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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(62)

 倉庫を改装したシーフードレストランは、鉄骨が剥き出しで天井が高く、シーリングファンがゆっくり回っていて、クリスタルのかわりにワイングラスをぶら下げたシャンデリアが並ぶ。  ステージのようなオープンキッチンでは、大きなロブスターが真っ赤に蒸され、ジャグリングのように次々と牡蠣の殻が開けられて、なたのような包丁で一刀両断された魚は香味野菜が浮かぶスープの中へ沈められていた。  できあがった料理はきびきびと動くスタッフの手によって、各テーブルへ運ばれている。  料理の音と匂い、会話する人々のざわめきだけで、食欲をそそられる。そういえば、今朝からろくに食事をしていなかったことを思い出した。  案内されたロフトはいくつかの個室に分かれていて、窓の向こうには東京湾とレインボーブリッジと東京タワーが見える。 「きゃー、キラキラ!」  オーダーを終えてスタッフが退出するなり、姪は窓際へ駆け寄った。  佐和が一緒に夜景を眺める。 「キラキラは楽しいよね。今日はオジサンふたりだけど、今度は彼氏と来なよ」  姪は小さくため息をついた。 「来るって言うかなー? ふーん、だから何? こんなのビルの電気じゃん、みたいな人なんだよね」  その優しさの欠片もないセリフを聞くだけで、俺は眉間にシワが集まる。  俺の表情を見た佐和は逆張りして、理解を示す態度をとる。 「ロマンチックなことは苦手な人なのかな? 僕もそう思っちゃうタイプなんだ。でも大好きな人が連れてきてくれたら、とっておきの宝物を見せてもらったみたいで、嬉しいと思うよ」  とりなしの言葉にも、姪は苦笑して前髪を撫でつけながら首を傾げるだけだ。  佐和も少し心配そうに姪を見ていた。  マリネやカルパッチョ、カクテルシュリンプ、魚介のスープと皿が進むあいだ、姪はミュージアムで見聞きしたことを話した。 「ほかにお客さんがいなかったから、古都ちゃんが一緒に回って説明してくれたんだけど、面白かったよ。江戸時代でも、白いハイライトを鼻筋に入れたり、水おしろいとお粉を重ねて、余分なお粉を刷毛で払い落としたり、メイク術が今と全然変わらないの! ハイブランドから100円ショップまであるのも同じ!」  日本語なのにまったく理解できない部分があるが、姪の喜びと興奮は伝わってきた。 「私、古都ちゃんと話してて、メイク関係の仕事がしたいなーって思い始めちゃった」  女神色の口紅をつけた口で、ひらひらとスプーンですくったスープを飲みながら、笑顔で早口で話し続ける。 「いろんな仕事があるんだって。ビューティーアドバイザーくらいしか知らなかったけど、素材や効果を研究したり、香りを作ったり、パッケージやディスプレイのデザインをしたり、販路を広げる営業をしたり、宣伝したり、特許なんかの権利関係を管理したり、物流を管理したり、普通の事務の仕事もいろいろ。古都ちゃんはずっと別の化粧品メーカーでマーケティングの仕事をしてたんだって!」  古都の名前が出るたびに、俺の心の中にはさざ波が立ったが、佐和は古都の名前が出ても、まったく知らない人のように振る舞った。きちんと姪の話を聞いて、微笑みを浮かべて相槌を打つ。 「マーケティングも面白い仕事だと思うよ。ひとつの会社の中にも、いろんな仕事があるから、自分がやりたいことや得意なことを見つけて、自分が好きになれる会社に行くことができたら、理想的だね」  佐和の言葉に姪は頷き、金色のスープを飲んで、また口を開いた。 「でもさぁ、赤ちゃんができたら、仕事と両立するのは大変だよねって話も、古都ちゃんとしてさー」 「ずいぶん先の話までしたんだな」  俺は苦笑したが、佐和は真面目な顔で頷いた。 「日本で働く女性にとっては、そこはまだまだ大きな障壁になりがちだよね。仕事をするのに子どもが邪魔なんて考え方は、とてもナンセンスだと思うけれど」 「古都ちゃんもそう言ってた。でも古都ちゃんの会社は改革が遅れてるんだって。出産や育児支援の制度はあるんだけど、会社の体質が古くて、産休や育休を取る人は肩身の狭い思いをしていて、育休が終わっても育児との両立が難しくて辞めちゃう人が多いんだって。変えていかなきゃいけないと思って取り組んでるって」 「素晴らしいことだ。上手くいくといい」  組織の風土や文化を変えていくというのは、簡単ではない。このことに関しては、古都の手腕が発揮されるようにと、心の底から願った。 「古都ちゃん自身は、赤ちゃんは無理かなーって。彼氏と別れちゃったしって。古都ちゃんめっちゃいい人なのに、別れるとか、マジでありえなくない? それもさぁ『ずっと好きだと思ってた人がいたんだけど、やっぱりその人のことが大好きだから別れる』って言われたんだって! えっ、それって二股ですか? マジでひどくない? 腐れ縁だけど、結婚もあるかなって思ってたのに、急展開だったって! ひどい!」  ほぐした蟹の身を口に含んでいた佐和はむせ返り、ナプキンを口に当てながら頷いた。 「それはひどいね!」 「だよね! 古都ちゃんの魅力がわからないバカなら、別れてくれたほうが古都ちゃんのためかなって思うけどさー。古都ちゃん、マジで可哀想!」  姪は憤慨してフォークを持ったままテーブルに頬杖をつき、佐和も苦笑しながら頷いていた。 「そんな男とは、別れて正解だったと思うよ。多笑ちゃんがそこまで魅力的だと思う人なら、きっともっといい人と出会って、幸せになれる」  佐和は目を細めて姪に笑いかけ、話を切り替えた。 「ここにいない人の話はこれくらいにして。多笑ちゃんは、この曲を知ってる?」  佐和は自分のスマホから曲を流して、姪に渡した。 「あ、知ってる。いいよね」 「僕、よく知らないんだけど、このバンドのボーカルって、別のバンドでも……」  質問を重ねようとしたとき、佐和のスマホが鳴動した。画面には経理財務部門の女性スタッフの名前が表示される。  マネージャーやディレクターを通さず、直接佐和に連絡が来ることと、その時間帯に、俺は思わず顔をしかめる。 「嫌な予感がするな」 「僕も。この時間だと皆、電車の中にいて、ほかの誰にも連絡がつかないまま、僕のところに来たかな」  ポケットからヘッドセットを取り出しつつ、失礼と席を立って、スマホを手に部屋の隅へ移動する。  眉根を寄せていた佐和だが、応答するときは相手を安心させる爽やかな声と笑顔だ。 「お疲れ様です、佐和です」  相手の言葉を聞くなり、佐和は自分の腕時計を見て、聞き取った内容をスマホにメモする。 「うん、うん。早い段階で報告をくれてありがとう。おかげですぐに対応できる。……本当は僕にはちょっと言いにくかったんじゃない? そんなことなかった? ……えー、大丈夫だよ、そんなの。僕が頭を下げればいいだけのことでしょう? ……平気、平気。僕がごめんなさいって言うだけで片づくなら、それでいいじゃん」  佐和は恋人に話し掛けるよりも優しく明るく穏やかな声で話す。 「……ええ? だったら社長にもお願いしますって言って、頭を下げてもらえばいいんじゃない? そんなのはあとで僕が社長と話すから、心配しなくていいんだよ。社長にだって、僕がすみません、お願いしますって頭を下げれば済むことでしょう。社長には僕から報告しておく。……えー? 社長はそんなことで文句を言ったり、嫌な顔したりしないと思うけどなぁ!」  明るい声を出すために口許を笑ませながら、同時並行で送られてくる情報を確認していく。さらには簡潔な文章で状況を俺に送ってきて、それは俺だったらまず胃のあたりを押さえてうずくまりたくなる内容だった。 「……おーい、泣くなよー。泣くのはまだ早いよ。お疲れ様のときにしよう。……僕は、これからどこへ行けばいい? 本店かな? ああ、法人営業部。大丈夫、場所はわかるよ。うん、タクシーを使えば15分か20分くらいじゃないかな」  俺は佐和に向けて軽く手を挙げ、「タクシーを呼ぶ」と声を掛けた。佐和は手を挙げて応えながら、相手にまた優しい声をかける。 「……ねぇ、ちゃんとご飯食べた? 温かいお茶とお菓子くらいはお腹に入れましょう。食事をしたって誰も怒らないし、飲まず食わずで頑張ったって、誰も褒めてくれないよ。……あ、そうだ。お疲れ様会で何を食べたい? ……ね。これが終わったあとのごほうびを考えて、それを楽しみにがんばろう。とりあえず40分後に。……じゃあ、あと2時間だけ歯を食いしばって、腹に力を入れて、一緒にがんばりましょう」  佐和は明るく力強く話して通話を切った。 「楽しいところだったのに、呼ばれちゃった。僕の代わりに周防がワガママを聞くから、何でも言って。あとでまたウチで会おうね」  姪に右手を差し出して笑顔で握手し、俺の肩を抱いて頬にキスをして、 「進捗はまた報告する」  と小さな声で言った。 「なにかあればいつでも。先に俺から電話を入れておく」 「先方、営業部長はもう帰っちゃってて、次長だって」 「構わない。次長の名前がわかったら教えて。俺から連絡しておく」 「じゃあ、そうしてもらおうかな。お願いします。明日は周防が頭を下げる番だから、よろしくね」 「もちろん。そのくらいお安い御用だ」  俺は胸を張った。胸中は何時も不安な臆病者だって、佐和の前ではカッコイイ自分でいたい。  ドアを開け、部屋を出て行った佐和は、スーパーヒーローがマントを羽織るようにジャケットを着ながら、颯爽と歩いて行った。 「サワ、カッコイイ」 「そうだな」

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