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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(56)

 翌日、俺は取引先企業やサプライヤー回りをするため、1泊2日で出張の予定が入っていた。  1回目のアラームで目覚めた佐和は、俺の腋窩に鼻先を押し込み、手も足もしっかり絡めて抱きついてくる。 「んー、離れたくない。周防、抱っこして」  佐和はそう言いながら、俺の肩に額をすりすりと擦りつけている。俺はめちゃくちゃ嬉しく思いながら、佐和を抱き締め、黒髪に頬ずりをし、キスをした。  髪にキスを繰り返していたら、佐和が顔を上げて唇を突き出してくる。 「ん」  キスのおねだりも嬉しい。軽く唇を突き出しておねだりをする顔も嬉しい。嬉しすぎて蕩けて液体になってシーツに染み込んでしまいそうだ。もちろん喜んで応えて、佐和の唇の上で軽い音を立てる。 「あまえんぼだな、佐和は」  俺だって佐和のことは言えないが、ちょっと言ってみたかった。 「今さらそれを言うの? 僕、いつも甘えてるじゃん」  さらにぎゅっと抱きつかれて、ああ、なんて可愛いんだ、佐和朔夜! 朝から幸せなこと、この上ない。  2回目のアラームが鳴るまで、唇が痺れるほどたくさんのキスをして過ごした。  一緒に身仕度を調えて、クールな佐和と出社して、俺は一旦、自分の執務室に入る。今日1日の仕事をざっと見渡して、出張の間に動く仕事の指示を出してから、ノートとタブレットPCを手に佐和の執務室へ行く。  業務時間外は、ノックせずにドアを開ける。それはルーズなことだと思うが、俺と佐和のあいだにはノックなど必要ない、俺たちはそのくらい親しいんだと言いたい気持ちでルーズにしている。佐和と両思いになる日なんて永遠に来ない、そう思っていた俺の、小賢しい作戦のひとつだ。 「擦り合わせを始めよう。お願いします」 「お願いします」  俺たちは向かい合って座り、さっそく新聞を回し読みする。どの新聞から読むのかはランダムだが、今日は最初に読みたい新聞が重なった。  佐和がアンダーリムのメガネの向こうから、クールな一重まぶたの目で俺を見る。 「周防殿、いざ尋常に勝負」 「望むところだ、佐和殿」 「最初はグー!」 「じゃんけんぽんっ! ……はい、お先に!」  俺は大きく開いた手を頭上に掲げ、佐和は握りしめた拳を胸にうずくまる。 「僕、どうしていつもグーを出しちゃうんだろう」  佐和はがっかりした声を出して、力なく笑う。 「仲直り、する?」 「ん」  テーブル越しに軽く唇を触れ合わせて、それぞれ深呼吸をして気持ちを入れ替え、背筋を伸ばす。次々に新聞を読んで話し合い、互いの健康チェックをして、スケジュールを確認した。 「明日は夕方に東京でアポがあるから、午後には一旦社に戻ってくる。戻りきれなければ、直行。こっちから連絡するつもりだけど、必要があれば探してくれ」 「わかった。ポセイドン・プロジェクトの件は、概要がまとまり次第、周防に送っちゃっていい?」 「ああ。投げておいてくれれば、手が空いたときに優先的に確認する」  俺はタブレット端末とノートを抱え、佐和に向かって右手を差し出す。 「今日も1日、よろしくお願いします」  佐和も俺の手を握り返す。 「こちらこそ、お願いします。よい1日を」  そのまま握手した手を軽く引っ張られ、バランスを崩しそうになって1歩前に踏み出したとき、頬に佐和の唇が触れた。 「え?」  佐和はもう手を離して、うつむいて新聞をまとめ、自分のノートやタブレット端末を片付けている。耳が赤くなっていて、俺はテーブルを回り込んで佐和を抱き締めた。 「何してるの、周防。もうすぐ業務開始だよ」  頬に触れる佐和の耳が熱い。 「あと1分ある。愛してるって言って、佐和」 「愛してる。周防も言って」  蜂蜜のような、喉が痛くなるほどの甘い声で言われて、衝動的に強く抱き締めた。 「愛してる。一生離さない」  見つめ合い、衝突するようなキスをした。スマホから流れる業務開始のアラームを1秒だけ過ぎて、身体を離した。 「土産は何がいい?」 「たった1泊の出張で、そんなのいらない。それより……何でもない」  言いかけて佐和は言葉を飲み込み、メガネを顔に押しつけた。 「それより、周防に早く帰って来てほしい?」  佐和は自分のデスクに向かって大股に歩き、資料をかき集めて、頑なに俺の顔を見なかった。 「明日の夜、ほしいだけお土産を食べさせてあげるから、今夜はいい子にしてて」  派手にウィンクをして、口の中でキスの音を立てると、佐和は顔を真っ赤にしてタブレット端末と資料を手に、俺の横をすり抜けて部屋を出て行こうとした。 「ごめん、ごめん。明日まで会えないから、佐和の写真を撮らせて」  腕を掴んで引きとめ、スマホのレンズを向ける。佐和はまだ頬に赤味を残したまま、レンズを見てくれた。涙袋がふっくらしていて、思わず画面にキスをした。 「いってきます」  取引先企業やサプライヤーを回る、それ自体はよくある出張で、珍しいことは何もないのだが、今回は初日の午後にとある大学のゼミに招かれて、特別講義をすることになっていた。  そのゼミの教授というのが、俺と佐和と蒲田さんが大学時代にゼミで卒論指導を受けた教授だ。俺は蒲田さんとともに嫌われていた訳だが、今回はどうしても佐和のスケジュールが合わなかったので仕方ない。  教授が俺でいいから来いと言うので、現任の大学へ行った。  大学の正門前までゼミ生が迎えに来てくれて、研究室へ案内してくれる。  東京都心と比べて敷地に余裕があり、低層の建物だけでキャンパスが構成されていて、空が大きく、風通しがよくて気持ちいい。運動部の活動場所もたくさんあって、練習する学生の姿も伸びやかに見える。 「いいキャンパスだ。学生生活を存分に楽しめそうだな。何か部活はやってる?」  逆三角形の引き締まった体躯を持つゼミ生に話し掛けると、笑顔で頷いた。 「はい。水球をやってます」 「水球? ポジションは?」 「フローターです」 「そうか。俺も高校まで水球をやっていたんだ。フローターだった。練習は楽しい?」 「楽しいっす」 「目標は?」 「2部リーグ優勝っす!」 「素晴らしい! きっと優勝できる」 「はい!」  緊張気味だったゼミ生の表情が柔らかくなった頃、研究棟へたどり着き、ゼミ生がドアを開けた。 「失礼します、周防先生をご案内しました」  正面のデスクから教授が立ち上がり、懐かしい笑顔で俺を出迎えてくれる。 「やあ、久しぶり。卒業以来だね。遠いところを、わざわざありがとう」 「お久しぶりです。こちらこそ、お招きいただきまして、ありがとうございます」  笑顔で握手を交わし、壁際の椅子に座っている人影に気づいた。俺は自分の動揺を顔に出さないようにするだけで精一杯だった。 「今日は、光島先生にもお越しいただいたんだ。先生は今、市内の会計事務所にいらっしゃるんだよ。先日、商工会議所の会合で偶然再会してね、今日は一緒に周防君の成長ぶりを拝見しようと、お誘いしたんだ」  他意のない教授の笑顔と、背後に控えているゼミ生の存在に逆らえず、俺は光島へ右手を差し出した。 「ご無沙汰しております」 「ごきげんよう。今日の講義を楽しみにしています」  光島は笑顔で俺の手を握り返した。

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