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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(60)

 バーテンダーがコースターの上に置こうとしたウーロン茶を奪い取り、一気に呷った。喉に入り切らず、口からあふれてワイシャツの襟を濡らし、ネクタイも濡れた。  構わずグラスがからになるまで上を向き、空いたグラスをコースターの上に置いて、今度こそ立ち上がる。 「念書の内容は守ってください。もう2度と関わらないでくれ」  かなり多めの紙幣を置いて、俺は振り返らずに店を出た。  濡れたワイシャツが夜風に吹かれ、俺の体温を奪っていく。ハンカチを取り出して拭い、ネクタイも拭いて、ため息をつく。  カナリアイエローに濃茶色は深く沁みて広がっている。またネクタイをダメにした。 「そうだ、何色がいいか佐和に訊こう」  俺は嬉しいことを見つけて、胸ポケットからスマホを取り出し、ロック画面に佐和の顔を見る。  それは、今の新居へ引っ越す準備をしていた日の写真だ。頭をタオルで覆った佐和が、水球のボールを両手で大切そうに持ち、そこに書き込まれた俺宛の寄せ書きをひとつひとつ読んでいる姿だった。高校時代、部活を引退するときにもらった。  なぜこのボールを実家に置かず、独り暮らしを始めるときに持って出たのかといえば、それは未練と執着にほかならない。水球に関わることを諦めきれず、大学水球部の練習を見学に行けば、また楽しい気持ちを取り戻せると自分に言い聞かせていた。  実際にはプールサイドに立つことすら苦しくて、絶望を通り越していたときに佐和に出会って、その日から俺は佐和を追いかけはじめた。 「水球への執着が、佐和に転移しただけ……なのか?」  土地勘のない道を適当に歩くうちに、目の前には大きな川が広がっていた。夜の川はぬめぬめと黒く、コールタールのように見える。 「俺の愛って、何だ?」  土手に立ち尽くし、川を見た。  いつもの叫び出したいようなストレスとは違う。  たとえるなら、口の幅いっぱいのホースを突っ込まれて、コールタールを流し込まれるような、自分の内側にたまっていき、吐き出すことができない重苦しい……。 「重苦しい、俺の本性?」  自分の中の、知らない自分は、こんなに醜い姿だったのか。 「そりゃ、セックスに入り込んだら暴力的になるよな」  お姉ちゃんに暴力を振るった光島と、俺の違いなんて何もないのかも知れない。  考えるほど、身体に力が入らなくなって、黒々と流れる川を見ながらしゃがみこんだ。  川に並行して敷設された線路の上を、列車が走っていく。規則正しいリズムを刻み、連続した四角い窓が光の川のように流れる。守られた枠の中、明るい場所にいて大人しく運ばれて行く人たちが眩しく見えた。 「佐和の声が聞きたい」  こんなふうに気持ちが揺れるときほど、佐和の声を聞いて安らぎたい。佐和に笑ってもらったら、すべてが吹き飛ぶんじゃないかと思う。 「ひとりで解決できずに、佐和に縋るのも、俺が自立できていない証拠なのか」   ふらふらと黒い川と線路を見ながら歩き、駅前のあなぐらのように薄暗いバーで明け方まで過ごし、ホテルのバスタブで膝を抱えてぼんやりして、一睡もしないまま身だしなみだけ整えてチェックアウトした。  手抜きをするつもりはないが、気力や体力の無駄遣いはせずに仕事を終えて、飛行機で会社に戻る。  機内では、いつも時間を惜しんで読書をするのに、今日は佐和の青色の傍線が入った本を開く気になれなかった。自分の好みで選んだプレイリストも、今となっては何も気づかなかった過去の自分の浮ついた選曲のように思えて聴きたくなくて、機内に流れるお仕着せの音楽番組を聴いて目を閉じた。  空港の駐車場に待たせていた愛車を駆って、都心に向かう車の中で、まだ俺は不安と闘っていた。  佐和と会ったときに、俺は光島と会ったことを隠し、実りある出張だったと笑えるだろうか。ふたりきりになったとき、自分の執着を隠して「愛してる」と抱けるだろうか。  何も予想ができないまま会社に着いて、執務室のドアを開けたら、俺の椅子に姪が座っていた。 「さねおみ、おっかえりー」 「何やってるんだ、お前? どうやってここに入った?」  ビジネスバッグをデスク脇のラックに置き、姪の首から下がる入館証に、佐和の名前を見る。 「佐和に手間をかけさせたのか。俺に言えばいいのに」 「だってサワに連絡したら『会社に来る? がんばって早く仕事を終わらせるから、夜は多笑(たえ)ちゃんの好きなものを食べに行こうよ』って誘ってくれたんだもーん。サワって、会社にいるときは髪の毛オールバックにして、メガネかけてるんだね。クールで超カッコイイ!」  佐和に押しつけた髪型と個性の強いメガネも、俺の執着か。  目立たないように小さく深呼吸して、意図的に左右の口角を上げ、自分の声を丸く作る。 「佐和はいつだってカッコイイけどな。で、埼玉の山奥から、わざわざ何の用だ?」 「今日、学校が午前中で終わりだったから、この前、サワに教えてもらった化粧品のミュージアムに行ってきたの。『フェアリーワンド』の会社がやってるミュージアム」 「ああ」  結婚の挨拶をした日、化粧品メーカーが所有するミュージアムがあると、佐和が姪に話していた。 「たまたま社長さんがいて、一緒に写真撮ってもらっちゃった。見たら驚けよ、さねおみ。くっそ美人だから! マジで、くっっっそ美人っ!」  姪はそう言いながら、スマホの画面をフリックし始める。 「ふうん。お前も黙っていればそこそこ映えるから、そんなに嘆かなくてもいいぞ」  俺は持ち帰った仕事を仕分けしつつ、姪の話を聞き流す。 「そんなレベルじゃないんだって、マジで。同じ地球上の生き物か、人間かってくらい美人なんだってば。ほら、めっちゃやば」  見せられた画面に思わず目を見開く。 「めっちゃ美人でしょ?」 「ああ。たしかに、とんでもない美人だ」   俺はスマホを姪に返した。 「それだけ? さねおみ、反応うっすーい!」 「佐和以外の美人には興味がない」  姪は俺の椅子に座ったままスマホを受け取り、踵で床を蹴ってくるんと回る。 「あっそ。でもさー、こんなに美人だったら、人生の悩みなんてないよね。彼氏がいない期間なんてないよねって思って、そう言ったんだけど」 「言ったのか!」  姪の怖いものも礼儀も知らない行動に、思わず笑ってしまう。 「だって気さくで話しやすい人だったんだもん。で、言ったらさ『そんなことないですよー。彼氏に振られて、友だちとホルモン焼きを食べて、レモンサワーのジョッキを抱えて、ずっと泣きました』って。ありえなくね? どうしてこの美人が振られるよ?」 「知るか、そんなこと。恋愛は顔だけじゃないからな」 「うわー、さねおみが恋愛を知ってるみたいな言い方してる!」 「知ってるから、結婚までこぎ着けたんだろうが」  偉そうに姪を見下ろしたが、俺は本当に恋愛を知っているのだろうか。  佐和は、恋愛を知っているんだろうな。頻繁にケンカをしていたようだが、優しく接していたことも知っている。 『株式会社 (べに)高尾(たかお) 代表取締役社長 高尾古都』。姪が見せてくれた名刺を見て、思わず下唇を噛んだ。  出張先の大学で、女子学生が唇に塗りつけていた赤色を思い出す。  あの色に『朔夜』という名前がついたのは、意図的なのか、偶然なのか。 「俺はまだ仕事があるから、お前は向こうのソファに座ってろ」  名刺を返しながら追いやって、俺は仕事に没頭して自分の気持ちを切り替えた。 「周防、おかえり」  ドアが開き、佐和が顔を覗かせる。  チャコールグレーのスリーピーススーツにチェリーレッドのネクタイを合わせていて、俺は思い出した。 「ただいま。何色がいい?」 「また? じゃあ、桜色がいいかな」  佐和は明るく笑ってから、姪を見た。 「レストランの予約、とれたよ。17時半には会社を出るから、周防はがんばって」 「マジか」  佐和の顔を見て、普通に笑えた自分にほっとする。  たった一晩離れただけだ。俺が自分の本性に気づいても、佐和は何も変わっていない。見慣れた笑顔で姪に話しかけている。 「多笑ちゃん。知ってると思うけど、さねおみは集中力に波があるタイプなんだ。一気に仕事が進むように、仕事中は邪魔しないようにしてあげてね」 「はーい」  姪はお利口な返事をして、ミーティングデスクにテキストとノートを広げ、箱形の大容量ペンケースをドンッと置いた。  小さなヘアクリップを取り出し、慣れた手つきで前髪を束に分ける。何をするのかと思っていたら、器用に前髪を内巻きにしてクリップで留めていった。  前髪を斜めに留める女子学生の姿は見たことがあるが、巻く手段はコテかカーラーしか知らなかった。いろいろな手段があるものだ。  俺が積み上げられた案件の決裁を終えるあいだに、姪は物理の問題を解き終えたらしい。 「よっしゃ。やっぱ、物理は面白い!」 「変人。佐和って呼ぶぞ」 「文系のさねおみには、この面白さはわかるまい」  ふはははははは、と笑いながら、勉強道具と入れ違いにメイクポーチを取り出し、二つ折りの鏡をのぞき込む。指先で目頭や目尻を軽く拭い、あぶらとり紙で額や鼻を押さえて、メイク直しを始めた。 「社長室はメイクルームじゃないぞ」  俺の注意なんか、もちろん無視して、姪は小さな紙袋から取りだした物を俺に見せる。 「見て見て、これミュージアムショップ限定色の口紅! 『女神』! ミュージアムの語源はミューズだから!」 「へえ。物知りだな」 「古都ちゃんに教わったの」 「古都ちゃんって、社長のことだろう? 高尾社長って呼べ」 「だって、古都ちゃんって呼んでいいって言われたんだもん。また今度、友だちや彼氏と遊びに来てって。男女問わずモニターを探してるんだって。サワと一緒に行こうかな」 「佐和は行かない……と、思うけどな」  行かないで欲しいが、行かないで欲しいと思うのも、執着なのだろうか。  昨晩からずっと混乱の収まらない頭を振って、仕事にケリをつけた。

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