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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(57)

「株式会社SSスラストのCEO、周防眞臣といいます。よろしくお願いします。お昼ご飯は食べましたか? 眠くなりそうだったら、飲み物を飲んだり、飴やガムを食べていただいて結構です。こちらも途中で適宜、休憩やストレッチなどを入れていきます」  用意されたのは定員20名ほどの小教室で、窓の向こうには美しい山並みが見える。俺は講義用のノートを手許に広げ、ホワイトボードを背に立った。  12人いるゼミ生には、あらかじめ4人ずつ3つのグループに分かれて座ってもらっていて、それぞれのテーブルに2掴みずつ飴玉を置いた。 「ジャンケンをして、勝った人から順番に飴玉を、ひとり1個か2個か3個取ってください。なくなるまで繰り返して、最後に1個残した人の勝ちです」  口頭で説明をして、一番手前に座る学生と一緒に手本を見せ、ホワイトボードにルールを板書しながら、学生たちが理解しているかどうか様子を見る。  学生たちはきちんと理解し、ジャンケンをして、アイスブレイクゲームをはじめた。俺は学生のあいだを歩いて、ひとりひとりの様子を観察し、同時に教授と光島にも飴を配り、最後の1個は自分の口の中へ入れた。  光島を意識しないようにと思っている時点で意識している。意識の対象を学生たちに向けて、講義に集中した。 「今の飴玉ゲームで最後の1個を残した人、手を挙げて。おめでとうございます。拍手! では、その人は『今度の誕生日に食べたい料理』を、誰にも見えないように書いてください。ほかの3人は、予想した答えを書いてください。3分間を目安にしましょう」  いきなり書けと言われても、思いつかないものだ。俺はテーブルのあいだを歩きながら、独り言のようにヒントを言う。 「やっぱりケーキかな? あるいは自分の好物? 焼肉、寿司、鶏の唐揚げ、カレー、かき氷、タピオカドリンク。タピオカドリンクって、派生しすぎてない? このあいだ、宇治抹茶青汁豆乳ラテ・チーズケーキ&プリントッピングというのがあって、面白いなと思って飲んでみたけど……さて、書けましたか? では、一斉に出してみましょう。せーの!」  俺は正解と、残り3人の予想を、本人の話を聞きながらホワイトボードに書き写した。 「正解は『鶏の唐揚げ』。お、いいな。美味しいよな。あなたはどうして鶏の唐揚げを選びましたか?」 「ウチでは誕生日には、母が必ず鶏の唐揚げを作ってくれるんです。小さなひと口サイズで、年齢の数だけ食べていい決まりです」  俺は理由も板書しながら、相づちを打って話を聞く。 「面白いな、歳の数だけ唐揚げを食べる! それは節分の豆のように数え年? ああ、満年齢で。ところで、あなたのおうちでは、誕生日以外でも鶏の唐揚げは食べる?」 「食べます。でも、買ってきたり、作っても普通サイズです」 「なるほど、小さなひと口サイズは、誕生日だけの特別料理。誕生日がより特別で楽しみなものになる。来年はもうひとつ多く食べられるという次の楽しみも持てる。ご家族のどなたが発案されたの? いいアイディアだ。俺が絶賛していたとお伝えください」  答えてくれた学生に笑いかけ、同じグループの学生が書いた予想を見る。 「さて、正解は鶏の唐揚げだったけれど、予想は当たったかな? 『いちごのショートケーキ』、誕生日らしくていい。『手巻き寿司』、それも楽しそうだ。『バケツいっぱいのタピオカドリンク』? タピオカドリンクが好きな人には、夢のようなチョイスだ。残念ながらはずれてしまったけれど、皆さん誕生日を意識した答えを選んでいていいと思う」  各グループの正解と予想を聞き取って、改めてゼミ生たちと一緒にホワイトボードを見る。 「しっかし、見事に誰も当たってないなぁ!」  俺は明るく笑った。 「俺がいきなり問題を出して、3分間で書けと言ったんだから、当たる確率は低くて当然だ。悲しむ必要はない。別に悲しんでなかった? ゼミ仲間の食べたい物を当ててあげられなくて、とっても悲しんでるよな?」  俺は笑顔でゼミ生たちに向き直る。 「では、今度は相手が欲しいものをしっかり当てにいこう。そう思ったら、何をする? どんどん言ってもらっていいよ。どうぞ」  手のひらを上に向けて促す。 「本人に訊く」  背もたれに寄り掛かり、浅く椅子に腰掛けていた男子学生が、愉快そうに口火を切る。 「本人の友だちに訊く」 「普段の行動を観察する」 「会話をして探る」 「SNSのアカウントを見に行って、呟きを遡る」 「一緒に学食やコンビニに行く」 「ネットで大学生の好きな食べ物、誕生日に食べたいものを検索する」  次々に声が上がって、いつの間にか光島が板書を手伝ってくれていた。  ありがたいことだし、断る理由も見つけられず、そのまま受け入れるしかない。 「いい答えがたくさん出ました。こうやってターゲットを調査し、ニーズを把握するのが、マーケティングの入口です。マーケティングの定義については、皆さんはもうご存知かもしれないけれど、おさらいとして書きます」  俺は一般社団法人全国マーケティング協会が1991年に示した定義を板書し、SSスラストの実例に落とし込んで話を展開していく。  光島はゼミ室の隅に控え、陽だまりで丸くなる猫のようなあたたかな笑みを浮かべている。かつて俺たちのプレゼンを応援してくれていたときと、まったく同じ笑顔だ。  あれだけのことがあって、なお俺に接触し、以前と変わらない笑顔でいる。その神経を疑うが、あまりにも堂々と自然振る舞う姿に、神経を疑っている俺の常識がおかしいのかと混乱する。  自分の手許のノートを繰りながら、頭の中で舞い上がる粉塵を落ち着ける。 「さて、この時点で、作り手や売り手の『思い込み』では、顧客とのコミュニケーションも、商品開発も成り立たないということが、わかってもらえると思います」  自分の口から発せられる講義を聞きながら、思い込んでいるのは、俺なのか、光島なのか、心臓の底のコールタールが揺れる。 「大切なのは、顧客の立場に立った視点です」  光島の笑顔に見守られて話すうちに、疑問は気泡のように膨らみ、はじける。  俺は佐和の立場に立って考えているか?  佐和は自分の意思で俺を欲しいと思っているか?  俺のマーケティングが上手く行きすぎて、ないはずの購買意欲をかき立てているのではないか。俺は詐欺のような売りつけ方をしていないか。  ゆっくり鼻から息を吸い、ホワイトボードを見ながら前半のサマリーを話して時計を見た。 「お疲れ様です、休憩をしましょう。10分後に再開します」  なるべく光島に近づかないよう、学生のあいだに入って雑談をする。  ひとりの女子学生が、リップグロスを取り出して、唇に塗りつけた。  唇に果汁を染み込ませるように溶けて馴染む。その魔法のステッキのようなデザインに見覚えがあり、俺は記憶を辿る。 「それ、『フェアリーワンド』だっけ。俺の姪っ子も使ってる。今、流行ってるの? コマーシャルも力を入れているみたいだけど」 「昔からあるブランドで、去年リニューアルしたんですけど、超いいですよ。可愛いし、プチプラだけど、安見えしないし、ドラッグストアで買えるから便利。余計な成分が入ってなくて、安心して使えます。動画サイトのメイクアップチャンネルでオススメされて、一気に火がついた感じ。概要欄からリンクをクリックして飛んでも、サーバダウンして、製造も追いつかなくて、しばらく買えなかったです」 「そんなにいい商品なのか。特に口紅の評判がいいと聞いたけど、そうなの?」 「口紅は全色揃えたいくらい! ひとつひとつの色にロマンチックな名前と短い文章がついているんです。これは『朔夜』っていう色で、『月のない夜に見えるたくさんの星』。星くずみたいにとっても細かい金色のラメパウダーが入ってるんです」 「へえ……」  青みがかった深い紅色に金の星くずが光る。朔夜という、俺にとっては愛しい名前をオウム返しに唇にのせてみたかったが、その名が光島の耳に入るのは嫌だと思って口をつぐんだ。 「きれいな色だ。教えてくれてありがとう、勉強になった」  佐和とお姉ちゃんの名前だけは絶対に口にするまい、近況も話すまい、存在も匂わせまいと、あらためて固く心に決めて、後半の講義を始めた。

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