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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(49)

 会社のデスクの下で寝袋にくるまっていた宇佐木をピックアップして、空港を目指した。  宇佐木は助手席で、体育座りをした膝の上にタブレットPCを広げ、まだ粘っている。 「お前、ワーカホリックすぎ。少しは働き方改革の波に乗れ」 「不本意。何で僕ばっかり文句言われなきゃいけないの? 社長だって、副社長だって、蒲田さんだって、大概だよね?」 「俺と佐和はオフィサー(経営者)だからいいんだよ。蒲田さんだってマネージャー(管理者)だろう。お前はプレーヤー(従業員)だからダメ。ちゃんとユニオン(労働組合)に入ってるだろう」 「じゃあ、ユニオン辞めるし、打刻しないでサビ残にする」  相変わらず社長を社長とも思わない生意気な宇佐木に、俺も安心して強い言葉で返す。 「てめぇ、こっちが必死で協定を守ってるのに、ふざけたことばっか抜かしてるんじゃねぇぞ」 「僕だって、たまには人を見ずに仕事だけ見ていたいんだよ。ずっと蒲田さんの下で仕事だけしていたーい!」  ウサギという苗字に相応しい、寝不足で真っ赤な目をして叫んだ。 「お前なぁ。これから先、上に上がれば上がるほど、人の心配ばっかりだぞ」 「わかってるよ。だから出世は望んでないって言ってるじゃんか。僕、部下が30人を超えると急に作業効率が落ちるんだよね。マネジメントは向いてない」  宇佐木は課長職に相当するプレイングマネージャーだ。本人は嫌がっているが、蒲田さんに仕込まれたマネジメント能力は、同職位の中では常にトップクラスを誇る。 「30人の壁だな。その次は50人、100人だ。俺はどの壁もキツかった。佐和も100人の壁はキツかったと言うはずだ。見ていただろう?」  佐和がチーム給湯室に翻弄され、デカいミスをやらかした部下と一緒に謝罪に行ってプロポーズをドタキャンしていたのが、100人の壁の頃だった。 「100人なんて、むーりー! 僕は会社の隅っこで泥臭く仕事していたいー!」 「ばーか。自分で限界を作るなよ。さっさとディレクターに昇格しろ」 「僕は蒲田さんの子飼いでいるのがいいんだ。蒲田さんが上がるなら、ついて行くけど」  蒲田さんの名前にも、俺は小さくため息をつく。 「蒲田さんも、いつまでもディレクターっていうのもなぁ。あの人の現場好きにも困ったもんだ」 「いいじゃん。僕と蒲田さんは、社長と副社長の情報収集衛星なんだ。ふたりで一緒に現場にいるっ! おやすみ!」  宇佐木はジャケットを後ろ前に自分の身体にかけ、すぐ無防備に口を開けて、深い寝息を立て始めた。  俺は時計を見て、ヘッドセットを耳に通話ボタンを押す。 『ん。おはよう、周防』  佐和の声は朝からデザートワインのようにとろりと甘く、こちらもつい飛び切りの甘い声を出してしまう。 「おはよう、佐和。起きてた?」 『うん。今、ちょうど起きたところ』 「よく眠れた?」 『ん。周防が気持ちよく疲れさせてくれたから、ぐっすり眠っちゃった』 「昨夜も遅い時間まで相手をしてくれて、ありがとう」 『こちらこそ。まだ周防の枕を抱いて、気持ちよかったなあって思ってるところ』  そんな実況をされたら、俺だって昨日の夜を思い出して勃つ。つい満たされた甘く優しい笑い方をして、佐和の耳に甘い声を流し込む。 「そろそろ支度しないと、遅刻するぞ」 『ん。おはようのキスして』  もともと仕事以外で通話する機会はないのだが、電話越しのキスの催促なんて初めてで、俺の胸は喜びにあふれる。ときめきながら大切に口の中でキスの音を立てた。  お返しに、ヘッドセットを押し込んだ耳の中に佐和のキスを受けて、今日はどんな商談もクロージングまで持っていける気がした。 「今日もよろしくお願いします」  その言葉だけは、背筋を伸ばし真面目に交わして、通話を終えたら空港駐車場の案内板が見えた。  今回の仕事は、今日から始まる展示会への出展と、2日目の午後に行われるトークセッションへの登壇だ。  展示会は文化祭のような楽しさがある。  開会までの限られた時間の中での設営は慌ただしいが、メンバーは緊張しつつも、いきいきとした表情で会場内を動き回っていた。 「社長、邪魔!」  そう言われて端のほうに追いやられたかと思えば、 「社長、暇ならカタログに訂正表を投げ込んで!」  と指示されて、ブースの隅っこにしゃがみ込み、カタログの表紙を開いては訂正表を挟んで隣のスペースに積み上げていく。 「終わったら、このカタログスタンドに入れて、残りはもとの包装紙に包んでください」  素直にアクリル製のスタンドにカタログを入れ、クラフト紙に包み直して養生テープで留めていたら、声を掛けられた。 「よう、メロス」  俺のことをそんなふうに呼ぶのは、太宰さんしかいない。すぐに立ちあがって一礼した。 「おはようございます」  太宰さんの背後には、太宰さんの会社の展示ブースがあり、互いのブースが斜向かいの位置関係なことを知る。 「セリヌンティウスはどこへ行った?」 「今日は東京です。明日の昼頃に合流予定です」  俺の返事に、太宰さんの瞳が揺れた。 「佐和が何か?」 「今朝、品川駅の高輪口で、青いスーツケースを持って歩く姿を見かけた気がしたが、人違いか。こっちに来ているのかと思った」  スマホで検索すると、佐和の位置を示す星印は会社にあり、すぐに俺の居場所も検索された。 「佐和は会社にいます」  検索結果を見せながら返事をする俺を見て、太宰さんは声を裏返し、俺をからかい半分、大げさに呆れて見せる。 「相変わらずだなぁ! お前たち、四六時中互いを見張って、息苦しくないのか?」 「もともと、このやり方ですから。手っ取り早くて便利です」 「お前たちは友人同士だから、やましいことも、隠すこともないんだろうけどな」 「ええ、そうですね」  俺と佐和が結婚することは、まだ互いの家族にしか話していない。太宰さんにはスタートアップのときから世話になっているから、近いうちに佐和とふたりで正式に挨拶をしなくてはと話し合っているところだった。 「それにしてもSSスラストらしい、生意気で勢いのあるいいデザインだな。担当者のお手柄だ」  通路の反対側に立ち、準備が進むブース全体を見渡して褒めてくれる。その太宰さんの隣に並んで立って、一緒に作業が進むブースを見ながら、声だけを太宰さんに向けた。 「来週か再来週のご都合はいかがですか。食事に招待させてください。個人的なことですが、折り入ってご報告したいことがあります」 「めでたい話か?」 「はい、年貢を納めます」 「お前がそんな覚悟を決めようと思う相手なんて、俺はセリヌンティウスくらいしか思いつかないけどな」  冗談のつもりで発せられた言葉に、俺は前を向いたまま頷く。 「そのセリヌンティウスです」  太宰さんは隣に立つ俺の横顔を見た。俺も太宰さんの顔を見て、ニッコリ笑って頷く。 「本気か?」 「はい。双方の両親には挨拶をして、許しをもらいました。佐和の希望で派手なことは何もしませんが、太宰さんには、きちんとご挨拶をさせていただきたいです」  俺が本気なのかどうか、太宰さんは磨かれた目でしばらく見定めてから、表情を和らげた。 「お前は、ずっと、ずっと、セリヌンティウスのことが大好きだったもんなぁ」 「そんなに色に出ていましたか?」 「親友だと聞いていたから、そう思っていたが、言われてみれば、思い当たる節しかない。ずっとつきあっていたのか」 「いえ……そのへんの話は、佐和が一緒にいるときに。勝手にしゃべって佐和に嫌われたくありません」 「パワーバランスはまったく変化しないんだな」 「もちろんです」  堂々と頷いていたとき、遠慮がちに身をかがめ、目の前の通路を小走りに横切っていく女性の姿があった。見送ったときにはチャコールグレーのパンツスーツを身につけた背の高い後ろ姿しか見えなかったが、通り過ぎる瞬間の横顔は、古都ではなかったか。  俺は古都の職業すら知らず、この展示会に関係ある仕事をしているのかどうかはわからない。直接顔を見たのは学生時代だ。人違いの可能性もある。こういうときの勘って当たるんだよなと嫌なことを思いながら、もう人に紛れてまったくわからなくなった通路だけを見た。    展示会は初日から大きな手応えがあり、担当者たちは嬉しそうで、夕食の席も盛り上がった。次の仕事へ向けたアイディアも活発に話されて、また新たな上昇気流が生まれそうな気配だ。 「また明日!」  さらに2次会へ行くというメンバーたちと、笑顔でハイタッチをして解散した。  ホテルの部屋へ帰り着く。  シャワーを浴びて、顔面から大きなダブルベッドに倒れ込み、こんなとき枕を抱いて聞きたいのは佐和の声だ。  通話ボタンを押したが、どれだけ待っても反応はなかった。 「もう寝たのか」  昨日は疲れさせた。佐和は俺の愛撫を受けて何度も遂げた。最後は対面座位で、佐和は俺の首にしがみつき、「周防、大好き。愛してる」と泣きながら、俺の先端に最奥をくっつけてきて、一緒に強い快感を味わった。  甘い気持ちで検索ボタンを押す。眠る前の検索は、居場所の確認というより、ただ恋する人を思って星を見上げるような気持ちだ。 「電波が届かない?」  エラーメッセージが返ってきて、不思議に思う。  会社も自宅も、電波状況はこれ以上ないくらい良好で、逃げ場がないくらいだ。  どこにいるのか、何をしているのか。  疑問と同時に、昼間の太宰さんの言葉を思い出す。 「スーツケースを持って、品川駅にいた?」  しかし、そのあと会社にいたのは確認している。  今日、佐和がスーツケースを持って移動する理由は思いつかない。明日の朝一に東京でアポがあるから、佐和は明日の午後に現地へやって来るのだ。  疑問が湧くと、不安が隙を突いてくる。不意に、かつて交通手段を駆使して遠くまで駆けつけ、時間を惜しむような恋愛していた佐和の姿を思い出す。  さらに展示会の会場で、俺の前を横切った女性の姿が記憶の表層へ浮かび上がる。 「古都……?」  すうっと自分の血が冷えて、心臓に流れ込むのを感じた。  自分に自信がないとき、予感は自然と悪い方向へ向かうし、ありえない予感ほど当たる気がする。  俺はGPS検索ボタンを連打した。何度タップしてもエラーメッセージしか返ってこない。  返事をくれ、佐和!

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