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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(59)
もう2度と関わらないでくれ。
そのひとことを言うチャンスが掴めないまま、お開きになって店を出た。
学生たちとはそこで別れたが、光島も俺も、教授に誘われて2軒目のスナックへ行く。
カウンター席しかない狭い店で、教授を真ん中に3人並んで座ったら、光島の顔を見ることすらままならない。
さてどうするかと思案していた姿が、つまらなそうな態度に見えたのか、先日還暦を迎えたという店のママに、いきなり頬を両手で挟まれた。
「あらやだ、すっごいイケメン! どちらの国からいらした王子様かしら。ドキドキしちゃうわ」
長年、努力して店を切り盛りしてきた証のハスキーボイスで褒められる。俺は水商売でしたたかに頑張っている人に弱いから、誘われるままカラオケでデュエットをした。
ママの希望で、銀恋 を歌う。俺が生まれたとき、石原裕次郎はすでに伝説の人になっていたが、彼が歌う昭和のムード歌謡が好きで、いくつかカラオケのレパートリーにしている。
「お兄さん、歌も上手いわぁ!」
ほっぺたにぶちゅっと音を立てたキスをされ、真っ赤な口紅の勲章をいただいた。
教授は新しく入れたボトルのラベルに油性ペンで名前を書きながら、声を上げて笑う。光島もロックグラスに入れたウーロン茶を飲みながら、屈託なく笑っていた。
「周防くんは、銀恋まで歌えるんですか。古い歌をよく知っていますね」
「銀恋はバイト時代に覚えました。そういえば最近、動画配信サービスで『西部警察』を観ました。勧善懲悪なストーリーと、ド派手なアクションが痛快ですね」
佐和が石原慎太郎の短編小説を読み、映画化された作品を観た。その映画に石原裕次郎が主演していた流れで、石原プロの『西部警察』シリーズを観たら、そのダイナミックなカーアクションと、エンタメに徹した豪快な演出に俺がはまった。
暴力沙汰のエンタメムービーをあまり好まない佐和は、俺の隣でごろごろしていたが、それでも『団長』くらいは覚えたらしい。たまに「団長、大変です! 冷凍庫にコーヒー豆がありません!」などと言う。さらにはブランデーグラスを手のひらで包むように持ち、くるくると揺らしながら、カーテンをちょっと開けて外を見て、「僕、かっこいい!」と言っていることもあるから、案外影響を受けているのかも知れない。
「あのドラマは流行ったなぁ」
教授が懐かしそうに笑い、光島も同意して頷く。
「ガルウィングに改造したフェアレディZから団長が降りてくる姿が、子ども心にカッコよかったですねぇ」
「え。光島さん、本放送を知ってるの? そんな世代だっけ?」
うっかり親しげなタメ口をきいてしまったが、光島はいつも通りの丁寧で穏やかな態度だった。
「全部ではありませんが。再放送も何度も流れましたし、私の世代でしたら、懐かしいと思うはずです」
和やかにしゃべっている場合じゃないのに、教授の顔を立てようとすると、身動きが取れない。
そのまま2時間、ママと店の常連客と教授と光島と乾杯を繰り返し、カラオケを歌い、合いの手を入れて盛り上がった。どんなに嫌なヤツがいても、場の雰囲気を壊さず、笑顔で盛り上がれる俺を営業マン魂を褒めて欲しい。
結局、ここでも光島にはっきりした態度を示せないまま、教授が腕時計を見たのを合図に店を出た。ママは店の前まで見送ってくれ、全員にひとつずつ投げキッスをしてくれて、俺たちは笑顔で手を振って表通りへ出る。
まずタクシーを停めて教授を乗せた。光島は軽く「先生、じゃあ、また」と挨拶し、俺は最敬礼で見送って、頭を上げたら、目が合った。
「落ち着いて飲める店があります」
俺は鼻から息を吸い、吐き出せないまま、小さく頷いてタクシーを停めた。
連れて行かれたのは、囲炉裏のカウンター席があるバーだった。席に着くと、目の前の灰の上に切り炭が置かれ、火が着けられて、内側から侵食されるように赤く燃える。
「お元気そうですね」
「おかげさまで」
俺はウーロン茶を頼んだ。酒を飲んでなごやかに話すつもりはないし、酔った頭で会話しているとも思われたくない。光島も今日は一滴も酒を飲んでおらず、コーラをオーダーした。
「皆さん、お元気ですか」
「彼らの近況やプライバシーについて、お答えすることはできません」
「そうですね。私はそれだけのことをしました」
光島は殊勝な声を出し、うつむいた。
なぜ俺のほうが申し訳ない気持ちにならなきゃいけないのか。嘆息して、嫌なことはさっさと終わらせてホテルへ帰ろうと口を開いた。
「手紙を受け取りました。俺に関わるのだって、約束違反です。佐和家及びSSスラストの関係者とは接触しないという念書を交わしているでしょう」
「手紙は読んでくれましたか」
「今回は読んでしまいましたが、もう2度と読みません……余計なお世話です」
五徳の上でふつふつと沸いたアヒージョの小鍋を手許に下ろし、バケットに乗せて口へ運ぶ。煮えたオリーブオイルは熱く、バケットの尖った欠片が口の中を刺して、俺は不機嫌に言った。
「それと、俺はもうあの部屋には住んでいません。今回は転送されましたが、次の住人の迷惑になりますから、手紙を送るのはやめてください。手紙に限らず、今後一切、何の接触もしてこないでください」
光島はウーロン茶を飲みながら、はいはいと頷く。
「私は、周防くんに、私と同じ轍を踏んで欲しくない。それだけです」
光島の声は穏やかだった。
話す顔には剃刀がきちんとあてられており、髪には櫛が通っている。お馴染みのアイビールックも清潔で、プレスが利いていた。
早い段階で狂気を見抜けず、後手に回った俺の目はあてにならないが、あまりにも健全な姿に見える。
「こじれてから治療するのは大変です。カウンセリングは心の外科と呼ばれるそうです。自分で言うのも何ですが、なかなか壮絶でした。入院して、凶器となりうるものが排除された安全な環境で過ごさなければ、とてもあんな治療は受けられなかった。手配してくれた周防くんには感謝しています」
頭を下げられて、俺はきまり悪くウーロン茶を飲む。
「別に光島さんに感謝されたくてやったことじゃない。佐和のためにやったことです」
「でも、私は周防くんに救われました。お礼を言いたいです。ありがとうございます」
どういたしましてとも言えず、黙ってウーロン茶を飲んでいたとき、ワイシャツの胸ポケットに入れていたスマホが小さく鳴動した。俺はトランプのカードを見るように通知を見て、ボタンを押し返す。
「周防くんは、相変わらず佐和くんの居場所を検索しているんですね」
俺は答えず、目の前の小皿にあるナッツを口へ放り込んで噛み砕き、いい加減ホテルに帰ろうとウーロン茶を飲み干す。
「周防くん、落ち着いて考えてください。ひたすら佐和くんを追って歩き、実家にまで入り込んで居候し、常に居場所を確認して、毎日たくさんの写真を撮って、独り暮らしを始めれば合鍵で寝室やバスルームまで入り込み、身の回りをお揃いの物で埋めつくし、アドバイスをするふりで行動を指示し、選択肢を与えているように見せかけて自分の思い通りにコントロールして、凛々可さんを巻き込んでいる……あなたは、かつての私と何が違うんですか?」
その言葉は、俺の心の中の、佐和に対して後ろめたく思っている部分を的確に刺してきた。
俺は、かつての光島と何が違うのか。
「このままでは、今は蜜月でも、いずれは破綻しますよ」
心臓の底にへばりついているコールタールが盛り上がり、光島のナイフに刺されて飛び散っていく。
「俺は……」
今すぐ余計なお世話だと立ちあがり、生涯、佐和と愛しあい、その目と耳を塞いで俺の姿だけを見せ、声だけを聞かせて生きていきたい。
「周防くん、愛と執着や依存は違うんです」
俺は佐和を自分だけのものにしたい。一生、俺だけのものにしたい。誰にも渡したくない。佐和には俺より先に死んで欲しい。最期まで俺だけのものにしておきたい。佐和は俺のものだ、絶対に離さない。
唐突にコールタールが心臓から喉元まで一気にせり上がってきた。
俺はコールタールを心臓の底へ飲み込みたくて、カウンター内にいるバーテンに告げた。
「ウーロン茶をください」
光島は身体ごと俺のほうへ向きなおって、膝の上に両手をついて話しかけてきた。
「周防くん。私は大変愚かなことに、すべてを失ってから気づきましたが、結婚というものは大変責任が重いものです。他人と人生を共にするというのは、簡単なことではありません。自分がしっかりしていないと、相手に迷惑を掛けます」
光島は背筋を伸ばし、小さく息を吸った。
「いいですか、差し出がましいことは百も承知で申し上げます」
ちらりと横目で見た俺を真っ直ぐ見て、光島は言葉を続けた。
「結婚するなとは言いません。ですが、佐和くんに依存した状態での結婚は、誰にとっても不幸になります。悪いことは言いませんから、せめて精神的自立を果たしてから結婚なさい」
「精神的自立?」
「そうです。佐和くんがいなくても生きていけると、自信を持って言えるくらい、自分の心がしっかりしてから、佐和くんを愛しなさい」
光島の言葉に刺激されたコールタールは、俺の心臓の動きを止め、気道を塞いだ。
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