優しくて思慮深い目を持っていると思った。惚れ直す。
「そういえば、この口紅は『フェアリーワンド 』っていうブランドだよ」
姪は、子どもが持って遊ぶ魔法の変身ステッキのようなきらきらしたリップケースを見せた。
「あ、このブランド知ってる。プチプラコスメってやつだよね。僕の姉も中学生の頃からずっと使ってるよ。このブランドの口紅は落ちにくくて、乾燥しなくて、発色がいいんだってね。江戸時代から続く紅屋さんだから、口紅に関するノウハウがたくさんあるのかな」
「サワ、よく知ってるね」
「学生時代に、この会社のミュージアムに行ったことがあるんだ。江戸時代のメイク道具や指南書……ってわかる? メイク術を説明した本なんかが展示してあって、面白かった。日曜日定休で、僕は予定を合わせられないけれど、今度よければ行ってみて」
佐和がミュージアムの基本情報を姪のスマホに送信して、時間になった。
靴べらを使って革靴を履き、佐和は背筋を伸ばして挨拶をした。
「おじゃましました。これからも末永くお願いします」
車へ向かう佐和を追って祖母が出てきて、佐和の背中に手をあてながら何かを話し掛ける。
佐和は足を止めて振り返り、祖母とハグを交わした。祖母の白い髪に佐和の頬が触れて歪むほどしっかり抱き合ってから離れ、笑顔を交わした。
「おばあ様、ありがとう」
助手席に座った佐和は窓を明けて、見えなくなるまで丁寧に手を振った。
「お疲れ様。気を使って、疲れただろう? 実はまだ前半戦しか終わってないからな。寝ていていいぞ」
「ううん。僕はもう山場を越えたから大丈夫。今度緊張するのは周防だ」
佐和は愉快そうに笑う。
「今さら、お父さんとお母さんを相手に緊張なんてするか? ネゴって内諾は取ってあるんだし、形式的な挨拶だけだ」
「ふうん」
東京に向けてアクセルを踏む俺の隣で、佐和は含み笑いをした。
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