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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(61)
「今夜は新居に泊めてもらうから、よろしくね」
メイク直しを終え、唇に『女神』色の口紅をつけた姪は立ちあがり、リュックサックを背負いながら言った。
「はあ? おはようからおやすみまでキスしかしてないイチャラブカップルの部屋に泊まるとか、正気かお前? ダブルベッド1台しかないぞ?」
「サワが『ソファにシーツを敷いて寝ることになっちゃうけど、それでもよければどうぞ』って」
俺は真面目な顔を作って頷いた。
「佐和がそう言ったなら、それがウチの法律だ。でもウチに泊まって、明日の朝、学校に間に合うのか? 山奥まで送ってやる余裕はないぞ」
明日のスケジュールは朝からびっしりだ。明日の夜からまた出張が入っていて、今度は4日間で3か国を移動する。不在中の仕事はすべて明日の午前と午後に詰め込まれていた。
「送ってくれなくて平気。明日は貧血になって、途中の駅のベンチで休んで、遅刻する予定だから」
滅多に聞かない沈んだ声に、俺はそれ以上言い募ることはやめて頷いた。
「わかった。ママには連絡してあるのか?」
「サワが連絡してくれた」
「それなら完璧だ」
駐車場で佐和と合流し、車を発進させる。姪は後部座席に乗り込んで、黙って倒れた。何も言わず、手の中のスマホを眺めていて、バックライトに冴えない表情が照らされている。
遅刻の言い訳でなく、本当に貧血気味なのかも知れない。
佐和もバックミラーを見たが、何も言わなかった。
FMラジオからは軽快な女性ナビゲーターの案内で、最新のヒットチューンが流れている。
繊細で透き通るようなハイトーンボイスが聞こえると、姪は突然に身体を起こした。
「この曲、めっちゃ好き」
曲に合わせて歌い始めた。声の高さはもちろん違うが、姪の声質は俺とそっくりだ。佐和は姪の歌声に優しい笑みを浮かべ、曲が終わったタイミングで話しかける。
「いい曲だね。多笑ちゃんはこのバンドが好きなの?」
「ううん。でもこの曲は好き」
「そっか。僕、もうオジサンだからさ。若い人に教えてもらわないと、新しい音楽を探せないんだよ。10年前、先輩たちがご飯を食べさせてくれながら、やたら『最近はどんな音楽を聴くんだ?』って訊いてきたけど、今になると、こういうことだったんだなって思う」
「サワは、全然オジサンじゃないよ」
「そう? 経験や場数がほしくて、たくさんがんばってきて、多少のことは『前にも経験したことだから大丈夫』って思えるようになったけど、同時に何も知らなくて怖かった頃のビリビリするような、むき出しの感覚は減ってきてるなって思ってるんだ」
俺は同意して頷き、口を開いた。
「たしかに。経験を得るために、驚きや新鮮さを引き換えにした気はするな。感受性は意識して守らないと、簡単にすり減っていく」
「僕もそう思う。多笑ちゃんも自分の感受性は、自分でしっかり守ったほうがいいよ……って説教し始めたら、オジサンになった証拠だよね」
佐和はからからと笑った。佐和の説教は、結構大切なことだと思ったが、姪の反応はぼんやりしている。感受性の高い時期に言われても響かない言葉だろう。いずれ何かの折に思い出してくれたらいいと思う。俺たちもそうやって先輩たちに育てられてきた。今になってわかる話がたくさんある。
ラジオからは交通情報に続き、コマーシャルが流れる。
明るい陽射しを反射しながら揺れる若葉のような、きらきらとしたBGMに、若い女性の可愛らしいナレーションが重なる。
『明日は何する? 恋をする? 色鮮やか、うるつやジューシー。長持ちリップで、恋も長持ちしちゃうかも。新色が出たよ。さあ、毎日の私に小さな魔法を。フェアリーワンド!』
コマーシャルを聴いて、姪は佐和にスマホを見せた。
「ねぇ、サワ。この人がフェアリーワンドの会社の社長さん! めっちゃ美人でしょ?」
うわあ、お前その写真を佐和にも見せるのかよと思ったが、止める手立てはない。
俺は動揺を隠すためにハンドルを抱え、交差点の赤信号を見上げるふりで、全神経を集中し、横目で佐和の反応を観察した。
佐和は素直にスマホを受け取って写真を見たが、表情はまったく変えず、どこか一点に目を止めることもせず、すぐに多笑へ返却した。
「化粧品メーカーの社長として、自社商品を勧めるのに、説得力がありそうなお顔立ちだね。多笑ちゃんの楽しそうな笑顔が輝いている」
「それだけ? サワも反応うっすーい!」
俺は、佐和の反応に内心安堵する。
「だって、周防が世界でいちばんカッコイイもの」
佐和は爽やかな声で、きっぱりと言い切ってくれる。ついにやけてしまって、慌ててハンドルを抱える手に口許を隠した。
青信号になって走り出す前に、そっと助手席を見たら目が合った。涙袋をふっくらさせてくれて、俺の胸にはレモネードのような甘酸っぱさが湧き上がる。コールタールばかりだった胸の中が少し中和された気がした。
ナビの通りに車を進め、かつて自分たちがオフィスを構えていた、運河沿いの倉庫街へ入り込む。
「あっという間に華やかになったな」
当時と違い、沿岸の柵や街路樹には青や白のLEDライトが光って幻想的で、倉庫をリノベーションしたおしゃれな店舗はライトアップされ、ショップやカフェやレストラン、ギャラリーが並ぶ。
「面白そうなお店がいっぱい!」
駐車場から店まで、多笑は俺と佐和のあいだに入って腕を絡め、スキップするように歩いた。
俺はカバンや帽子、宝飾品、カジュアルウェアなどが並ぶショウウィンドウへ目を走らせる。
スーツ姿のマネキンに目を留めるだけで、佐和から声がかかった。
「予約の時間まで、あと10分あるよ」
俺はその店に向かって歩き、腕を組んでいた姪も、姪に腕を貸していた佐和も自動的に着いてくる。
「何? どこ行くの、さねおみ?」
俺たちを交互に見上げる姪を見下ろして、佐和はニッコリ笑う。
「周防が桜色のネクタイを買いたいって」
「え? 何でわかるの?」
「んー? ラブラブだからかなー?」
佐和は姪に寄り掛かるようにしながら笑った。
会話のあいだに俺はテーブルの上に色相環のように並ぶネクタイを見まわして、花曇りのようなグレーと桜色のストライプに、雲間から洩れる陽射しのような金色が細く上品にあしらわれたレジメンタルタイを見つけた。生地の張りも、結び目の美しさも、扱いやすさも申し分ない。
これは佐和に似合うとひと目でわかる。佐和に視線を送って、黒目がちな瞳を掴まえた。佐和は姪のおしゃべりにつきあわされながら、一瞬だけネクタイを見て小さく頷き、姪との会話に戻る。
これだけのやりとりで物事を決められる。そんな俺たちの親密さを気持ちよく感じながら、自宅用ですと言って会計を済ませた。佐和のプレゼントを買うのはいつも楽しいが、自宅用と言えるくすぐったさも嬉しい。
包みを受け取って、ふたりのところへ戻る。
「無難なのは青か紺かなぁ。値段よりも、締め心地や結び目がきれいに作れるかどうかが決め手……と、僕は思うけど」
佐和と姪はネクタイの色相環を眺めていた。
「何? 俺に誕生日プレゼント?」
ふたりのあいだに顔を突っ込み、姪に額を叩かれる。
「調子のるな」
「えー、じゃあ、誰にプレゼントですかー? 彼氏ー?」
おちょくる俺は突き飛ばされる。
「さねおみ、ウザい。店の外にいて」
「ひどい。生まれた瞬間から可愛がって、おむつもミルクも風呂も全部世話して育てたのに!」
「あー、本当にウザい! あっち行ってろ!」
すごすごと退散し、柵にもたれて運河を見た。街の光を集めてきらめく水面を眺めていたら、俺の隣にぴったりくっついて柵にもたれる人がいた。
「天の川みたいだね」
「ああ。彦星様に会いに来ました」
ふざけて佐和の顔をのぞきこみ、唇を突き出してみたら、佐和の唇がふわりと触れた。
「うっわ、マジか」
思わず指先で唇を覆ってしまった俺を見て、佐和は笑う。
「自分からおねだりしたクセに……僕がいてあげるから、多笑ちゃんに彼氏ができても、そんなに動揺しないで見守ろうね」
「ういっす。いいなぁ、恋愛」
「周防だって、これから死ぬまでずっと、僕と恋愛するだろ?」
「もちろん」
自信満々に頷いて見せながら、星の見えない東京の空を見上げ、俺はまたコールタールを思い出していた。恋愛って、何だろう。
「お待たせーっ」
駆け寄ってくる姪の手と、自分の手にあるネクタイを見て、相手の首を締めて引っ張るもの、という嫌な連想をした。
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