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【番外編】恋とは、まことに付き合いにくい感情であった。(63)
俺にできることは、次長へ電話と、お姉ちゃんへ明日のリスケと、謝罪の折に持参する手土産の手配を依頼することだけだった。
「さねおみ、あんまり仕事しないんだね」
「ばーか。役割が違うだけだ。今のままじゃ、明日は予定の飛行機に乗れるかどうか危ういくらいには働いてる」
姪を連れてレジデンスの駐車場で車を降りて、先日手紙を手渡してくれたコンシェルジュと黙礼を交わし、メールボックスをチェックする。
光島からの手紙がないかと無意識に恐れ、何もないことに安堵している自分に気づく。
エレベーターに乗ると、姪が俺の顔をのぞきこんできた。
「サワとエレベーターの中でふたりきりになったら、チューする?」
「カメラの前でそういうことをするのは趣味じゃない」
頭上の防犯カメラを指さしたが、かつて光島のカメラを言い訳に、いつも通りにしようと佐和にセックスを強要し続けた自分の手口を忘れてはいない。
俺と光島の違いなんて、どこにもない。
そのくせ、姪には偉そうな口をきく。俺みたいな奴の餌食になってほしくない。
「お前、カメラの前でヤろうとか言われてるんじゃないだろうな。プレイの内容は本人たちが納得ずくなら好きにすればいいが、リベンジポルノには、気をつけろよ」
お姉ちゃんは、光島との夫婦の時間を性的なプレイの一環として撮られていた。
光島から離れてすぐ、お姉ちゃん自身が遠隔操作ですべてのデータを消し去ったので、どのような写真が撮られていたのか、具体的な内容は知らない。だが最近、お姉ちゃんを帯同した出張先で、サシで飲んだときに聞いた話が忘れられずにいる。
「いつの間にか、慣れちゃってたんだよねー」
「慣れる? 殴られることに?」
「うん。おかしいなとは思うんだけど、目の前の現実に対処することで精一杯で、よく分からなくなっちゃうの。毎日生き延びるだけで精一杯」
「そういうとき、助けを求めるために俺がいるんだろうが」
「その頃には、自己肯定感が低くなっちゃってて、『自分が悪いから、殴られているんだ』って思いこんでいて、周防くんにもそう言われるんだろうなって、勝手に決めつけてた」
「大馬鹿野郎が。俺がそんな偉い立場だったことが1度でもあるか? 俺はいつだって、佐和きょうだいの下僕だ」
派手なウィンクを決めて見せたら、お姉ちゃんはベイリーズの泡を唇につけたまま笑ってくれた。
「今になって思うと、変だったって思うんだけどねー」
コーヒーリキュールとベイリーズが2層にわかれたグラスを両手で包み、お姉ちゃんは首を傾げて見せた。
「慣れる前に、一発目でヤバいと思わなかったのか」
「んー。初めて写真を撮られたり、殴られたりしたときは、ショックを受けたはずなの。でも、その直後ってすごく優しいのよ。ごめん、愛してる、愛情なんだ、わかってくれ。愛してるから甘えてしまうんだ。わかってくれるのは凜々可だけだって。こっちも好きだから、許しちゃうのよね」
「好きだからって、そんなに許せるものなのか」
「応じなかったら機嫌が悪くなるの。上機嫌と不機嫌の匙加減が上手くて、調教されていく感じ」
「調教?」
「親の機嫌を伺って過ごす子どもと、似たような心理だと思う。それが常識だと信じて、このくらいは自分が我慢すればいいんだって思うようになっちゃう。彼は生い立ちに恵まれていないからとか、根は優しい人だからとか、寂しがり屋だからとか、いろんな理由を考えて納得して、この人は私にしか甘えられないんだわって優越感にひたって愛しちゃう。それが本当の愛かどうかは別よ。ただ、そのときはそう思ってたの」
会話を思い出しているあいだにエレベーターは到着した。
カードキーを通してドアを開け、姪を追い抜いてさっさと家の中へ入る。姪は左右色違いのコンバースを、かかとを踏みつけあって脱ぎ捨てた。
「脱いだ靴は揃えろよ」
そのままあとをついて来ていると思って話して振り返ったら、姪がいなかった。
「うっわ、これ絶対にサワの部屋。めっちゃシンプル。大人の男って感じ」
それぞれの書斎のドアは開けてあって、用事があれば互いに勝手に足を踏み入れるのだが、姪は完全に好奇心だ。
「勝手にひとの部屋をのぞくなよ。ガキが飲めるものはコーヒーか水。どっちがいい?」
「カルピス」
「ない。コーヒーか水」
「やだ、カルピス! さねおみ、コンビニダッシュ1本。ついでにお風呂上がりのアイスも!」
「ざけんな」
「さねおみ、やっさしー! 愛してる!」
俺はため息をつき、玄関でサンダルに足を突っ込む。
「風呂に入ってろ。アイスはガリガリ君でいいのか」
「雪見だいふくも!」
はいはいと重ね返事をして部屋を出た。
姪につい甘くしてしまうのは、生まれた瞬間から見守っている親しさだけでなく、自分に似た不器用さへのシンパシーを感じるからだ。
好きだと思ったら一直線で、マニアックなほどにのめり込み、徹底的に追いかけてしまう。ほどほどにしておけというアドバイスをもらっても、そのほどほどがわからないし、わかったところでほどほどなんかでは満足できない。
自分が突っ走っているときは爽快感しか感じないが、姪の姿を客観的に見ると心配になる。心配になるが、同時にそこまで突っ走りたい気持ちもわかって、俺は何も言えず、ただ好きな飲み物や風呂上がりのアイスを買い与えてしまうのだ。
コンビニでカゴを手に、カルピスの原液と菓子パンやスナック菓子を選び、たくさん並ぶアイスの前に立つ。
佐和はパピコ、俺はガリガリ君が好きだ。
さらに最近は、ピノは定番と期間限定の両方を買って、ふたりで半分ずつ食べる。
半分食べて、相手のためにとっておく。横一列に3個残っているピノを食べるとき、佐和が食べた時間や、俺のためにとっておいてくれる優しさ感じる。
俺を思い出してくれる一瞬を逃さずに感じたい。佐和の生活に浸透したい。俺と光島のどこが違うのか。
バスルームからはスマホのスピーカーでは支えきれない大音量の音楽が割れて響き、俺は佐和から届く進捗に目を走らせた。
こちらの誠意は伝わった。喫茶店でコーヒーを飲んで、担当者の不安と緊張を吐き出させてから解散すると書いてあった。
「さねおみ、ご苦労」
「ういっす、恐悦至極」
バスルームから出てきた姪は、高校の体操服を着て、コップに注いだカルピスに水を混ぜてごくごくと飲む。濡れた髪から華やかなシャンプーの香りを漂わせ、俺の隣に座ってカウンターテーブルに鏡を据えて、大きなポーチからどさどさと並べた化粧品を、順番に顔に塗りつけていく。
俺はガリガリ君をかじりながら、その様子を眺めた。
「メイクってそんなに面白いか?」
「これはメイクじゃなくて、スキンケア。メイクするにも、ベースの肌の調子が整ってなきゃね。さねおみだって、きれいにメイクした女のほうが好きでしょ?」
「女のメイクに関しては、どっちでも。本人が納得するほうでいい。愛しい佐和はいつもすっぴんだ。誰が何をしても、しなくても、惚れるときは惚れる」
恋とはまことに付き合いにくい感情であった。
そんな一節を思い出しながら、姪が肌を調える様子を眺めた。
メイクのよしあしや功罪についてはわからない。ただ、鏡をのぞきこんで健気に自分と向きあう姿には、愛おしさを感じる。
かつての佐和もきっと、こんなふうに古都のスキンケアやメイクを眺めていたのだろう。
鏡に向かう古都と、隣で頬杖をついて眺める佐和と。ときどきは佐和が飽きて抱きついたり、じゃれつく佐和を古都が笑いながら邪険にしたり。休日の朝、自分とデートするために施されるメイクを佐和はきっと笑顔で見ていた。
またコールタールがせり上がる。変えられない過去への嫉妬、誰よりも佐和の人生に入り込んでいきたい欲求。嫌なものばかりが練り込まれている。
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