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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(46)

 学生時代のほとんどを、佐和の実家で過ごした。  俺はデリカシーを踏み倒して家の中へ上がり込み、笑顔で居座ってしまったが、それは帰宅した佐和が、キッチンで家政婦と一緒に野菜を切る俺の姿を見て、呆れてため息をつくくらい強引なことだった。  佐和が俺を誘って部屋で酒を飲み、そのまま客間ではなく自分のベッドに俺を寝かせてくれたのも、俺がこの家に居やすくするための、戦略のひとつだったのだと思う。  佐和の両親は比較的リベラルではあるものの、佐和家全体としては代々家業を継承する古風な家柄で、現代でも女のくせに、女だてらに、女の子なんだから、という言葉がまかり通る。  お姉ちゃんはタバコも吸えず、一人暮らしも許されず、ロック音楽で憂さを晴らした。就職活動も自由ではなく、新卒で入社したのは親戚が経営する会社だった。  今は楽を覚えて実家暮らしをしているだけだが、光島との結婚に踏み切ったのは、実家を出たい焦りもあったと思う。  佐和が男女の関係ついて、ときどき極端なほど個人主義的でリベラルな持論を展開するのも、この古風な家柄と、まったくの無関係ではないだろう。  俺が香水の匂いを撒き散らしながら、水商売で荒稼ぎしていても、この家に出入りを許されたのは、おそらく俺が男で、父の息子で身元がはっきりしていて、佐和を巻き込まず、真面目に大学に通って、血反吐を吐くほど勉強していたからだ。同時に佐和が折に触れて俺を褒めて、大切な存在だと言い続けてくれた効果も大きい。  だから、男同士で事実婚という古風の真逆を行くような選択をした俺たちは、もし反対の声が上がるならば、佐和の親戚筋だろうと覚悟している。  俺はガレージに車を停め、佐和と一緒に玄関で当たり前に「ただいま」と挨拶をして、お父さんとお母さんとお姉ちゃんからは、当たり前に「おかえりなさい」と言われ、家の中へ足を踏み入れた。  書斎から出てきたお父さんと行きあって、改めて挨拶をしようとしたとき、俺はお母さんに腕を軽く引っ張られた。 「周防くん、棚の上の和紙をとってもらいたいの。いいかしら?」 「もちろん」  お父さんと話し始めた佐和を置いて、俺はお母さんのアトリエに行った。  お母さんは和紙でアートフラワーを作るのが趣味で、近年は趣味が高じて展覧会に出品したり、個展を開催したり、教室を開いてもいる。  アトリエには、和紙を収納するための引き出しや、染料や道具を並べた棚があり、大きな作業テーブルの上には糊を乾かしているらしい、作りかけの小さな花や、様々な色に染められた花びらが並ぶ。 「一番上の角にある、あの白い箱を下ろしてくれる?」  手を伸ばし、言われたとおりの箱を下ろす。受け取ったお母さんは箱の中から、繊維が複雑に絡んで透ける和紙を1枚取り出した。 「この箱は、同じ場所に戻せばいい?」 「ええ……でも、その前に、ちょっといいかしら」  俺は素直に頷いて、作業テーブルの周りに置かれたスツールのひとつに座った。 「朔夜(さくや)と結婚するって、本気?」 「うん。何か差し障りがある?」  やはり親戚から何かを言われたかと、少し身構えた。  しかし、お母さんの心配は少し方向が違っていた。 「母親の私が言うのも何だけど、あの子は理屈屋で、少し難しいところがあるわよ?」  今さらそんな心配をされるとは思わず、俺は笑顔で答える。 「知ってるよ。10年以上、佐和と一緒にやってきているんだから。俺は、佐和のそういうところも尊敬するし、大好きだ」 「そう。それならいいんだけど」  頷いてはいるが、お母さんの表情は晴れなかった。 「お父さんとお母さんの心配事は、きちんと解消してから結婚したい。気になってることがあるなら、何でも言って」  テーブルの上に両手を組み、微笑んで伝える。  お母さんは、箱から取り出したばかりの、繊維が複雑に絡む和紙へ手を滑らせながら言った。 「周防くんは、ずっと凛々可のことを好きだったじゃない? 気持ちの整理はついているのか、ちょっと心配になったの。納得しているならいいと思うんだけど、のちのちつらいことにならない? 朔夜は凛々可とは性格が全然違うわ。性別も違うのよ?」 「あー? あー……」  まだその勘違いは解けていなかったのか。俺は思わず笑ってしまった。 「本当のことを言うけど、いい? 佐和にも言ってないことがあるから、お父さんとお母さんだけに留めてほしいんだけど」  前置きをして、俺は心の中にあるいろんな思い出が詰まっている宝箱を開けた。 「佐和には、初めて会った日に一目惚れをした。水球部の練習を見ることもできなくて凹んでいた俺に、冷たい話し方で優しい言葉をかけてくれたから、かな? 気づいたときには佐和の全部に惚れていたから、もう惚れたきっかけはわからない。とにかく初めて会った日に惚れた」  思い出すだけで胸に甘酸っぱさが広がる。お母さんの視線に、鼻の頭がむず痒くなって、指先で掻いてから、言葉を続けた。 「自分が男に惚れるなんて思ってもみなかったけど、何度自分の気持ちを確かめても、やっぱり佐和のことが好きだった。でも、俺は佐和に、親友としては世界中の誰よりも大切にしてもらえたけど、なかなか恋愛対象にはしてもらえなかった。俺も退路を断ってまで真剣に告白しようとはしなかったんだけど。下手に真面目な告白をして、親友ですらいられなくなるのは嫌だったから」  製作途中の和紙の花びらの数々を見る。いろんな感情を経験したなぁと思う。 「片思いは切ないし、苦しいし、消耗するし、嫉妬もするし、性別が男なのは変えられないし、しょっちゅう挫けそうになるんだ。もう佐和のことを好きでいるのは止めようって思うんだけど、そう決意しながら、佐和の凜々しいところが好きだな、前髪がさらさら揺れるところが好きだな、オールバックにしてもカッコイイな、今日も俺のくだらない話で笑ってくれて嬉しかったな、本を読んでいる横顔が好きだな、昼休みにカレーをひとくち食べさせてくれて美味しかったな……って佐和のことばかりを考えているんだから、諦められるわけがない」  制作途中の花たちの隣には、千代紙を貼った小箱があって、色とりどりの小さな和紙の切れ端が積もっていた。 「結局、俺の気持ちは募る一方で、どうしようもなかった。じたばたしたのは、何年目くらいまでかな。最近は一生片思いだと覚悟を決めて、今ある佐和との関係を幸せに思うことにしてた」  お母さんは作りかけの花びらを自分の手のひらにそっと載せ、俺の話を静かに聴いてくれていた。 「お姉ちゃんには、そういう話を全部聞いてもらっていたんだ。お姉ちゃんは、あんまりにも俺が佐和を好きだって訴えるから、可哀想に思ったんだと思う。『どうしても誰かと結婚しなきゃいけなくなったときは、私と結婚したら、朔と義理の兄弟になれるよ』って慰めてくれた」  鋏でハート型に切り抜かれた和紙の切れ端を見る。優しいお姉ちゃんには、今度こそ優しい誰かと出会ってもらいたい。 「もちろんお姉ちゃんと俺のあいだには、恋愛感情はまったくない。結婚するつもりもなかったけど、女と男だから、たまに俺がお姉ちゃんに懐いて、片思いをしてるって勘違いする人もいた。お母さんもそうかな? 佐和もそう思っていたらしい」  お母さんは小さく笑う。俺も少し笑った。 「勘違いされたままでいいと思ってた。どうせ佐和のことを好きだなんて、言えないんだし。正確には、俺は毎日のように佐和を好きだって言っているんだけど、オオカミ少年みたいに繰り返すから、周りの人が聞き慣れた。勝手に親友として好きなんだと解釈されて、恋愛感情だと気づいてくれた人は、たぶんほとんどいない。俺は本当に佐和のことが大好きで、『大好きだ』って言わずにはいられなかったから、誤解されて、聞き流されているくらいがちょうどいいと思って、訂正しなかった」  花びらをいとおしむように撫でながら、お母さんは頷いた。俺はその目に、母親になった人特有の愛と慈悲と追憶が混ざった色を感じながら、話し続けた。 「訂正しなかったから、佐和の気持ちが俺に向いたときに行き違いが起こって、一時期はぎこちなくなったし、お母さんには今日まで心配させることになった。心配させてごめん。俺は佐和と出会った日から今日まで、ずっとずっと佐和が好きです。これからも死ぬまで佐和を愛し続ける自信がある。本当に大好きなんだ。俺の人生は、佐和以前と佐和以後に分けられる。そのくらい佐和は俺にとって大切で、心の底から愛してる」  お母さんは、太陽の光に照らされたような笑顔になった。そして手のひらに載せていた花びらを、ほかの花びらの中へ戻した。 「たくさん話してくれてありがとう。朔夜と凛々可に幸せになってほしいのは当然だけど、周防くんにも幸せになってほしいって思っているの。周防くんも、私の息子みたいな気持ち。だから周防くんが無理な形ではなく、自然な気持ちで、朔夜との結婚という道を選んでくれたならよかったわ」 「佐和のことは、最期まで愛し抜くし、生涯かけて大切にします」 「よろしくお願いします。お父さんにも、簡単な言葉でいいから、その気持ちを直接伝えてあげて。喜ぶと思うわ」  俺は頷き、実は踏み台を使えばお母さんでも簡単に手の届く棚へ、和紙の箱を戻した。

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