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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(53)

 トークセッションは大盛況のうちに幕を閉じた。 「楽しく仕事しちゃったね」  ステージを降りても佐和はまだ笑顔をぴかぴか光らせている。 「愛の告白にウィンクまでされて、心臓が止まるかと思った」  胸を押さえる俺を見て、佐和はまたぴかぴか笑う。こんな笑顔を見られるなんて、マジで結婚はいい。何事も食わず嫌いせず、とりあえずやってみるものだ。  背筋を伸ばして颯爽と歩く佐和の隣を、同じテンポで歩きながら、素早く通路の両脇にあるブースへ目を走らせる。 「こういう雑多な場所だと、おしゃれでスタイリッシュなデザインは、引っかからないね」 「ああ。少し泥臭いほうが、目に留まりやすいな。あの隣り合っているふたつのブースなんか、特に顕著だ」  俺が指差した前方のブースを一緒に見ていたとき、通路の正面から、黒のパンツスーツを着た女性が歩いてきた。古都だ。  俺は思わず佐和の肩を小突いたが、佐和は俺の顔を見てニコニコしながら、展示の話を続ける。 「いろいろ見ても、うちの会社の展示ブースは成功してるね」  佐和に話し掛けられているあいだに、古都と目があって口許に笑みを浮かべた会釈をされ、俺もぎこちなく会釈を返したのに、佐和は俺の横顔を見たまま、すれ違った。 「周防って、やっぱりカッコイイ。展示ブースには周防を立たせておくのが、一番集客力があるかも」  俺の顔ばかり見て笑っていて、古都に挨拶しなくていいのかと俺のほうが戸惑う。 「なぁ、今の古都ちゃんだよな?」 「そう?」  佐和はわざとらしく首を傾げ、それから俺を見てぴかぴか笑った。 「周防の顔に見とれてたから、全然気づかなかった」  なるほど、偶然元カノとすれ違うとき、佐和はこういう気遣いをしてくれるのか。佐和の彼女になると、こんなに大切にしてもらえるんだな。俺は佐和の対応にちょっと感動した。佐和の彼女になった気分だ。俺だって佐和に大切にされているとは思うが、そんなにジェントルに扱われたことがないから、佐和くん素敵! と、乙女のようにときめいてしまう。  俺は佐和の背中に手をあて、耳許に口を寄せた。 「愛してる。ネクタイで縛って、アイマスクをして、朝までずっとセックスしたいくらい」  佐和は手を叩いて笑う。 「そういうの、したいの?」 「したい」 「いいよ、僕も興味ある。あとでやってみよう」  佐和の返事に、俺は思わずジャケットを脱ぎ、さりげなく身体の前で抱えた。  蒲田さんと宇佐木に結婚の報告をしよう。そう話し合って、ふたりのスケジュールを押さえていた。4人だけで飲むなんて、久し振りだ。  宇佐木は展示ブースのテーマカラーと同じ色で作った社名入りのポロシャツを着て、壁に同化するように物陰にしゃがみ込み、膝の上の置いたタブレットPCをじっとり睨み続けていた。  どこでも好きな店を選んで予約しておけと言ったら、宇佐木は取引先のインド人に教えてもらったという、インド料理店をセッティングした。この土地に来たなら、この店へ行けと言われたという。  直接店で待ち合わせたのだが、宇佐木だけが来ない。スマホを確認して、蒲田さんが苦笑する。 「トラブったらしい。『先に飲んでて。僕のためにタンドリーチキンは2本残しておいて』だそうだ。今回、あいつはリーダーでもキーフィギュアでもないのに、どうしてこうトラブルを招くのか」 「宇佐木くん本人は、まったくトラブルメーカーじゃないのにね。行動力のある人に好かれるから、おつきあいさせられちゃうんだよね」  佐和は首を傾げて笑う。その笑顔には、会社を立ち上げた頃の無邪気さがあって、抱き締めてキスしたいくらい可愛い。  とりあえずお先にと乾杯して、すぐに蒲田さんが口を開いた。 「宇佐木が来る前に、言っておきたいことがある。子どもを授かった」  思いがけない言葉に、俺たちは目を丸くし、続けて蒲田さんとハイタッチをした。 「おめでとうございます!」 「よかった。待った甲斐があったな!」  俺も佐和も、蒲田夫妻が不妊治療に取り組んでいることは知っていて、その努力と希望が叶ったらいいと思っていた。 「諦めて、治療を止めた矢先だった。自然にリラックスして過ごすようになったのが、俺たちにとってはよかったのかも知れない」  蒲田さんは小さく笑った。 「治療って大変なんだってね。心身の負担もあるし、時間も仕事も制約されるんでしょう? 特に女性は、フルタイムで働きながら治療するのは大変だって聞いたよ」  博識な佐和がねぎらうと、蒲田さんは頷いた。 「かみさんは、フルタイムで働くのを断念したときが、いちばん悔しそうだったな。医者に決められた日に仕事を中断して帰宅して、自分たちの気持ちと関係なく行為をしなきゃいけないのも、回数を重ねるうちにきつくなってくる。俺たちは言いたいことを我慢しないからケンカも激しくて。治療を止めるか、離婚するかというところまで追い込まれた」 「そうだったんだね。蒲田さんの優しさで乗り越えたんだね」  佐和は頬杖をつき、優しい表情で蒲田さんの気持ちに寄り添う。 「俺は優しくなんかない。かみさんのほうが大人だっただけだ」  苦笑してかぶりを振って、佐和は笑顔で失礼と呟き席を立った。俺は蒲田さんのグラスに金色のビールを注ぐ。 「宇佐木には、もう話した?」 「まだ。宇佐木も含め、会社への報告は安定期に入ってからにしたい」 「わかった。宇佐木は蒲田さんに懐いてるから、蒲田さんの出勤日が少なくなったら寂しがるだろうな」 「どうだか。俺が育児支援制度を使うあいだに、宇佐木に俺のかわりをやらせて育てて、ディレクターにしたい」 「その考えには賛成だ。宇佐木はマネージャーに向いてる」 「本人はそう思ってないけどな。あいつはマネージャー向き」  だよなぁ、そうだよなぁと、酒を酌み交わしていたところへ佐和が戻ってきて、そっと蒲田さんの隣に立って紙袋を差し出す。 「これ、周防と僕から。男はプレゼントのセンスが悪いから、奥様のお気に召すかわからないけど。よければ寒いときに1枚重ねて」  俺からはプレゼントの中身は見えなかったが、スマホに佐和から報告の写真が送られていた。インドの民族衣装サリーをリメイクした一点物のストールで、華やかなエメラルドグリーンとマゼンタピンクのシルクの布を重ね、刺し子刺繍で縫い合わせたストールだった。レストランの隣にインド雑貨の店が併設されていて、そこで買い求めたらしい。  ありがとう、どういたしましてと話しているとき、ドアベルが鳴って宇佐木の姿が見えた。 「宇佐木には、安定期に入ってから話すそうだ」  俺は佐和に耳打ちし、宇佐木は蒲田さんの隣に座った。 「僕、本当にベンダー運がよくないんだと思う! 厄年でも天中殺でもないのに!」  蒲田さんに注いでもらったビールをごくごく飲んで、タイミングよく運ばれてきたタンドリーチキンにかじりつく。  佐和は手を伸ばして宇佐木の頭を撫でてやり、名刺大のカードを差し出す。 「これ、インドの神様だって。厄除けにどうぞ」  象の鼻を持つ女神が描かれたカード型のお守りだった。背景は目が痛くなるような青とピンクのホログラムの後光が差している。宇佐木は受け取って、そのけばけばしさに思わず笑い、ネームホルダーの中に納めた。  佐和はこういうさりげないプレゼントが上手いと思う。もともと上手かったのではなく、先輩たちに手本を見せてもらい、失敗もしながら、少しずつ上手くなった。 「4人で飲むの、久し振りだね」  宇佐木のセリフで俺は用件を思い出した。 「蒲田さんと宇佐木には、話しておこうと思って。俺、佐和と結婚する」  宇佐木は唇からグラスを離して小さく口を開け、蒲田さんはにやりと笑った。 「思い切ったな。祝福する」  乾杯とグラスを差し出されて、飲みかけのグラスをぶつけあい、佐和は頬を赤くして微笑んだ。 「ありがとう。指輪をつけるくらいで、派手なことは何もしないけど」  宇佐木もおめでとうと言い、俺の顔を見る。 「なんだ。俺が佐和のものになるのが寂しいか?」 「そんなわけないだろ。最初から、社長は副社長のものだと思ってたよ。いつだって副社長のことが大好きじゃん。よかったね」 「おかげさまで」 「ここはお祝いとして、冷やかしたほうがいい?」  宇佐木が蒲田さんに指示を仰ぎ、蒲田さんが頷く。 「どんどん冷やかしてやれ。ファーストキスの場所も、何回目のデートでエッチしたかも訊いてもいいぞ」  ファーストキスの場所はともかく、何回目のデートでエッチしたかを訊かれると、答えはマイナスになるなぁ、エッチが先だったもんなぁと当時を思い出して、今なら甘酸っぱい気持ちになれる。  思い出に浸っているあいだに、佐和が攻撃をくらって笑っていた。 「海が見える景色のいいところ。何回目……っていうのは、カウント不可能だな」 「今日は朝から今までに、何回キスした?」 「えー、したかな? ねぇ、周防。僕たち、今日キスしたっけ?」  頬杖をついて俺の顔をのぞき込んでくる。 「めちゃくちゃしただろう。寝ぼけてたのか」 「んー。したかも?」 「記憶が曖昧なら、今、ここでしてくれてもいいよ」  宇佐木の静かな声に、蒲田さんが手を叩く。さすがに満席のレストランでそれはできないだろうと思っていたとき、店の照明が暗くなり、入れ違いに店の中央にある舞台が明るくなった。  打楽器や弦楽器を構えて座る人がいて、朗々とした詠唱に合わせて民族衣装を着た男性と女性が踊る。  男性は膝まである上衣とズボンを穿き、女性は肩に布をかけ、スキニーパンツに重ねて軽い円形のスカートを穿いていて、くるくる回るとスカートが水平にまで広がる。男女どちらの足にもシャラシャラと華やかで清涼な音を立てる鈴のアンクレットがつけられていた。  店は一体感に包まれて盛り上がり、佐和は相変わらず両手を上げて盛り上がるのは苦手そうだったが、それでもたくさん拍手をしていた。

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